「ねぇ、まだぁ?」
「まだです。もう少しですからね、テオさま」
小さな手で目を覆って視界を塞ぐテオが、怖がらないように優しく声をかけながら、目的のドアをノックすると、間もなくドアが開かれて中へと招かれる。
広間に集まった人たちが、息をひそめて小さな主役を笑顔で見守っていた。
「テオさま、さぁ、目を開けていいですよ」
「うん!」
「「「テオ、お誕生日おめでとう!」」」
「わあ!」
テオが手をどけた瞬間、待ち構えていた大人たちが一斉に彼の誕生日を祝福した。
広間の大きなテーブルには、テオの大好きな食べ物やお菓子がずらりと並び、すぐそばの床に広げられたマットの上には、いくつものプレゼントの包みが山のように置かれている。
今日は、テオの四歳の誕生日。
この日のために、国王陛下やアランは仕事を片付けるべく日夜執務に明け暮れていたし、リゼットを始め、テオと縁のある人たちが喜んで駆け付けた。
まずはプレゼントの包みを一つひとつ開けていき、贈り主にありがとうのキスをして。
素直で可愛いテオに全員が骨抜きにされながら、賑やかな食事会となった。
――あれから三週間。
アランたち一行は、倒れたエレインの回復を待ち、ヘルナミス国での大騒動の後始末をすべて終えてカムリセラ国の王宮に戻ってきていた。
アランを助けて倒れたエレインは、四日間眠り続けたものの、体に異常は見つからず、目覚めた後は体調もすっかり元通りになっていた。
あまりになにもなかったかのようにケロッとしているエレインを見て、アランは『エレイン……俺は一体、何度肝を冷やせばいいんだ』と、頭を抱えさせてしまった。
アランが言っていた「治癒の力」というのは、使用者の負担になるから使用は避けるべき、とあのヴィタ国の本に記されていたらしい。
もしエレインがあの本を読み、治癒の力を知ってしまったら、力を酷使してしまうのではないかと懸念したのだという。
(だから、本を見せてくれなかったのね……)
断られたとき、拒絶されたと感じたけれど、それはエレインを心配してのことだと分かり、胸につかえていたわだかまりがなくなってすっきりした。
そして、指輪も無事にエレインの元に戻ってきた。
あのとき、力を使い過ぎたシェリーも倒れ、三週間経った今も病床に臥せっているらしい。医師の見立てではこの先、自分の足で立つこともできないかもしれないとのことだった。
どちらにせよ、シェリーには、エレインの暗殺を企てた罪に加え、カムリセラ国の王太子への殺害未遂という重罪により実刑が下されている。母マチルダにも、シェリーに加担した罪によって実刑が決定した。
王太子ダミアンは、王太子妃の不始末はもちろん、ハーブ事業で多額の赤字を出したことや粗悪品を販売したことで、王家の信用失墜の責任を取らされて王位継承権をはく奪されたそうだ。
近々、ダミアンの後釜として、腹違いの弟のギャスパーが立太子されるとのことだった。
エレインの父も、ハーブ事業の失敗とシェリー達の騒ぎとで爵位はく奪となった。
すべてに片が付き、カムリセラ国に戻ってきたのは、つい数日前。
向こうでの滞在と往復の移動とを合わせると、実に一月もの時間がかかったことになる。
行く前には気がかりだったテオも、一月もの間エレインがいなかったにもかかわらず、以前のようにうなされたり不安定になったりすることはなかったという。
寝る前の服薬もなくなり、治療はもう完全に必要なくなった。
そう、ついに契約が終わるそのときがきた。
王宮にとどまる理由がなくなったエレインは、今日を区切りにここを出ていくことをアランに伝えようと決めていた。
「――まだまだ可愛いテオと一緒にいたいが、そろそろお開きにしようか」
まだ就寝の時間ではないが、国王陛下がそう切り出し、それぞれが席を立つ。
当然まだ遊びたいとぐずると思ったテオも、にこにことみんなとおやすみの挨拶をしていた。
エレインも皆に習って、挨拶のタイミングを見計らっていると、「エレインは少し残って」とアランに引き留められる。
アランには、テオの誕生日の後に少し時間が欲しいと伝えていたので、部屋に戻る前に時間を作ってくれるつもりなのかもしれないと思っていたら、
「お待たせ。ちょっと外に行こうか」
と、テオを抱き上げたままエレインの元に戻ってきた。
「あの……?」
「きみに見せたいものがあるんだ」
よく似たブルーの瞳が二人分、エレインに向かって微笑みかけた。
アランとテオに両手を引かれてたどり着いた先は、王宮の広いガーデンの一角。
(ここになにが?)
不思議に思っていると、アランが再びテオを抱き上げてエレインに向き直る。
「この半年近く、きみが俺たちにくれたたくさんのことに感謝の気持ちを込めて、ささやかなお返しとしてこれを受け取ってほしい」
アランが手を挙げると、控えていたセルジュが近くのランプ台に火を灯す。
すると、どういう仕掛けなのか、そこから火が辺り一帯に移りついていき、あっという間に視界が明るくなった。
「……え?」
ランプの灯りによって浮かび上がった光景に目を奪われる。そこには、エレインの屋敷にあるはずの温室があった。母との思い出がたくさん詰まった、あの温室が。
「こ、これは……」
同じデザインで建てたものかと思ったが、目の前のガラス部分は中が見えないほど傷だらけで、一気に懐かしさが込み上げる。
「きみのお父上が、屋敷を売りに出すという話を聞いてね。その前に温室だけ買い取らせてもらったんだ。さ、中も見てごらん」
促されるまま歩を進める。
アランが先回りして、中のランプにも火を入れてくれた。
ここでもまた目を疑う出来事が起こる。
「そんな……」
(ハーブたちが全部あのときのままだわ……)
この温室を手入れしていた自分が出て行ってしまったから、すっかり枯れてしまっただろうと思っていたのに。
それらはあのときから変わらず元気な姿のまま。
「お父上の話では、誰も温室には出入りしていないとのことだった。きっと、精霊たちはきみの帰りを待っていたのかもしれないね」
(ふわふわさんたち……ありがとう……)
心の中でそう呟くと、温室内にふわふわと漂う彼らは元気よく飛んで跳ねてみせた。
精霊たちがこの温室のハーブをずっと守ってくれていたこと、そして、エレインの大切なこの場所をアランが覚えていてくれて、こうして自分のために守ってくれたこと。その全部が嬉しくて、愛おしくて、胸がいっぱいになった。
「エレイン、かなしいの?」
テオの小さな手が、エレインの頭を優しく撫でる。それをアランが見つめて、「大丈夫だよ」と優しく言う。
「その涙は、喜んでくれた証拠として受け取っていいのかな?」
キラキラしていて、温かい思いが涙になって溢れ出る。嗚咽で声が出せなくて、うんうんと頷いて見せるので精いっぱいだった。
だけど、悲しい現実が待ち受けていることを忘れたわけではない。
「ですが……」
「ん?」
「私はもう……ここを離れなければなりません」
「それは、テオの契約が終わったから?」
涙を手で拭いながら頷くと、アランは眉尻を下げて困ったような笑みになる。
「ずっとここにいればいい」
「理由が……ありません」
テオのことがあったからここで一緒に暮らしていただけで、ハーブを作るだけならここに住まなくたってなんら問題はないのだから。
「……俺では、きみの“理由”にはなれない?」
「それは……どういう……」
「きみが好きなんだ、エレイン。もうずっと前から」
アランの言葉が、エレインの胸を突く。
(殿下が、私を……好き?)
信じがたいその言葉が頭の中をぐるぐると回るだけで、理解が追い付かない。
(あ……好きっていうのは、人としてで……特別な理由があるわけないわ……)
そう結論づけるも、それはアランによって覆される。
「俺もテオも、きみと離れるなんてもう無理なんだ。だから、俺たちをきみの家族にしてほしい」
(家族……、私が、殿下とテオさまの……)
物心ついた頃から、エレインの家族は母だけだった。父は家に寄り付かなかったし、母の実家は遠方で疎遠だった。そして、十歳で母が亡くなってからは、エレインはずっと一人だった。
血のつながった父も、妹も、家族とは到底言えない関係で。安心できる唯一の場所は母が残してくれた温室だけ。
ずっと、独りだった。
周囲の人たちはみんな、“エレインのハーブ”がほしいだけで、エレイン自身を見てくれていたわけではない。
それをわかっていたし、それでいいとも思っていた。どんな形であれ、必要としてもらえるなら、そこに自分がいてもいい理由があるから。
精霊と記憶の中の母だけを心の拠り所にして生きてきた。
(それでよかった、はずなのに……)
ここにきて、アランとテオと過ごす内に、自分はどんどんどんどん欲張りになってしまっていたようだ。
アランは、特別な力がなくても必要としてくれて、居場所を与えてくれた初めての人。
テオも、真っ直ぐな親愛をもってエレインを受け入れてくれた。
この二人とずっといられたら……。
(家族に、なれたら……)
そうなれたらどれほど幸せだろうかと、何度も夢に見た。それを、今、目の前のアランが自分に希っている。
これは現実なのか、わからなくなるエレインの手を、アランがそっと取って優しく握った。
「これから先の人生を、俺のそばにいてくれないか」
「……っ」
これ以上ない喜びに、嗚咽で言葉が詰まる。それを躊躇いだと感じたのか、アランが言葉を重ねる。
「きみが倒れて、今度こそきみを失うかと、怖くてたまらなかった。きみがいなくなるなんて考えられないんだ。誰よりもきみの近くで生きて、きみを支えたい。きみに好きになってもらえるように努力するし、誰よりもきみを幸せにすると誓う」
だからどうか、とアランは懇願する。
熱烈な愛の言葉に、顔だけじゃなく体全体が熱を持っていく。
その熱に浮かされるように、エレインは口を開いた。
「私も……心からお二人をお慕い申し上げています。私の心は、とっくに殿下のものです。ですから……どうか、私を殿下とテオさまの家族にしてくださ――」
「エレイン!」
言い終えないうちに、エレインはアランの胸に抱きしめられていた。
「エレインすき! だーいすき!」
アランとテオに応えるように、エレインも腕を回して愛しい人たちを抱きしめた。
「私もです、大好きです!」
(お二人を、心から愛しています)
恥ずかしくて口にはできない言葉を、胸の中でつぶやいたそのとき。
ランプの灯りだけだった温室内が瞬く間に光に満たされた。
「まぶちい!」
そしてまるで爆発するように光の塊が空高く昇っていったかと思えば、つぎの瞬間には散り散りになり、流れ星のようにゆっくりと地上に降り注いだ。
「わぁ! きらきら!」
「精霊がやってきたんだ。俺たちを祝福してくれているのかな?」
「えぇ、そうですね」
温室内の精霊たちは、三人の周りを囲んでぐるぐると回っている。
まるでダンスでもしているような姿に、エレインは嬉しくなった。
「今の! 今の光はなんですか! エレインさまがやったんですか!?」
外にいたニコルが、興奮状態でドアを開けて温室にやってきた。
「こらニコル、邪魔をしてはいけません!」
と、今度は慌てたセルジュがニコルの首根っこを掴んで引き戻す。
一瞬で消えた騒がしさに、エレインたちは目を見合わせて、笑った。
「ふふふ」
「ははは」
「ふふ、ニコル、セルジュに、め!ってされてたね」
「ですね」
夜の温室に、三人の笑い声が響く。
「エレインにもう一つ、俺とテオから贈りたいものがあるんだ。テオ、覚えてるか?」
これ以上なにを、と戸惑うエレイン。
「おぼえてるー!」というテオの元気な返事を訊くや否や、二人の顔が近づいてきて――
――ちゅっ
と、両頬にキスが落とされた。
自分の身に起こった出来事に、エレインの顔は一瞬で真っ赤に染まり、それを見た二人は顔を見合わせて笑う。
母との思い出ばかりだった温室に、アランとテオとの幸せな記憶が刻まれた瞬間だった――……
fin.



