雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 
 あの日も雨だった。凪と初めて会った日。

 俺はいつものように、深夜の「Minuit」をオープンさせた。正直この時間の営業はお客さんがあまり来ない。しかし、時折、途方に暮れた迷える人達が訪れる。運命に引き寄せられたように……それが楽しみでもある。

 暇なときは、レコードで古いフレンチジャズやシャンソンを流す。ゲンスブール、ミッシェル・ルグラン、エディット・ピアフ……祖母の置いていったコレクションだ。

 レコードの音はその時代にタイムスリップさせてくれる。時間旅行をしているように感じるし、その瞬間が好きだ。
 そして、その空間で紅茶を飲むと――詩が書きたくなる。

 でも、普段店のBGMは、サブスクでジャンゴ・ラインハルト等のフレンチジャズをかけることが多い。カフェのBGMで使うには最適だ。忙しいとレコードを変えるのも一苦労だから。

 少し買い忘れを思い出し、夜遅くまで営業している駅前のスーパーまで足を運ぶ。買い物を終えたあと、雨が降っていたから傘を差す。すると、気になる人影を見つけた。

 駅前のベンチで、スーツ姿の青年が雨に打たれて座っていた。肩はびしょ濡れで、髪からは雫が滴り落ちている。

 失恋でもしたのか?この世の終わりみたいなオーラを醸し出している。涙なのか雨なのか分からないくらい、彼の顔自体が泣いているように見えた。

 泣いているわけじゃないのかもしれない。雨に濡れたい気分なのかも……なんて考えもしたが、俺はいてもたってもいられず、近寄り傘を差し出す。

 声をかけるつもりはなかった。ただ、傘を差し出して去ろうとしたけど、彼の顔を近くで見た時、ほっておけないと思ってしまう……。何故だか分からないけれど。

「濡れてる人を見ると、紅茶を飲ませたくなるんだ」

 気づいたら、そんなことを口にしていた。我ながら、相変わらず詩人気取りだ。でも彼は、変な顔をせずに、ちゃんと聞いてくれた。

 目が合った瞬間、なぜか空気が柔らかくなる。少し潤んだ彼のビー玉のようなキラキラした瞳は、警戒するでも期待するでもなく、ただ静かに俺の存在を受け入れてくれる。

 その表情を見た時、俺の中に何かがすっと入り込んできて、どうしても温かい紅茶を飲ませてあげたいと思ってしまった。保護欲なのかもしれない。捨てられた子犬を保護したいという気持ちに似ていた。

 フランスから紅茶が届いたから、一緒にテイスティングしてほしいと彼に言ってみると、彼は警戒しているようだった。

 知らない人についていくのは危険だし、当たり前だ。でもこの日の俺は、珍しく積極的で、自分が自分じゃないみたいだった。人を襲うような趣味はないからと安心させて、サロンに彼を招き入れる。

 人に興味がないとよく、オーナーの従姉、杏奈に言われる。本当にそうだ。音楽と詩と紅茶以外に執着することはあまりない。でもこの日の俺は自分でも知らない、新しい興味を発見したようだ。

 あの時を振り返ると、我ながら詩人すぎる言葉ばかりだった。「雨に濡れた人を見つけるのが趣味」だなんて。

「名前は、また来たときにでも」というのも、フランス映画で見た、プレイボーイみたいなセリフだ。なぜ、このような駆け引きめいた言葉が出てきたのか分からない。

 ただ、彼は俺のことを知らないようだった。モデルの俺を。なので、普通の人として接してくれることが嬉しかったのかもしれない。

 彼も名前は教えてくれなかった。でも俺には分かる。彼はまたここへ戻ってくると。この紅茶、マルコポーロを飲むと癖になる。あの味と香りの記憶は他にはない。そんな、中毒性があるのだ。きっとまた、彼も飲みたくなるに違いない。

 本当にこの紅茶は特別だ。祖母が俺が子供の頃、いじめられて帰ってきた時に、いつも飲ませてくれた思い出の味でもある。四分の一フランスの血が入った俺は、純粋な日本人と比べて異質だったから仕方がない。

 成長するにつれて、イケメンだともてはやされ、モデルにまでなった。しかし、たまにあの時のことを思い出すと胸が痛む。

 マルコポーロは、あの夜の彼にぴったりだった。地に沈むような落ち込んだ姿は、かつての自分の姿と重なる。

 果実、花、バニラ。甘くて、でもちょっと切ない。希望と絶望の狭間で揺れている人間にこそ合う香りと、心の奥が温められるような、そんな複雑な味。

 気分が落ち込んだ時に効く、心の治療薬だと俺は思っている。朝飲めば前を向けて、夜飲めば少しだけ泣ける味だと彼に説明した。彼は理解していないようだったけれど。

 凪が一口飲んだときの、驚いた顔を俺は忘れられない。沈んでいた表情が一瞬で明るくなったから。心の奥の緊張が解けていく音が聞こえた気がした。

「美味しいです」

 その言葉を聞いたとき、胸が少し熱くなる。それは店員としての安堵じゃなかった。たぶん、もっと個人的な、感情のはじまりだったと思う。

 彼に、雨の残り香がすると伝え、紅茶で上書きしたくなったと言ってしまう。多分変だと思う。だけど、俺を変にさせたのは彼の存在だった。

 俺とは全然違う世界の人だと思った。なんだか、懐かしくて、温かい……説明できない感覚。

 就職活動中だと分かったから、きっと年上だろう。あえて、自分の年齢は言わなかった。まさか俺が年下とは思っていないようだったから。

 モデルのことも年齢も知らない、ただの一人の人間として彼の眼には映っている。そのことがなんだか嬉しかった。

 その夜はそれで終わった。でも彼の口から「また、来てもいいですか?」という言葉が出た時、俺は心底喜んでいた。「名前は、次来た時に教えて」とまたフランス男みたいなことを言っていた。

 紅茶代は受け取らない。また来る理由を作ってあげるためだ。彼は笑顔で店を後にした。
 きっとまた会えるさ、とマルコポーロの香りが教えてくれた。

 ◇

 あの夜、再び凪が店を訪れたとき、思わず息をのんだ。やっぱり来たな。俺はにやけそうになるのをこらえて、平静を装う。

 彼は気まずそうに「……名前、知っちゃいました」と言った。バレるのは思ったより早かった。多分モデルの俺をどこかで見たのだろう。

 彼が言うには、友人でも俺を知っていたのに、自分だけが知らなかったことが嫌だったみたいで、いじけているようだった。年上なのに可愛いと思ってしまう。

 自分から名前を教えてくれて、凪という名を心に刻んだ。

 この日の彼は疲れているように見えたので、爽やかな気持ちになるカサブランカを飲んでもらう。色々話しているうちに彼に詩を読んであげたくなってしまった。

『君に会わなければ、僕の心は雨のままだった』

 俺が幼い頃書いた、プレヴェールの詩に着想を得た詩。凪はいい反応をしてくれた。この詩は、ちょっと告白めいていたが彼は気づかない……。でも気に入ってくれたみたいで、俺は嬉しくなった。

 ◇
 
 ついに凪と大学で遭遇してしまった。同じ大学だから、いつか会ってしまうんだろうな……とは思っていたけど、やっぱり、怒っているようだった。

 俺が年下だと知らず、紅茶屋のお兄さんという感じで慕ってくれていたから。年下だと知れば、凪はもう会ってくれないと、この時は本気で思っていた。

 ミラベルの花壇を見ながらベンチで話すことになり、学科や仕事の話をたくさんして、お互いを知ることができた。もうこの時は怒っていなかったように思う。心の中では安堵していた。

 その時、風が吹いて、若葉が一枚髪に止まる。俺は自分で取ろうとせず、凪にとってもらうことにした。彼がどんな反応をするのか見てみたくなって。

 彼は遠慮がちに、俺の髪に触れ、葉っぱをとってくれた。彼の瞳は光のせいで、明るい茶色でキラキラとしたビー玉のように輝く。
 あの雨の日以来だ。こんなに近くで彼の顔を見るのは。彼の顔は子犬のように可愛い。恥ずかしいのか頬はピンクに染まっていく。

 俺も彼の恥ずかしさが移ってしまいそうだったけれど、顔には出さないように気をつける。普段モデルをしているおかげか、心を隠すのが上手い。

 だけど、内心はトキメキがとまらなかった。

 ◇

 夜になり、凪がサロンに顔を出した。昼も会ったのに、また俺に会いたくなったのか?と、少し浮かれる。

「あら、この子が凪君?」俺より先に、杏奈が声をかけた。今日は珍しく、オーナーの杏奈もカウンターに立っていたのだ。店舗は暇なことが多いけど、ネットショップの茶葉の販売でいつも忙しそうだ。フランスから輸入する紅茶は日本でも人気だから。

 杏奈はすぐに彼との空気を察して、ちゃっかり距離を詰めてくる。彼女は人の空気を読むのが異常に上手い。職業病だ。だから、余計なことまで言い出した。

「この子、君が来てくれるようになってから、よく笑うのよ」

「……余計なこと言わないで」

 俺は杏奈の暴走をとめるために必死だった。でも、杏奈は嬉しそうに笑う。

 店の空気が少し温かくなるのを感じた。凪がいるからだ。香りが変わる――それはあながち比喩じゃなかった。

 杏奈がボレロの缶を持ってきたとき、彼の表情がふっと柔らかくなったのが分かる。

「恋の始まりって、たいてい、甘くて少し不安でしょ?」

 杏奈の紅茶の説明に入っていたその言葉に、俺の耳がまた赤くなっていくのを自覚する。表情は隠せても、耳の色をコントロールするのはさすがに不可能だ。

 彼の頬もほんのり赤に染まる。恋なんてしてない、と杏奈に訴えていた。年上とは思えない可愛らしさだった。その後も杏奈のおせっかいな言葉により、二人の空気が無駄に甘くなってしまった……。

 ◇

 その後、あまり凪とは会えなくなった。少し避けられているのかも?と思った。メッセージは未読スルー。嫌われたのかな……?と寂しい気持ちが溢れる。

 昼休み、大学でばったり会ったと見せかけて、彼がいつも使っているベンチで待ち伏せした。どうしても、会って確かめたくて。話を聞くと案の定、俺は避けていたようだ。モデルの俺が違う世界にいる気がして、と言われる。

 混乱している、と素直に教えてくれたから、俺も凪に会えないと混乱する、と伝えてしまった。すると、凪はその夜サロンに来てくれた。

 よく分からないけれど、喧嘩した後みたいになってしまったから、初めて凪に出したマルコポーロを出した。初めて会った時みたいに普通の人として接してほしくなって……。

 凪のこと、俺はまだ半分も分かっていないのだろう。彼の気持ちを察するのは難しい。でもこのまま気まずいまま、疎遠になっていくのは嫌だ、と諦めたくない気持ちが大きかった。そして、あの言葉を言ってしまう。

「やっぱりさ……俺のこと、好きなの?」

 なぜこの言葉を言ったのか分からない……。彼の熱い視線や恥ずかしそうな表情がそうさせたのだ。

 好きだとは一言も言われていない。好きだから避けているのかも?とは少し思っていた。自惚れかもしれないけれど。

 彼は否定も肯定もしない……。これは、やっぱり、そうなのか?と思ってしまう……。

 ◇

 数日後、また雨に濡れた凪がサロンにやって来た。この日はびしょ濡れで、店内に水滴が落ちるほどだった。彼は何か辛いことがあると雨に濡れるようだ。

 タオルではどうにもならなかったから、シャワーを貸してあげることにした。そのあと、凪の様子を見に行った時のことだ。今でも頭から離れない。

 シャワールームのドアが開いていたのは、完全に事故だった。予備のタオルの補充していたとき――見てしまった。

 バスタオルがふわりと落ちて、彼の裸が視界を射抜き、一瞬、時が止まる……身体が固まり声が出ない。

「……見たな」

「見てないよ?」

 見てしまった。完璧に見てしまった。腹筋、胸筋、鎖骨、脚のライン。想像してたより、ずっと、男っぽかった……。服を着ていると華奢に見えていたのに……想像と違って驚く。年上って、こういう感じなのかと、妙なところで納得していた。

「じゃあ、なんで耳が赤いんだよ」

「……意外といい身体してるんだね」

 とっさに出た言葉がそれだった。ドキドキして胸が苦しいのを気づかれないように。まるで自分の感情を隠すための防波堤のようだった。

 そのあとの会話なんて、まともに記憶に残っていない。ただ、心臓がずっと暴れていて、鼓動が、耳の奥でどしゃぶりの雨のように鳴っていた。

 俺は彼に完全に魅了されていることに気づく。彼の身体は本当に綺麗だった。脳裏に焼き付いて離れない。彼のことを完全に意識し始めてしまった。

 着替えて戻ってきた彼に、自然な感じで紅茶を淹れながら、呼吸を整えようとしていた。

 カウンター越しの距離は近くて遠い。会話もなく、ただ視線だけが交差する。

「……見てないって言ったよね」

「見てない」

「嘘つけ」

 見たのは確かだけれど、何か色々聞かれそうだったので、見てないと言い切った。凪をからかうのは面白い。逆に、脳裏に刻まれて消えないって言ったら、凪は顔を真っ赤にして怒るのだろうか?それとも恥ずかしがるのだろうか。

 紅茶はテ・デ・ポエット、詩人の紅茶にした。俺のような紅茶。
 ジャスミンと果実の複雑に混ざったブレンドで、今夜の空気にふさわしかった。
 不安とか、期待とか、そういう名前のつかない感情が、あの香りにすべて含まれていた。

 凪はこの紅茶も気に入ったようだ。そして俺に吊り橋効果について話し始めた。

 吊り橋効果って、「その気持ちは恋じゃない」っていう証明のはずじゃないの?と返す。

「そう。錯覚だったとしても……そのあともずっと気になってるなら、それってもう、ただの恋じゃね?」

 と言ってくる。それは俺のことか?と思い「つまり俺のこと、好きってこと?」とまた口を滑らす。真っ赤な顔で反論してくる凪が、また可愛く思える。

「錯覚にしては、ずっと君のことを考えてるな、俺」と言ってしまう。もうこの気持ちがバレてもいいと思った。「ねぇ、なんでだと思う?」と凪に詰め寄ってみる。

 凪のキャパは超えてしまっていると思い、また混乱して避けられても困るので、俺はここで引いた。駆け引きをしている感じになっているかもしれない。でも、混乱させたくなくてこうせざるを得なかった。

 ◇

 その夜、ベッドで彼の表情をふと思い出す。熱い視線、はにかんだ恥ずかしそうな顔と見てしまった彼の全てを……。

 眼を閉じると、裸の肌のラインを、鮮明に思い出してしまう。
 これってもう……止められない感情なのかもしれない。

 触れたはずのない指先が、触れたような感触に捏造され――そして、その感触に脳が支配された。
 息が浅くなり、胸の鼓動が耳の奥を叩き、ベッドの中で名前のない熱に戸惑う。身体の中心が燃えていた。

 視線の熱は、どんな紅茶よりも長く残り、カップの底の余韻よりも、ずっと甘く、重かった。

 ◇

 俺はあの夜、決定的に自分の感情を意識した。怖いのに、期待している。期待しているのに、逃げたいという矛盾。

 女性客に嫉妬している彼が可愛くて、こう言ってみた。彼の手に優しく触れて。

「君にだけ、してることだよ」と。翻弄するつもりはないけれど、そう思われても仕方がない。
 触れたのは、ほんの一瞬だった。彼の手の上に、自分の手を重ねたとき、もうその場の空気がピンクに染まっていた。

 ──この人のことを、本気で好きになってしまいそうだ。

 そんな予感が、紅茶よりも強く香った。