きっかけは、たったひとつの笑顔だった。
凪が、俺以外の人間に見せる、あの自然な顔。
あんな表情、俺は見たことがなかった。彼が俺の前で笑うときは、いつもどこか遠慮がちで、自嘲気味。決して心の奥からは笑っていない。でも、森田先輩の隣で見せたあの顔は違っていた。
無防備で、屈託がなく、瞳を輝かせて笑う。まるで子供のように楽しそうな笑顔。俺の前では絶対に見せない表情だ。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れる。今まで俺が積み上げてきた“理性”という名の壁が、一瞬で瓦礫と化す。
嫉妬――そう名前をつけた瞬間、自分でも驚くほど醜い感情が心を支配していく。誰かを羨んだり、妬んだりする得体のしれない感情……。俺はかなり嫉妬深いようだ。初めてそれに気づいた。
「君がさ……あんなふうに笑うなんて、知らなかった」
言葉に出した時、自分の声が思っていたよりもずっと冷たくて、我ながら驚く。こんな俺、かっこ悪いし凪に見せたくないと思った。
知らない場所で、知らない顔で笑う彼。その事実が、どうしても受け入れられない。俺だけの前で笑って欲しいとは思わないけれど、俺にも心を開いて、心からの笑顔を見せて欲しい。それだけなのに……。
「俺が君をどう思ってるか、聞こうともしないで、勝手に決めつけるなよ」
喧嘩になった時こう言った。でも本当は――聞いてほしかったんだ。
「どう思ってるの?」って。俺がどんな気持ちで君を見てるか。
だけど凪は、こういう時、俺の目をまっすぐ見ない。そのくせ、たまにどうしようもないくらい、まっすぐ突き刺すような視線を向ける。その度に心臓が跳ね上がり、言葉を失う。
「俺だって、わからないよ。君が何を考えてるのか」
凪がそう言った時、俺たちは同じなんだと感じた。互いに怖がって、逃げて、互いを求めているようでも、歯車はかみ合わない。まったく素直になれていないし。
――好きって、そんなに簡単に言えない。
なんで君だけ、俺をこんなにも混乱させるんだろう。音楽も詩も紅茶も、すべてが君のせいでパステルカラーに染められていくのに。
これまで俺が築いてきた静かな世界に、彼という嵐が吹き込んできた。
この嵐が去っていく時、俺はどうなってしまうのか……。考えるだけで恐怖だ。
凪がいない世界なんて、想像できない。彼の存在が俺の日常に根深く入り込んでしまった今、失うことの方がずっと恐ろしい。
◇
シャワールームで、すりガラスに映る彼の背中を見たとき、もう何も抑えられなかった。
怒りでも欲望でもなくて――もっと単純な、でも暴力的な感情だ。
「この人を、誰にも渡したくない」
そんな原始的な想いが、理性をすべて吹き飛ばしてしまったのだろう。
気づいた時には、シャワールームに勝手に入り、凪の後ろに立っていた。
全身、服のままびしょ濡れで、正気ではなかったと思う。彼の裸を見て興奮したのか、嫉妬で狂ってそうしたのか分からない……。
でも、もう止まれなかった。
手首を掴んだ瞬間、彼の肌の温度が手のひらに伝わってくる。予想していたよりもずっと熱くて、生々しくて現実的だ。
感情的に、唇を重ねた。
柔らかくて、温かい。彼の呼吸を直で感じる。
ずっと我慢してたのに……理性が崩壊したのは、この時が初めてだった。
心の中はずっと”ずぶ濡れ”で、激しい嵐の中にいた……だから、言葉より先に触れてしまった。
湿った髪から滴る水滴と、彼の驚いた息遣いが俺の鼓動が混ざり合う。初めて味わう甘い混乱に、理性が溶けていく。
予想外のことが起きた。彼は俺を拒絶せず、受け入れたのだ。殴られる覚悟だったけれど彼はそうしない。哀れんでいるのか、彼も俺を好きなのか――俺は混乱していた。
しばらくキスは続く。俺が終えないと永遠に続きそうだったので、そっと唇を離す。
彼はほっとしていたのかもしれない。俺は心に秘めた想いを口にした。
「あいつのこと……好きなの?俺じゃなくて」
「森田先輩のこと?」
「そう」
自分の声が震えているのがわかった。こんなに弱々しい声で話したことがあっただろうか。いつもなら冷静に、感情を表に出さずに話すのに。
「……違うよ」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥で何かがふっと軽くなる。でも、まだ不安は消えない。
「でも、あんな顔で笑って」
その先の言葉が出てこない。「俺の前では、そんな顔で笑わないくせに」なんて、幼稚な嫉妬だとわかっているから。
「……ごめん。止められなかった」
本当は、「好きだ」と言いたかった。でもその一言を言えば、すべてが崩れる気がして言えない。
彼の瞳に映る自分が、まるで知らない誰かのように見えた。攻撃的で、必死で、どうしようもなく子供っぽい。普段見せている冷静な自分なんて、どこにもいない。
こんな醜い感情を抱く自分が、情けなくて嫌だった。
それ以来、メッセージが送れなくなった。「今日もお疲れさま」「紅茶、新しいのが入ったよ」「元気にしてる?」何度も文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。どの言葉も、あの夜の重みに比べて軽すぎる。
返事がこないことにも慣れていたつもりだったのに、彼の名前の通知がスマホにない現実はキツイ。部屋の中が暗くて冷たく感じた。
俺は凪に贈る詩を書いていた。もう、想いを伝える手段は詩しかないと思ったのだ。しかし、これをいつ渡せるのだろう……。そのタイミングすら読めない。でも俺にできるのは詩を書くことだけだ、全てをこめてみよう。
大学で、遠くから凪の姿を見つける。友人たちの輪の中で、彼はまた無防備に笑っていた。
やっぱり俺がいない場所だと、君が君らしくいられるんだな……。ちゃんと君らしくいられる居場所がある。そこには、俺の場所はきっとないだろう。
俺だって、彼と普通に笑い合える関係になりたい。でも、彼の前に立つと、いつも言葉が足りなくなる。感情が先走って、うまく表現できない。
本当は見ていたかった。彼が俺の知らない場所で見せる表情も、俺の知らない声で交わす会話も。それがどんなに切なくても。
モデルとして多くの人に見られることには慣れているのに、たった一人の人を見つめることが、こんなにも苦しいなんて。
カメラの前では何でもできるのに、凪の前では何もできない自分が歯がゆかった。
◇
再び彼がサロンに現れたときは正直驚いた。もう来てくれないだろうと思っていたから。案の定会話はぎこちなくて息が詰まりそうだった。
『La Vie en Rose』、フランス語で「バラ色の人生」という意味の紅茶を出した。凪がこの意味を知っているかは分からないけれど。
今の俺たちにとって、1番遠くて縁遠い言葉なのは確かだ。でも……いつかこの言葉が似合うようにと願いを込めて。
凪の表情を見ていると、彼も同じように迷っているのが分かった。俺たちは互いに、一歩踏み出すことを恐れている。
「……味、しない」
「乃亜が、何も言わないからかも」
そう言われた瞬間、呼吸が止まりそうになった。俺が悪いのは分かっている。なので、反論も出来ない。この美しい紅茶の味も香りも台無しにしてしまったのは俺のせい。
俺もこの日の紅茶の味と香りは覚えていない。お気に入りのお茶だったはずなのに、その記憶すら失ってしまったようだ。
凪に飲んでもらう紅茶には、いつも伝えたいメッセージを込めていた。今回も、言葉にしなくても伝わらないかな……?なんて甘い考えをもっていた。
俺の一方的な思い込みで押し付けているだけなのは分かっている。ちゃんと言葉にしなければ、どんなに想いを込めても、ただの紅茶にすぎない。分かってはいるけど、期待してしまう。言葉にしなくても、気持ちが伝わる事を……。
「君がいなくなるのが怖かった。俺、そういうの、うまく言えないんだ」
この言葉は俺が何も言えない理由を表していた。凪は全く納得してくれない。
「君の気持ちを聞くのが怖いんだよ。もし、俺の勘違いだったらって思うと……言えない」
本音だった。この一言を言うのに、どれだけ日数がかかるのだろう。
モデルとして人前に立つときは、どんなに緊張していても表情一つ変えない。でも凪の前では、ただの臆病な男になってしまう。
恋をすると、こんなにも不器用になる。詩でよく読んできた恋愛の心理が、実際に身に降りかかると手も足も出ない。完璧でありたいと思うあまり、失敗を恐れて何もできなくなる。それが俺の悪い癖だと知った。
凪が帰り際に言う。俺のことは別に嫌ってないと。嫌っていたらここには来ないとも。彼は、最初から俺に歩み寄るつもりだったんだと、初めて気づいた。
お互いが相手の想いが分からず、混乱している。結局、俺たちはすれ違い続けている。
「俺たち、バカだな」と凪は苦い表情を浮かべる。
俺のせいでこうなっているのは明白だから、俺は謝るしかなかった。でも彼は「また来るよ」と言って店を後にする。
彼は年上なんだな……と改めて思う。俺が年下だから多めに見てくれて、時間をくれているのかもしれない。
◇
ある日、廃校の校舎で撮影をしていた時のことだ。いつものように仕事をこなしていたら、何故か凪の姿があった。なんでいるの?と思ったと同時に凄く嬉しかった。
わざわざここまで俺を見に来てくれたんだなって思って。今気まずいはずなのに……。でも、彼は高揚した様子で、カッコよかったと言ってくれて、正直照れた。
もう怒ってないし、俺に会えない方が辛いからと、歩み寄ってくれた。俺はその凪の気持ちが嬉しくて、自分の気持ちを話したくなったけれど、スタッフに呼ばれて話すことが叶わなかった。
翌日、凪から心理学実験の誘いを受けた。ペアでの実験と聞いて心が躍る。俺がその相手に選ばれたことは光栄だった。なにより、凪が普通に接しようとしてくれることが嬉しい。
実験の話を聞いた時、「協力課題」「共同作業」「二人一組」という単語に、心がざわめいた。
凪と二人きりで、自然に、言葉を交わせる時間。今の自分にはそれが必要だったから。
実験が始まると、自分の声が少し弾んでいるのに気づいた。初めて、彼と一緒に何かをできる機会だから。学年も学科も違うから、同じ授業を受けることはないし、全てが初めてのことだった。
パズルを一緒に組んで、指が触れてしまったとき、彼の手の温度が思ったよりも高くて、ドキッとする。
あの夜以来、彼に触れることが怖くなっていた。でも、こうして自然に触れ合えることが、こんなにも嬉しいなんて……。最後のピースを一緒に置いて完成させた。
次は、言葉なしの伝言ゲーム。身振り手振りだけで笑い合えるなんて、思ってもみなかった。会話を交わすより、ずっと濃い時間だ。言葉がなくても、こんなにも通じ合えるなんて。
凪の笑顔は、やっぱり自然で温かい。輝く瞳が綺麗だった。俺の前でも、こんなふうに笑ってくれることが嬉しい。
森田先輩といる時に見せていた表情と、そう変わらない。もしかしたら、俺が勝手に壁を作っていただけなのかもしれない。
そして――共同作文。
『「言いたいことがあるなら、聞くよ」と上級生は静かに微笑んだ』
自分で書いた文章なのに、手が震えていた。これは凪から俺に言いたいことがあるなら、聞くよ、と言うセリフにも思えた。いや、そのままだ。この日俺は凪に自分の想いを伝えたいと思っていたから。
凪のセリフ、『青年は勇気を振り絞って「君のことが……」と言いかけたが』、ここで制限時間が来てしまう。俺はその続きが気になってしょうがなかった。
でも、もしかしたら、これでよかったのかもしれない。作文の中で伝えるより、二人だけで向き合い伝え合うべきだ。本当に大切なことなのだから。
実験が終わった後、森田先輩が凪に報酬を渡しに来た。その時凪にこそこそ話していたのが気になる。凪はまた、顔を赤くして楽しそうに話していた。
これは嫉妬すべきじゃないと自分を戒める。もう少し大人にならなければ。もう20歳なのに、精神年齢は10代のままだ。彼と釣り合うためには、成長するしかない。
しかし、俺の表情は酷かっただろう……。この感情を、完全には制御できない。でも、表に出ないようにコントロールした。
黄昏時の帰り道は、かなり良い雰囲気だった。サロンでお茶をすることになって俺は浮かれていた。今日は定休日だから二人っきりになれる。絶対に自分の本当の想いを伝えようと心に決めていた。もう準備は出来ているのだから。後は、ほんの少しの勇気を出すだけだ。
その時、ぽつぽつと雨が降ってきて、気づいた時には凪の手を握って走っていた。青春映画みたいに。幸せのゴールに向かって走る、というのが正しいだろう。
走っている俺らの姿はきっと、スローモーションのようになっていただろう。凪の笑顔のキラメキの度に時間は止まる。恥ずかしそうな凪の手を絶対に離さないと心に誓った。
彼と一緒に走る雨の夕暮れは、なぜか愛おしくて切なかった。
その後、サロンで紅茶を淹れながら、迷いは消えていく。
選んだのはAmour de Thé――“恋の紅茶”。
ベタで、甘すぎて、伝わりやすい。でも、ようやく俺の言葉が届くなら、それでいいと思った。君に恋している、というそのままの言葉を伝えたくて。
今まで抽象的で分かりにくい表現ばかりしてきたけれど、凪には分かりやすく、ストレートに伝えたい。もう遠回しな表現で逃げるのはやめよう。
「バラとバニラで、君にちょっとだけ勇気を混ぜたんだ」
香りだけで勇気なんて出るはずがない。でも、この紅茶を選んだ俺の気持ちは、きっと伝わるはずだ。
そして、名刺サイズのカードを手渡す。凪へのラブレターだ。
言葉で伝えるのが下手だから、詩で伝える。俺に出来るのはこれしかない。
『誰にも 見せなかった涙が
君を やわらかくした
だから 俺は
君が笑うときだけ 泣きたくなる
雨の夜に 泣いていた君へ』
この詩の中には、初めて会った雨の夜から、募っていった彼への気持ちを短い言葉で詰め込んだ。
俺が書く詩は、いつも抽象的で分かりにくいと言われる。でも、この詩だけは違う。凪のことを思って書いた言葉は、まっすぐで、誤魔化しがない。
彼の瞳は潤んでいて、輝いていた。ビー玉みたいにキラキラと。感動しているのかな?と思うと愛おしくて、抱きしめたくなった。でも、触れられない。また壊してしまいそうで。
初めて凪に会った時から、詩が止まらなかったことを告白した。執着的すぎて引かれると思ったけれど、彼はまったく引いていないようだ。
そして、真っ直ぐな瞳で俺に聞く。
「……ねえ、乃亜。君は、俺のこと――好き?」
ついに来た。今度は、ちゃんと答えなきゃと思っていたのに、またいつもの感じになってしまった。ただ、「うん」と言えばいいのに……。やっと聞いてもらえて嬉しかったのに。
「……君は、詩を渡された時点で、その答えを知ってるでしょ?」
俺なりの告白になってしまった。詩人気取りの、回りくどい告白。でも、これが俺らしいやり方だから。しかし、この日の凪はいつもと違う。
「詩じゃなくて、ちゃんと言って」
凪がそう求めてくれた時、胸の奥がふっと軽くなった。
ああ、君は俺の言葉を求めてくれているんだ。詩や紅茶じゃなくて、俺自身の言葉を。
「……君のことが、好きだ」
やっと言えた……。シンプルで、でも重みのある言葉。詩よりも紅茶よりも、この言葉が一番大切だった。
声に出してみると、思っていたよりもずっと自然だった。当たり前のことを、当たり前に言っただけのような。でも、この当たり前の言葉を言うのに、どれだけ時間がかかったことか。
「俺も、君のことが好き」
その言葉を聞いたとき、心底嬉しかった。
長い間閉じ込めていた感情のダムの門が開き、抑えていた想いが溢れ出していく。互いの想いが重なり合って、新しい物語が始まる予感がする。
こんなにも単純な言葉の交換が、これほどまでに世界をカラフルに染め上げていくなんて――知らない世界だ。
「……俺たち、これで恋人?」
「詩をもらった時点で、もうそうなってたのかな」
「そうかもしれない」
自然と笑い合えた。何も飾らず、取り繕わずに、ただ彼と並んでいられることが、こんなにも穏やかで温かいなんて。
今まで感じていた緊張も不安も、すべて溶けてなくなっていく。彼の隣にいることが、こんなにも自然で当たり前のことのように感じられる。
凪のことが特別だという証拠にスペアキーを渡した。彼も俺の友達や女性客に嫉妬したり辛そうだったから、安心させてあげたくて。オーナーの杏奈にも恋人が出来たら渡していいよって言われてたし。
彼は重いって言っていたけれど、表情は喜びが滲んでいた。その顔が可愛すぎで、彼の頭を犬のようになでまわす。照れ隠しでもあったけど。
彼の髪や手を触りすぎたせいか、「……なんか、キスされそうな空気なんだけど」と言われてしまった。そんな気はなかったけれど。いや、あったのかもしれない。「……したい」「でも、しない」と答えた。
彼を大事にしたいと思ったのは事実で、でも彼は本当にキスしたかったのかもしれないけれど、俺はシャワールームで無理やりキスしてしまったことを、今でも悔やんでいるから、ゆっくり進めてあげたいという気持ちが大きかった。
なので、凪が本当にしたくなった時にしようと約束した。「キスより、好き」って言葉がこぼれ落ちる。この言葉はちょっと面白くて可愛い。凪にぴったりだと思った。
俺は凪の手を頬にあてて瞳を閉じた。その瞬間、幸せを実感してほっとしていた。
雨音を聞きながら、俺は思う。これから一緒に歩んでいく日々で、俺たちはどんな物語を紡いでいくのだろう。きっと、詩よりも美しいはずだ。
今夜からは、もう一人じゃない。彼と一緒に、同じ紅茶を飲んで、同じ音を聞き、同じ時間を過ごしていく。
それだけで、平凡な日常が特別な時間に変わる。恋って、こういうものだったんだな。
──恋が、始まる音がした。
夜の始まりじゃない。
夜が香る、その少し手前。
俺たちの、その少し手前で。
凪が、俺以外の人間に見せる、あの自然な顔。
あんな表情、俺は見たことがなかった。彼が俺の前で笑うときは、いつもどこか遠慮がちで、自嘲気味。決して心の奥からは笑っていない。でも、森田先輩の隣で見せたあの顔は違っていた。
無防備で、屈託がなく、瞳を輝かせて笑う。まるで子供のように楽しそうな笑顔。俺の前では絶対に見せない表情だ。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れる。今まで俺が積み上げてきた“理性”という名の壁が、一瞬で瓦礫と化す。
嫉妬――そう名前をつけた瞬間、自分でも驚くほど醜い感情が心を支配していく。誰かを羨んだり、妬んだりする得体のしれない感情……。俺はかなり嫉妬深いようだ。初めてそれに気づいた。
「君がさ……あんなふうに笑うなんて、知らなかった」
言葉に出した時、自分の声が思っていたよりもずっと冷たくて、我ながら驚く。こんな俺、かっこ悪いし凪に見せたくないと思った。
知らない場所で、知らない顔で笑う彼。その事実が、どうしても受け入れられない。俺だけの前で笑って欲しいとは思わないけれど、俺にも心を開いて、心からの笑顔を見せて欲しい。それだけなのに……。
「俺が君をどう思ってるか、聞こうともしないで、勝手に決めつけるなよ」
喧嘩になった時こう言った。でも本当は――聞いてほしかったんだ。
「どう思ってるの?」って。俺がどんな気持ちで君を見てるか。
だけど凪は、こういう時、俺の目をまっすぐ見ない。そのくせ、たまにどうしようもないくらい、まっすぐ突き刺すような視線を向ける。その度に心臓が跳ね上がり、言葉を失う。
「俺だって、わからないよ。君が何を考えてるのか」
凪がそう言った時、俺たちは同じなんだと感じた。互いに怖がって、逃げて、互いを求めているようでも、歯車はかみ合わない。まったく素直になれていないし。
――好きって、そんなに簡単に言えない。
なんで君だけ、俺をこんなにも混乱させるんだろう。音楽も詩も紅茶も、すべてが君のせいでパステルカラーに染められていくのに。
これまで俺が築いてきた静かな世界に、彼という嵐が吹き込んできた。
この嵐が去っていく時、俺はどうなってしまうのか……。考えるだけで恐怖だ。
凪がいない世界なんて、想像できない。彼の存在が俺の日常に根深く入り込んでしまった今、失うことの方がずっと恐ろしい。
◇
シャワールームで、すりガラスに映る彼の背中を見たとき、もう何も抑えられなかった。
怒りでも欲望でもなくて――もっと単純な、でも暴力的な感情だ。
「この人を、誰にも渡したくない」
そんな原始的な想いが、理性をすべて吹き飛ばしてしまったのだろう。
気づいた時には、シャワールームに勝手に入り、凪の後ろに立っていた。
全身、服のままびしょ濡れで、正気ではなかったと思う。彼の裸を見て興奮したのか、嫉妬で狂ってそうしたのか分からない……。
でも、もう止まれなかった。
手首を掴んだ瞬間、彼の肌の温度が手のひらに伝わってくる。予想していたよりもずっと熱くて、生々しくて現実的だ。
感情的に、唇を重ねた。
柔らかくて、温かい。彼の呼吸を直で感じる。
ずっと我慢してたのに……理性が崩壊したのは、この時が初めてだった。
心の中はずっと”ずぶ濡れ”で、激しい嵐の中にいた……だから、言葉より先に触れてしまった。
湿った髪から滴る水滴と、彼の驚いた息遣いが俺の鼓動が混ざり合う。初めて味わう甘い混乱に、理性が溶けていく。
予想外のことが起きた。彼は俺を拒絶せず、受け入れたのだ。殴られる覚悟だったけれど彼はそうしない。哀れんでいるのか、彼も俺を好きなのか――俺は混乱していた。
しばらくキスは続く。俺が終えないと永遠に続きそうだったので、そっと唇を離す。
彼はほっとしていたのかもしれない。俺は心に秘めた想いを口にした。
「あいつのこと……好きなの?俺じゃなくて」
「森田先輩のこと?」
「そう」
自分の声が震えているのがわかった。こんなに弱々しい声で話したことがあっただろうか。いつもなら冷静に、感情を表に出さずに話すのに。
「……違うよ」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥で何かがふっと軽くなる。でも、まだ不安は消えない。
「でも、あんな顔で笑って」
その先の言葉が出てこない。「俺の前では、そんな顔で笑わないくせに」なんて、幼稚な嫉妬だとわかっているから。
「……ごめん。止められなかった」
本当は、「好きだ」と言いたかった。でもその一言を言えば、すべてが崩れる気がして言えない。
彼の瞳に映る自分が、まるで知らない誰かのように見えた。攻撃的で、必死で、どうしようもなく子供っぽい。普段見せている冷静な自分なんて、どこにもいない。
こんな醜い感情を抱く自分が、情けなくて嫌だった。
それ以来、メッセージが送れなくなった。「今日もお疲れさま」「紅茶、新しいのが入ったよ」「元気にしてる?」何度も文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。どの言葉も、あの夜の重みに比べて軽すぎる。
返事がこないことにも慣れていたつもりだったのに、彼の名前の通知がスマホにない現実はキツイ。部屋の中が暗くて冷たく感じた。
俺は凪に贈る詩を書いていた。もう、想いを伝える手段は詩しかないと思ったのだ。しかし、これをいつ渡せるのだろう……。そのタイミングすら読めない。でも俺にできるのは詩を書くことだけだ、全てをこめてみよう。
大学で、遠くから凪の姿を見つける。友人たちの輪の中で、彼はまた無防備に笑っていた。
やっぱり俺がいない場所だと、君が君らしくいられるんだな……。ちゃんと君らしくいられる居場所がある。そこには、俺の場所はきっとないだろう。
俺だって、彼と普通に笑い合える関係になりたい。でも、彼の前に立つと、いつも言葉が足りなくなる。感情が先走って、うまく表現できない。
本当は見ていたかった。彼が俺の知らない場所で見せる表情も、俺の知らない声で交わす会話も。それがどんなに切なくても。
モデルとして多くの人に見られることには慣れているのに、たった一人の人を見つめることが、こんなにも苦しいなんて。
カメラの前では何でもできるのに、凪の前では何もできない自分が歯がゆかった。
◇
再び彼がサロンに現れたときは正直驚いた。もう来てくれないだろうと思っていたから。案の定会話はぎこちなくて息が詰まりそうだった。
『La Vie en Rose』、フランス語で「バラ色の人生」という意味の紅茶を出した。凪がこの意味を知っているかは分からないけれど。
今の俺たちにとって、1番遠くて縁遠い言葉なのは確かだ。でも……いつかこの言葉が似合うようにと願いを込めて。
凪の表情を見ていると、彼も同じように迷っているのが分かった。俺たちは互いに、一歩踏み出すことを恐れている。
「……味、しない」
「乃亜が、何も言わないからかも」
そう言われた瞬間、呼吸が止まりそうになった。俺が悪いのは分かっている。なので、反論も出来ない。この美しい紅茶の味も香りも台無しにしてしまったのは俺のせい。
俺もこの日の紅茶の味と香りは覚えていない。お気に入りのお茶だったはずなのに、その記憶すら失ってしまったようだ。
凪に飲んでもらう紅茶には、いつも伝えたいメッセージを込めていた。今回も、言葉にしなくても伝わらないかな……?なんて甘い考えをもっていた。
俺の一方的な思い込みで押し付けているだけなのは分かっている。ちゃんと言葉にしなければ、どんなに想いを込めても、ただの紅茶にすぎない。分かってはいるけど、期待してしまう。言葉にしなくても、気持ちが伝わる事を……。
「君がいなくなるのが怖かった。俺、そういうの、うまく言えないんだ」
この言葉は俺が何も言えない理由を表していた。凪は全く納得してくれない。
「君の気持ちを聞くのが怖いんだよ。もし、俺の勘違いだったらって思うと……言えない」
本音だった。この一言を言うのに、どれだけ日数がかかるのだろう。
モデルとして人前に立つときは、どんなに緊張していても表情一つ変えない。でも凪の前では、ただの臆病な男になってしまう。
恋をすると、こんなにも不器用になる。詩でよく読んできた恋愛の心理が、実際に身に降りかかると手も足も出ない。完璧でありたいと思うあまり、失敗を恐れて何もできなくなる。それが俺の悪い癖だと知った。
凪が帰り際に言う。俺のことは別に嫌ってないと。嫌っていたらここには来ないとも。彼は、最初から俺に歩み寄るつもりだったんだと、初めて気づいた。
お互いが相手の想いが分からず、混乱している。結局、俺たちはすれ違い続けている。
「俺たち、バカだな」と凪は苦い表情を浮かべる。
俺のせいでこうなっているのは明白だから、俺は謝るしかなかった。でも彼は「また来るよ」と言って店を後にする。
彼は年上なんだな……と改めて思う。俺が年下だから多めに見てくれて、時間をくれているのかもしれない。
◇
ある日、廃校の校舎で撮影をしていた時のことだ。いつものように仕事をこなしていたら、何故か凪の姿があった。なんでいるの?と思ったと同時に凄く嬉しかった。
わざわざここまで俺を見に来てくれたんだなって思って。今気まずいはずなのに……。でも、彼は高揚した様子で、カッコよかったと言ってくれて、正直照れた。
もう怒ってないし、俺に会えない方が辛いからと、歩み寄ってくれた。俺はその凪の気持ちが嬉しくて、自分の気持ちを話したくなったけれど、スタッフに呼ばれて話すことが叶わなかった。
翌日、凪から心理学実験の誘いを受けた。ペアでの実験と聞いて心が躍る。俺がその相手に選ばれたことは光栄だった。なにより、凪が普通に接しようとしてくれることが嬉しい。
実験の話を聞いた時、「協力課題」「共同作業」「二人一組」という単語に、心がざわめいた。
凪と二人きりで、自然に、言葉を交わせる時間。今の自分にはそれが必要だったから。
実験が始まると、自分の声が少し弾んでいるのに気づいた。初めて、彼と一緒に何かをできる機会だから。学年も学科も違うから、同じ授業を受けることはないし、全てが初めてのことだった。
パズルを一緒に組んで、指が触れてしまったとき、彼の手の温度が思ったよりも高くて、ドキッとする。
あの夜以来、彼に触れることが怖くなっていた。でも、こうして自然に触れ合えることが、こんなにも嬉しいなんて……。最後のピースを一緒に置いて完成させた。
次は、言葉なしの伝言ゲーム。身振り手振りだけで笑い合えるなんて、思ってもみなかった。会話を交わすより、ずっと濃い時間だ。言葉がなくても、こんなにも通じ合えるなんて。
凪の笑顔は、やっぱり自然で温かい。輝く瞳が綺麗だった。俺の前でも、こんなふうに笑ってくれることが嬉しい。
森田先輩といる時に見せていた表情と、そう変わらない。もしかしたら、俺が勝手に壁を作っていただけなのかもしれない。
そして――共同作文。
『「言いたいことがあるなら、聞くよ」と上級生は静かに微笑んだ』
自分で書いた文章なのに、手が震えていた。これは凪から俺に言いたいことがあるなら、聞くよ、と言うセリフにも思えた。いや、そのままだ。この日俺は凪に自分の想いを伝えたいと思っていたから。
凪のセリフ、『青年は勇気を振り絞って「君のことが……」と言いかけたが』、ここで制限時間が来てしまう。俺はその続きが気になってしょうがなかった。
でも、もしかしたら、これでよかったのかもしれない。作文の中で伝えるより、二人だけで向き合い伝え合うべきだ。本当に大切なことなのだから。
実験が終わった後、森田先輩が凪に報酬を渡しに来た。その時凪にこそこそ話していたのが気になる。凪はまた、顔を赤くして楽しそうに話していた。
これは嫉妬すべきじゃないと自分を戒める。もう少し大人にならなければ。もう20歳なのに、精神年齢は10代のままだ。彼と釣り合うためには、成長するしかない。
しかし、俺の表情は酷かっただろう……。この感情を、完全には制御できない。でも、表に出ないようにコントロールした。
黄昏時の帰り道は、かなり良い雰囲気だった。サロンでお茶をすることになって俺は浮かれていた。今日は定休日だから二人っきりになれる。絶対に自分の本当の想いを伝えようと心に決めていた。もう準備は出来ているのだから。後は、ほんの少しの勇気を出すだけだ。
その時、ぽつぽつと雨が降ってきて、気づいた時には凪の手を握って走っていた。青春映画みたいに。幸せのゴールに向かって走る、というのが正しいだろう。
走っている俺らの姿はきっと、スローモーションのようになっていただろう。凪の笑顔のキラメキの度に時間は止まる。恥ずかしそうな凪の手を絶対に離さないと心に誓った。
彼と一緒に走る雨の夕暮れは、なぜか愛おしくて切なかった。
その後、サロンで紅茶を淹れながら、迷いは消えていく。
選んだのはAmour de Thé――“恋の紅茶”。
ベタで、甘すぎて、伝わりやすい。でも、ようやく俺の言葉が届くなら、それでいいと思った。君に恋している、というそのままの言葉を伝えたくて。
今まで抽象的で分かりにくい表現ばかりしてきたけれど、凪には分かりやすく、ストレートに伝えたい。もう遠回しな表現で逃げるのはやめよう。
「バラとバニラで、君にちょっとだけ勇気を混ぜたんだ」
香りだけで勇気なんて出るはずがない。でも、この紅茶を選んだ俺の気持ちは、きっと伝わるはずだ。
そして、名刺サイズのカードを手渡す。凪へのラブレターだ。
言葉で伝えるのが下手だから、詩で伝える。俺に出来るのはこれしかない。
『誰にも 見せなかった涙が
君を やわらかくした
だから 俺は
君が笑うときだけ 泣きたくなる
雨の夜に 泣いていた君へ』
この詩の中には、初めて会った雨の夜から、募っていった彼への気持ちを短い言葉で詰め込んだ。
俺が書く詩は、いつも抽象的で分かりにくいと言われる。でも、この詩だけは違う。凪のことを思って書いた言葉は、まっすぐで、誤魔化しがない。
彼の瞳は潤んでいて、輝いていた。ビー玉みたいにキラキラと。感動しているのかな?と思うと愛おしくて、抱きしめたくなった。でも、触れられない。また壊してしまいそうで。
初めて凪に会った時から、詩が止まらなかったことを告白した。執着的すぎて引かれると思ったけれど、彼はまったく引いていないようだ。
そして、真っ直ぐな瞳で俺に聞く。
「……ねえ、乃亜。君は、俺のこと――好き?」
ついに来た。今度は、ちゃんと答えなきゃと思っていたのに、またいつもの感じになってしまった。ただ、「うん」と言えばいいのに……。やっと聞いてもらえて嬉しかったのに。
「……君は、詩を渡された時点で、その答えを知ってるでしょ?」
俺なりの告白になってしまった。詩人気取りの、回りくどい告白。でも、これが俺らしいやり方だから。しかし、この日の凪はいつもと違う。
「詩じゃなくて、ちゃんと言って」
凪がそう求めてくれた時、胸の奥がふっと軽くなった。
ああ、君は俺の言葉を求めてくれているんだ。詩や紅茶じゃなくて、俺自身の言葉を。
「……君のことが、好きだ」
やっと言えた……。シンプルで、でも重みのある言葉。詩よりも紅茶よりも、この言葉が一番大切だった。
声に出してみると、思っていたよりもずっと自然だった。当たり前のことを、当たり前に言っただけのような。でも、この当たり前の言葉を言うのに、どれだけ時間がかかったことか。
「俺も、君のことが好き」
その言葉を聞いたとき、心底嬉しかった。
長い間閉じ込めていた感情のダムの門が開き、抑えていた想いが溢れ出していく。互いの想いが重なり合って、新しい物語が始まる予感がする。
こんなにも単純な言葉の交換が、これほどまでに世界をカラフルに染め上げていくなんて――知らない世界だ。
「……俺たち、これで恋人?」
「詩をもらった時点で、もうそうなってたのかな」
「そうかもしれない」
自然と笑い合えた。何も飾らず、取り繕わずに、ただ彼と並んでいられることが、こんなにも穏やかで温かいなんて。
今まで感じていた緊張も不安も、すべて溶けてなくなっていく。彼の隣にいることが、こんなにも自然で当たり前のことのように感じられる。
凪のことが特別だという証拠にスペアキーを渡した。彼も俺の友達や女性客に嫉妬したり辛そうだったから、安心させてあげたくて。オーナーの杏奈にも恋人が出来たら渡していいよって言われてたし。
彼は重いって言っていたけれど、表情は喜びが滲んでいた。その顔が可愛すぎで、彼の頭を犬のようになでまわす。照れ隠しでもあったけど。
彼の髪や手を触りすぎたせいか、「……なんか、キスされそうな空気なんだけど」と言われてしまった。そんな気はなかったけれど。いや、あったのかもしれない。「……したい」「でも、しない」と答えた。
彼を大事にしたいと思ったのは事実で、でも彼は本当にキスしたかったのかもしれないけれど、俺はシャワールームで無理やりキスしてしまったことを、今でも悔やんでいるから、ゆっくり進めてあげたいという気持ちが大きかった。
なので、凪が本当にしたくなった時にしようと約束した。「キスより、好き」って言葉がこぼれ落ちる。この言葉はちょっと面白くて可愛い。凪にぴったりだと思った。
俺は凪の手を頬にあてて瞳を閉じた。その瞬間、幸せを実感してほっとしていた。
雨音を聞きながら、俺は思う。これから一緒に歩んでいく日々で、俺たちはどんな物語を紡いでいくのだろう。きっと、詩よりも美しいはずだ。
今夜からは、もう一人じゃない。彼と一緒に、同じ紅茶を飲んで、同じ音を聞き、同じ時間を過ごしていく。
それだけで、平凡な日常が特別な時間に変わる。恋って、こういうものだったんだな。
──恋が、始まる音がした。
夜の始まりじゃない。
夜が香る、その少し手前。
俺たちの、その少し手前で。



