告白の翌朝。目が覚めると、まず昨夜の乃亜の声が頭に響く。
「君のことが、好きだ」
あのシンプルで重みのある言葉が、何度も何度もリフレインする。枕に顔を押し付けて、思わず声に出してしまう。
「あれ、夢だったらどうしよう……」
でも、鞄のポケットに入れたままの詩の紙と、サロンのスペアキーが現実を教えてくれる。両想いって、こんなにすごいんだな……。
そして、勝手に妄想が暴走していく。付き合ったら、毎日あいさつのキスとかするの?服とか借りたりするの?おそろいとか言ったりするの?いきなり手つなぎで校内を歩いたり……どうしよう……無理だ!頭爆発しそう……。
自分の妄想で顔が真っ赤になって、ベッドの上をゴロンゴロン転がる。恋って、こういうことか……人を狂わせるんだ……。
その時、スマホに一件の通知が入る。
『おはよう。昨夜はありがとう。今日も会えるのが楽しみだよ』
乃亜からのメッセージだった。文面は丁寧で、でもその向こうに彼の笑顔が見えるような気がする!
返信しようとして、指が止まる。なんて返せばいいんだ?「おはよう」だけじゃ素っ気ないし、「楽しみ」って返すのも恥ずかしい。
『おはよう。俺も』
シンプルに返して送信ボタンを押す。すぐに既読がついて、またメッセージが来た。
『今日の君は、どんな服を着てくるのかな』
なんだそれ。ちょっと噴き出す。俺の服装なんて、いつも適当なのに。でも、なぜか急に鏡を見て、今日着る予定だったTシャツを見直してしまう。
結局、クローゼットの奥にあった、今年買ったばかりのシャツに着替える。センスのない俺にしてはマシな方だろう……。乃亜に会うのが楽しみで仕方がない自分が、妙に恥ずかしい。
◇
一限の心理学概論の講義中、俺は集中できずにいた。教授の声が遠くに聞こえる中、ふと視線を感じて右側の窓に顔を向けると、乃亜が廊下からこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼が小さく微笑み、俺の鼓動が跳ね上がる。慌てて前を向くと、隣の席の陸が小声で囁いてくる。
「おい、凪、NOAくんと知り合いになれたの?さっきからずっとおまえのこと見てるんだけど!」
「まあ……普通に……べつに、何もないし」
「嘘つけ、顔真っ赤じゃん。ほんと、どういう関係なんだよ」
授業が終わると、乃亜が俺の席まで歩いて来た。陸や友人たちの視線が痛い。
「お疲れさま。次の授業は?」
「三限まで空いてる」
「なら、一緒にいよう」
当たり前のように言われて、俺の顔がまた熱くなる。友人たちが「おー」と冷やかしの声を上げるのが聞こえるが、乃亜は堂々としていて、まったく気にしていないようだ。その時の俺は、乃亜の後を着いていくことだけで必死だった。
昼休みになり、俺たちはいつものベンチに少し早めに到着。乃亜がニッと笑いながら、自然に俺の隣に座る。本当に付き合ってるんだなあ……と感傷に浸る。俺が好きな人が俺を好きでいてくれる奇跡。
カフェでテイクアウトしたサンドイッチとアイスティーで、簡単にランチを済ませる。
ふと視線を落とす。今朝選んだシャツが正解だったか、急に気になりだす。その不安が伝わってしまったのか、乃亜が声をかけてくれた。
「今日のブルーグレーのシャツ、似合ってるよね」
朝の彼のメッセージを思い出して、今日選んだ甲斐があったと心の中でジャンプして喜ぶ。
「……ありがとう。乃亜のシャツも綺麗な色だな」
彼のシャツの色は夏らしい涼しげなライトブルー。ヘーゼルの瞳を美しく際立たせ、いつもよりも爽やかに見える。
すっごく似合っている。モデルだから何でも着こなしてしまう。ただただ憧れるし、マジで……かっこいい。
すると、何も言わず、乃亜の手がふわっと俺の手の上に乗せられる。びっくりしつつも、俺は手のひらを返してぎゅっと握る。
「手、温かいね」
「乃亜の方が温かい」
目を合わせる時間が、いつもより長い。こんなに近くで見つめ合うなんて、昨日までは考えられなかった。
え、これ……キスされる空気じゃない?来る?来る?来るのか──。
でもここは大学のベンチだぞ?ダメだぞ乃亜。
そのタイミングで、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。俺がびくっとして手を離そうとすると、乃亜が握り直してくる。
「今のは……惜しかったよね」
乃亜は悪戯っ子のように笑い、俺の顔は熱に染められていく。
「こ、こんなところで何する気だよ」
「何って……君の反応を見てただけ。真っ赤になってて可愛いね」
乃亜が俺をからかう……普段のクールな彼とは全然違っている。これが恋人の距離感なのか……破壊力がすごい。
「手、繋いだまま歩いてみる?」
「え?」
「誰も見てないところで」
立ち上がった乃亜に手を引かれて、俺も立ち上がる。人気のない中庭の裏手へ向かいながら、繋いだ手が汗ばんでいくのが分かる。
「緊張してるの?」
「してないよ」
「嘘。手に汗かいてる」
指摘されて、余計に恥ずかしくなる。でも、乃亜は俺の手を離さない。中庭の裏手にあるベンチに座り直すと、乃亜が俺の手を両手で優しく包み込む。
「こうして触ってると、昨夜のことが現実だったって実感する」
「俺も」
「指、絡めてみる?」
恥ずかしがりながらも、俺は指を彼の指に絡める。こんなことするのは初めてで、どうしていいか分からない。指を絡めるのは、正直変な気持ちになってしまう。普通に手を繋ぐより親密な関係みたいで。
「上手」
「何が上手だよ」
「手の繋ぎ方」
馬鹿にされてるのか、褒められてるのか分からなくて、俺は苦笑いする。でも、繋いだ手が温かくて、離したくない。
「ここだと、二人っきりになれそうだね」
「おまっ、何する気?」
次の瞬間、彼の額が俺の肩にすとんと落ちる。
「ちょっと、誰か来たらどうするんだ……」
「ちょっとだけ休憩」
心臓は壊れそうに激しく音をたてる。
「おまえ、甘えん坊すぎない?」
「うん……そうかも、甘えちゃダメ?」
「ダメじゃないけど……ここ大学だから……ここじゃダメ」
そう言うと、乃亜は顔をあげる。
「ここじゃなかったらいいの?」
「……うん」
「じゃあ、後でね」
そう言って、乃亜は笑顔で立ち上がり、講義に向かう。
取り残された俺は、心臓が静かになるのを大人しく待つ。
「これが恋人の距離か……」
呟いた言葉が、風に溶けていった。
◇
翌日。今日は乃亜に大学で会えなかったから、夕方の講義が終わると、お土産を買ってから、サロン「Minuit」へ。自然に足が向いてしまう。もう遠慮することはない、会いたい時に乃亜に会いに行ける。
店に入ると杏奈さんが奥で電話中だった。乃亜とふたりきりの空間に、なぜか胸がときめく。
「お疲れさま」
カウンターの向こうから乃亜が振り返る。エプロン姿の彼を見ると、なぜか安心する。
「これ、お土産」
マリアージュ・フレールの小さな袋を乃亜に渡す。さっき買ったばかりの、サクラ・トーキョーという茶葉。
「わざわざありがとう。日本限定のだよね?季節外れの桜って、ちょっと詩的じゃない?」
「まあそうだな。夏だけど、桜のお茶って、けっこういいかなと思って」
「うん。そろそろ桜が恋しくなってきたし、限定に弱いんだ俺」
乃亜はかなりテンションが高くて嬉しそうだ。プレゼントできて良かったなあ、とホッと息をつく。
乃亜は丁寧にサクラ・トーキョーを淹れ始める。その手つきを見ていると、以前とは違う安心感があった。恋人になったからなのか、それとも単に慣れたからなのか。
「今日は少し濃いめに淹れてみる。君の好みに合わせて」
「俺の好み、覚えてるんだ?」
「当然。君がどんな表情で紅茶を飲むか、ずっと見てたから」
そんなに見られていたなんて、知らなかった。恥ずかしいけれど、嬉しい気持ちが勝る。
紅茶を蒸らす時間、ふと乃亜が俺の髪に手を伸ばしてきた。
「……ここ、ちょっと変になってる。触っていい?」
髪を指で整えたあと、耳たぶを軽く摘まれる。俺はもう何も喋れなくなる。
「君の耳、赤くなっちゃったね」
「触るからだろ」
「うん、可愛いね本当に」
にやけた表情の乃亜。この空気感、なんか恥ずかしくなる。すると、乃亜の表情がすっと元に戻り、カウンター越しに目線が重なり合い、顔が近づいて来る。紅茶の香りと、彼の匂いが混じって、ふわふわとした気持ちになってくる。
「君は詩だよ」
「俺は詩なんかじゃない」
乃亜が少し笑って答える。
「そう?でも俺はもう……他の詩が一行も書けないくらい、君の詩でいっぱいなんだけど」
乃亜の熱い視線に溶けそうになる。雰囲気的に絶対キスが来る!と思ったその瞬間。
杏奈さんの咳払いが聞こえて、俺たちは慌てて離れる。彼女がニヤニヤしながらこちらに近づいて言う。
「お熱いですね、お二人とも。でも営業中なのよ今」
二人で顔を見合わせて噴き出す。俺の心臓はドクドク煩くて、顔は火照ったままだった。
「紅茶、淹れてもらってただけです」
「あら、紅茶ってそんなに顔を近づけて淹れるものだったかしら」
完全にからかわれている。乃亜も苦笑いしながら、カップに紅茶を注いでくれる。
「サクラ・トーキョー、香りがいいね」
話題を変えようと感想を言ってみると、乃亜が頷く。
「緑茶と桜の花、それに果実の香りが混じってる。春と夏が一緒に来た感じ」
「両方の季節が同時にくるってこと?」
「そうかもしれない。君と俺みたいに慌ただしい」
また詩的なことを言われて、俺はなんだか照れてしまう。杏奈さんが「微笑ましいわ」と笑って去っていく。
紅茶を飲みながら、他愛もない話をする。昨日までとは違って、会話の間に甘い空気が流れているのが分かる。
「今度の休日、一緒に過ごさない?」
乃亜が提案してくる。
「どこか行くの?」
「特に決めてない。ただ、君ともっと一緒に時間を過ごしたいだけ」
素直な言葉に、ほんわりと温かくなる。
「俺も、そうしたい」
「じゃあ、決まりだね」
杏奈さんが「若いっていいわね」と呟いているのが聞こえたが、もう恥ずかしがってはいられない。
夜の10時半になると、「後はよろしく」と言って杏奈さんは帰り支度を始める。「Minuit」はお客さんがいない時は早めにクローズする。ラストオーダーは11時だから、そろそろ閉店準備に入る。
「二人とも、あまり遅くならないようにね」
意味深な笑みを残して帰っていく。二人きりになった店内は、いつもより静かに感じられた。
「片付け、手伝うよ」
「ありがとう。でも、あまり慣れてないでしょ?」
「覚えたい。この店のこと、もっと知りたいから」
乃亜の表情がパッと明るくなる。とても嬉しそうだ。もっと、喜ばせてあげたいな。
二人で片付け作業を進めていくと、穏やかで照れくさい空気が流れていた。乃亜と一緒に同じことをしているだけで、幸福感で満たされる。
「カップ、こうやって洗うの?」
「そう。でも、もう少し優しく」
乃亜が後ろから手を添えて、一緒にカップを洗ってくれる。彼の体温を背中に感じて、集中できなくなる。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘。また手が震えてる。俺にくっつかれて困ってる?」
指摘されるたびに、余計に意識してしまう。背中に乃亜の体温を感じて確かに緊張していた。でも……。
「嫌じゃないから。このまま続けていいよ」
「ふーん」
少しふざけた声色でさらにくっついてくる。
また……こいつ、からかってるな。そう思いつつも、そのまま彼の温もりに包まれたまま、カップを洗い続ける。
たまに触れ合う手にドキドキして、耳元にかかる熱い吐息がこそばゆい。正直変な気持ちになったけど、悔しいから乃亜には言わない。
作業を終えて、二人でカウンターに並んで座る。
「今日は……楽しかった」
ぽつりと呟くと、乃亜がふとこちらに真剣な眼差しを向ける。そして、少しだけ低い声で問いかけてくる。
「もし……今夜、ずっと一緒にいたいって言ったら……君は困る?」
一瞬、時が止まったような間があった。乃亜の瞳が、いつもより熱を帯びている。
これって……そういう意味だよな?恋人同士が……その、もっと親密になるっていう。
俺は恥ずかしくて、だけどたどたどしく答える。
「困らないけど……じゃあ、俺が就職決まったら、な」
乃亜がふっと笑って「約束ね」と言い、続ける。
「その時は、朝まで一緒にいよう」
「朝まで……」
想像しただけで顔が熱くなる。でも、嫌な気はしない。
扉を開けると、外の生ぬるい風がふたりを包む。一緒に歩く夜道が、昨日とは全然違って感じられた。
「送っていくよ」
「駅まででいいよ」
「分かった。じゃあ、駅まで歩こう」
夜道を手を繋いで歩きながら、俺たちは他愛もない話をする。明日の予定、好きな映画、読んでいる本。恋人になったからといって、特別なことを話すわけじゃない。でも、すべてが特別に感じられる。
駅に着くと、乃亜が俺の手をぎゅっと強く握る。
「また明日ね」
そう言って俺の手を持ち上げ、手の甲に軽くキスを落とす。
「もう……人に見られたらどうするんだよ……」
俺は恥ずかしくなって強めに言ってしまう。彼のフランスの血は恐ろしい……。映画でしか見たことない光景だ。王子様がお姫様にキスの挨拶をするやつ。
「大丈夫、誰もいなかったからしたんだよ」
そう言って乃亜は、フッと笑う。
「また明日な、じゃあ」
電車が来たので急いで改札に入り、乃亜に手を振ると、彼も振り返してくれた。電車に飛び乗ったら、すぐにスマホに通知が入る。
『お疲れさま。今日も君といられて幸せだったよ。おやすみ』
乃亜からのメッセージだった。
『俺も幸せだ。おやすみ』
返信して、スマホを閉じた。明日も彼に会える。その当たり前のことが嬉しくて、どうしようもない。
恋って、こんなに日常をカラフルに変えてしまうものなんだな……。以前の俺には、想像もできなかったことだ。甘い予感と少しの戸惑いを抱きながら、俺は窓の外を眺めていた。
乃亜との距離感をもっと大切にしていきたい。一歩ずつ、彼のことをもっと知って、俺のことも知ってもらいたい。そんな風に思いながら、また、彼のことを考える。
明日が待ち遠しくてしかたがない。
「君のことが、好きだ」
あのシンプルで重みのある言葉が、何度も何度もリフレインする。枕に顔を押し付けて、思わず声に出してしまう。
「あれ、夢だったらどうしよう……」
でも、鞄のポケットに入れたままの詩の紙と、サロンのスペアキーが現実を教えてくれる。両想いって、こんなにすごいんだな……。
そして、勝手に妄想が暴走していく。付き合ったら、毎日あいさつのキスとかするの?服とか借りたりするの?おそろいとか言ったりするの?いきなり手つなぎで校内を歩いたり……どうしよう……無理だ!頭爆発しそう……。
自分の妄想で顔が真っ赤になって、ベッドの上をゴロンゴロン転がる。恋って、こういうことか……人を狂わせるんだ……。
その時、スマホに一件の通知が入る。
『おはよう。昨夜はありがとう。今日も会えるのが楽しみだよ』
乃亜からのメッセージだった。文面は丁寧で、でもその向こうに彼の笑顔が見えるような気がする!
返信しようとして、指が止まる。なんて返せばいいんだ?「おはよう」だけじゃ素っ気ないし、「楽しみ」って返すのも恥ずかしい。
『おはよう。俺も』
シンプルに返して送信ボタンを押す。すぐに既読がついて、またメッセージが来た。
『今日の君は、どんな服を着てくるのかな』
なんだそれ。ちょっと噴き出す。俺の服装なんて、いつも適当なのに。でも、なぜか急に鏡を見て、今日着る予定だったTシャツを見直してしまう。
結局、クローゼットの奥にあった、今年買ったばかりのシャツに着替える。センスのない俺にしてはマシな方だろう……。乃亜に会うのが楽しみで仕方がない自分が、妙に恥ずかしい。
◇
一限の心理学概論の講義中、俺は集中できずにいた。教授の声が遠くに聞こえる中、ふと視線を感じて右側の窓に顔を向けると、乃亜が廊下からこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼が小さく微笑み、俺の鼓動が跳ね上がる。慌てて前を向くと、隣の席の陸が小声で囁いてくる。
「おい、凪、NOAくんと知り合いになれたの?さっきからずっとおまえのこと見てるんだけど!」
「まあ……普通に……べつに、何もないし」
「嘘つけ、顔真っ赤じゃん。ほんと、どういう関係なんだよ」
授業が終わると、乃亜が俺の席まで歩いて来た。陸や友人たちの視線が痛い。
「お疲れさま。次の授業は?」
「三限まで空いてる」
「なら、一緒にいよう」
当たり前のように言われて、俺の顔がまた熱くなる。友人たちが「おー」と冷やかしの声を上げるのが聞こえるが、乃亜は堂々としていて、まったく気にしていないようだ。その時の俺は、乃亜の後を着いていくことだけで必死だった。
昼休みになり、俺たちはいつものベンチに少し早めに到着。乃亜がニッと笑いながら、自然に俺の隣に座る。本当に付き合ってるんだなあ……と感傷に浸る。俺が好きな人が俺を好きでいてくれる奇跡。
カフェでテイクアウトしたサンドイッチとアイスティーで、簡単にランチを済ませる。
ふと視線を落とす。今朝選んだシャツが正解だったか、急に気になりだす。その不安が伝わってしまったのか、乃亜が声をかけてくれた。
「今日のブルーグレーのシャツ、似合ってるよね」
朝の彼のメッセージを思い出して、今日選んだ甲斐があったと心の中でジャンプして喜ぶ。
「……ありがとう。乃亜のシャツも綺麗な色だな」
彼のシャツの色は夏らしい涼しげなライトブルー。ヘーゼルの瞳を美しく際立たせ、いつもよりも爽やかに見える。
すっごく似合っている。モデルだから何でも着こなしてしまう。ただただ憧れるし、マジで……かっこいい。
すると、何も言わず、乃亜の手がふわっと俺の手の上に乗せられる。びっくりしつつも、俺は手のひらを返してぎゅっと握る。
「手、温かいね」
「乃亜の方が温かい」
目を合わせる時間が、いつもより長い。こんなに近くで見つめ合うなんて、昨日までは考えられなかった。
え、これ……キスされる空気じゃない?来る?来る?来るのか──。
でもここは大学のベンチだぞ?ダメだぞ乃亜。
そのタイミングで、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。俺がびくっとして手を離そうとすると、乃亜が握り直してくる。
「今のは……惜しかったよね」
乃亜は悪戯っ子のように笑い、俺の顔は熱に染められていく。
「こ、こんなところで何する気だよ」
「何って……君の反応を見てただけ。真っ赤になってて可愛いね」
乃亜が俺をからかう……普段のクールな彼とは全然違っている。これが恋人の距離感なのか……破壊力がすごい。
「手、繋いだまま歩いてみる?」
「え?」
「誰も見てないところで」
立ち上がった乃亜に手を引かれて、俺も立ち上がる。人気のない中庭の裏手へ向かいながら、繋いだ手が汗ばんでいくのが分かる。
「緊張してるの?」
「してないよ」
「嘘。手に汗かいてる」
指摘されて、余計に恥ずかしくなる。でも、乃亜は俺の手を離さない。中庭の裏手にあるベンチに座り直すと、乃亜が俺の手を両手で優しく包み込む。
「こうして触ってると、昨夜のことが現実だったって実感する」
「俺も」
「指、絡めてみる?」
恥ずかしがりながらも、俺は指を彼の指に絡める。こんなことするのは初めてで、どうしていいか分からない。指を絡めるのは、正直変な気持ちになってしまう。普通に手を繋ぐより親密な関係みたいで。
「上手」
「何が上手だよ」
「手の繋ぎ方」
馬鹿にされてるのか、褒められてるのか分からなくて、俺は苦笑いする。でも、繋いだ手が温かくて、離したくない。
「ここだと、二人っきりになれそうだね」
「おまっ、何する気?」
次の瞬間、彼の額が俺の肩にすとんと落ちる。
「ちょっと、誰か来たらどうするんだ……」
「ちょっとだけ休憩」
心臓は壊れそうに激しく音をたてる。
「おまえ、甘えん坊すぎない?」
「うん……そうかも、甘えちゃダメ?」
「ダメじゃないけど……ここ大学だから……ここじゃダメ」
そう言うと、乃亜は顔をあげる。
「ここじゃなかったらいいの?」
「……うん」
「じゃあ、後でね」
そう言って、乃亜は笑顔で立ち上がり、講義に向かう。
取り残された俺は、心臓が静かになるのを大人しく待つ。
「これが恋人の距離か……」
呟いた言葉が、風に溶けていった。
◇
翌日。今日は乃亜に大学で会えなかったから、夕方の講義が終わると、お土産を買ってから、サロン「Minuit」へ。自然に足が向いてしまう。もう遠慮することはない、会いたい時に乃亜に会いに行ける。
店に入ると杏奈さんが奥で電話中だった。乃亜とふたりきりの空間に、なぜか胸がときめく。
「お疲れさま」
カウンターの向こうから乃亜が振り返る。エプロン姿の彼を見ると、なぜか安心する。
「これ、お土産」
マリアージュ・フレールの小さな袋を乃亜に渡す。さっき買ったばかりの、サクラ・トーキョーという茶葉。
「わざわざありがとう。日本限定のだよね?季節外れの桜って、ちょっと詩的じゃない?」
「まあそうだな。夏だけど、桜のお茶って、けっこういいかなと思って」
「うん。そろそろ桜が恋しくなってきたし、限定に弱いんだ俺」
乃亜はかなりテンションが高くて嬉しそうだ。プレゼントできて良かったなあ、とホッと息をつく。
乃亜は丁寧にサクラ・トーキョーを淹れ始める。その手つきを見ていると、以前とは違う安心感があった。恋人になったからなのか、それとも単に慣れたからなのか。
「今日は少し濃いめに淹れてみる。君の好みに合わせて」
「俺の好み、覚えてるんだ?」
「当然。君がどんな表情で紅茶を飲むか、ずっと見てたから」
そんなに見られていたなんて、知らなかった。恥ずかしいけれど、嬉しい気持ちが勝る。
紅茶を蒸らす時間、ふと乃亜が俺の髪に手を伸ばしてきた。
「……ここ、ちょっと変になってる。触っていい?」
髪を指で整えたあと、耳たぶを軽く摘まれる。俺はもう何も喋れなくなる。
「君の耳、赤くなっちゃったね」
「触るからだろ」
「うん、可愛いね本当に」
にやけた表情の乃亜。この空気感、なんか恥ずかしくなる。すると、乃亜の表情がすっと元に戻り、カウンター越しに目線が重なり合い、顔が近づいて来る。紅茶の香りと、彼の匂いが混じって、ふわふわとした気持ちになってくる。
「君は詩だよ」
「俺は詩なんかじゃない」
乃亜が少し笑って答える。
「そう?でも俺はもう……他の詩が一行も書けないくらい、君の詩でいっぱいなんだけど」
乃亜の熱い視線に溶けそうになる。雰囲気的に絶対キスが来る!と思ったその瞬間。
杏奈さんの咳払いが聞こえて、俺たちは慌てて離れる。彼女がニヤニヤしながらこちらに近づいて言う。
「お熱いですね、お二人とも。でも営業中なのよ今」
二人で顔を見合わせて噴き出す。俺の心臓はドクドク煩くて、顔は火照ったままだった。
「紅茶、淹れてもらってただけです」
「あら、紅茶ってそんなに顔を近づけて淹れるものだったかしら」
完全にからかわれている。乃亜も苦笑いしながら、カップに紅茶を注いでくれる。
「サクラ・トーキョー、香りがいいね」
話題を変えようと感想を言ってみると、乃亜が頷く。
「緑茶と桜の花、それに果実の香りが混じってる。春と夏が一緒に来た感じ」
「両方の季節が同時にくるってこと?」
「そうかもしれない。君と俺みたいに慌ただしい」
また詩的なことを言われて、俺はなんだか照れてしまう。杏奈さんが「微笑ましいわ」と笑って去っていく。
紅茶を飲みながら、他愛もない話をする。昨日までとは違って、会話の間に甘い空気が流れているのが分かる。
「今度の休日、一緒に過ごさない?」
乃亜が提案してくる。
「どこか行くの?」
「特に決めてない。ただ、君ともっと一緒に時間を過ごしたいだけ」
素直な言葉に、ほんわりと温かくなる。
「俺も、そうしたい」
「じゃあ、決まりだね」
杏奈さんが「若いっていいわね」と呟いているのが聞こえたが、もう恥ずかしがってはいられない。
夜の10時半になると、「後はよろしく」と言って杏奈さんは帰り支度を始める。「Minuit」はお客さんがいない時は早めにクローズする。ラストオーダーは11時だから、そろそろ閉店準備に入る。
「二人とも、あまり遅くならないようにね」
意味深な笑みを残して帰っていく。二人きりになった店内は、いつもより静かに感じられた。
「片付け、手伝うよ」
「ありがとう。でも、あまり慣れてないでしょ?」
「覚えたい。この店のこと、もっと知りたいから」
乃亜の表情がパッと明るくなる。とても嬉しそうだ。もっと、喜ばせてあげたいな。
二人で片付け作業を進めていくと、穏やかで照れくさい空気が流れていた。乃亜と一緒に同じことをしているだけで、幸福感で満たされる。
「カップ、こうやって洗うの?」
「そう。でも、もう少し優しく」
乃亜が後ろから手を添えて、一緒にカップを洗ってくれる。彼の体温を背中に感じて、集中できなくなる。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘。また手が震えてる。俺にくっつかれて困ってる?」
指摘されるたびに、余計に意識してしまう。背中に乃亜の体温を感じて確かに緊張していた。でも……。
「嫌じゃないから。このまま続けていいよ」
「ふーん」
少しふざけた声色でさらにくっついてくる。
また……こいつ、からかってるな。そう思いつつも、そのまま彼の温もりに包まれたまま、カップを洗い続ける。
たまに触れ合う手にドキドキして、耳元にかかる熱い吐息がこそばゆい。正直変な気持ちになったけど、悔しいから乃亜には言わない。
作業を終えて、二人でカウンターに並んで座る。
「今日は……楽しかった」
ぽつりと呟くと、乃亜がふとこちらに真剣な眼差しを向ける。そして、少しだけ低い声で問いかけてくる。
「もし……今夜、ずっと一緒にいたいって言ったら……君は困る?」
一瞬、時が止まったような間があった。乃亜の瞳が、いつもより熱を帯びている。
これって……そういう意味だよな?恋人同士が……その、もっと親密になるっていう。
俺は恥ずかしくて、だけどたどたどしく答える。
「困らないけど……じゃあ、俺が就職決まったら、な」
乃亜がふっと笑って「約束ね」と言い、続ける。
「その時は、朝まで一緒にいよう」
「朝まで……」
想像しただけで顔が熱くなる。でも、嫌な気はしない。
扉を開けると、外の生ぬるい風がふたりを包む。一緒に歩く夜道が、昨日とは全然違って感じられた。
「送っていくよ」
「駅まででいいよ」
「分かった。じゃあ、駅まで歩こう」
夜道を手を繋いで歩きながら、俺たちは他愛もない話をする。明日の予定、好きな映画、読んでいる本。恋人になったからといって、特別なことを話すわけじゃない。でも、すべてが特別に感じられる。
駅に着くと、乃亜が俺の手をぎゅっと強く握る。
「また明日ね」
そう言って俺の手を持ち上げ、手の甲に軽くキスを落とす。
「もう……人に見られたらどうするんだよ……」
俺は恥ずかしくなって強めに言ってしまう。彼のフランスの血は恐ろしい……。映画でしか見たことない光景だ。王子様がお姫様にキスの挨拶をするやつ。
「大丈夫、誰もいなかったからしたんだよ」
そう言って乃亜は、フッと笑う。
「また明日な、じゃあ」
電車が来たので急いで改札に入り、乃亜に手を振ると、彼も振り返してくれた。電車に飛び乗ったら、すぐにスマホに通知が入る。
『お疲れさま。今日も君といられて幸せだったよ。おやすみ』
乃亜からのメッセージだった。
『俺も幸せだ。おやすみ』
返信して、スマホを閉じた。明日も彼に会える。その当たり前のことが嬉しくて、どうしようもない。
恋って、こんなに日常をカラフルに変えてしまうものなんだな……。以前の俺には、想像もできなかったことだ。甘い予感と少しの戸惑いを抱きながら、俺は窓の外を眺めていた。
乃亜との距離感をもっと大切にしていきたい。一歩ずつ、彼のことをもっと知って、俺のことも知ってもらいたい。そんな風に思いながら、また、彼のことを考える。
明日が待ち遠しくてしかたがない。



