神に選ばれし花嫁と、藤の君の誓い

「神祇院筆頭、藤宮藤真。花名を戴く家々への巡察として、参上した」

 低く澄んだ声が、空気を切り裂いた。

 黒の詰め襟に制帽、漆黒の髪。藤の気品を宿した姿が、館の軒先に長い影を落としていた。

「藤宮さま……!」

 誰かの感嘆が、ざわめきの火種になった。

 藤真は人々を分け、まっすぐに進む。それから、藤棚の影に、紫乃の姿を見つけた。

「紫乃さん。……その装い、君にはあまり似合わないな」

 唐突に向けられた言葉に、紫乃の心がぴたりと止まった。「似合わない」。その一言が、胸の奥に鋭く突き刺さる。撫子のように生まれていたら──そんな願いが、喉の奥にひりついた。

 それから、藤真は何かを言いかけて、唇を動かした。

「……紫乃さん、私は──」

 しかし、その言葉の続きを、彼女が耳にすることはなかった。

「藤宮さま」

 低く、格式ばった声が横から割って入る。
 神祇院の職員が、巻物を携えて一礼した。

「至急、金鳳花院の件でお伝えすべきことがございます」

 彼は無言でうなずくと、すっと踵を返し、職員とともに去っていった。

 次第に、藤真の背中が遠くなる。それを呆然と見つめていると、撫子が傍らに立っていた。

「まあ、姉さま……その着物、ちょっと華やかすぎましたかしら?」

 扇子の陰で、撫子の瞳が冷たく光る。

「でも、今日は少しだけ皆の目にとまったわ。いつもより、ね?」

 優雅な声色のまま、傷口に塩をすり込むような言葉を投げかける。

 紫乃は、返す言葉を持たなかった。

 手の甲を覆うぶかぶかの袖。あばらに添う着物の皺。そして紫乃にしては派手な柄と色合い。すべてがどこか滑稽で、余計に貧しさを際立たせていた。

(どうして、こんな──)
 
 すると、ひとりの婦人が紫乃に歩み寄ってきた。撫子の母だ。

「まあ、撫子が紫乃さんに着物を貸したそうね」と、母は薄紅の唇を微笑ませた。

「ごめんなさい、あの子も善意だったのよ」

 形の上で詫びていたが、目元は愉悦を隠そうともせずほころんでいた。

 この屋敷に、味方はいない。 紫乃は、はっきりと悟った。

 誰にも知られぬように、袖の下で拳を握りしめた。

 *

 帰り際。陽が傾き始めた頃、紫乃はひとりで門へと向かっていた。

 そのとき、背後から足音がして、影が重なる。

「紫乃さん」

 その声に振り向くと、藤真がひとり、黒い軍服のまま立っていた。

「先程は、失礼した」

 ふいに足を止め、藤真は紫乃を見た。

「言葉が足らず……君を傷つけてしまったかもしれない」

 紫乃は小さく首を横に振る。
 しかし藤真は、ゆっくりと続けた。

「あのとき私は、『いつもの君』がよいと思っただけだ。君の慎ましさは、紫苑の花のように、何よりも尊い」

「……いつもの、私」
 紫乃の声は小さく震え、藤真の言葉が胸の奥に染み入った。

撫子の華やかさに隠れている、影。そんな自分が、初めて愛おしく感じられた。

「紫乃さん。……詫びの代わりになるかはわからないが」
 藤真はそう言って、軍装の懐から小さな包みを取り出した。

 掌にのせられたそれは、淡い紅色に光る飴玉。金平糖にも似た、ひときわ儚げな菓子だった。

 「母が、よく申していた。『甘いものは、心の痛みを和らげる』と」

 紫乃は驚いたように目を瞬かせ、静かにその飴を受け取った。

 藤真は、わずかに息をつき、口元をゆるめた。普段の凛とした表情が、ほんの一瞬ほころんだ。

 紫乃は胸の奥で、何かがあたたまるのを感じた。

「……藤真さまは、おやさしい方ですね」

 藤真は返事をせず、自分の分の飴をひとつ口に含んだ。

 カラン、コロン。飴の転がる音だけが、ふたりの間に響く。

 ほんのりとした甘みが舌に広がり、藤の花の香と飴の風味がやわらかく溶け合った。


 その夜。

 紫乃は、夢を見た。

 やわらかな風が吹いていた。どこか懐かしい香りが、鼻腔をくすぐった。

「紫乃……あなたの名には、紫苑が宿っている。見えなくても、霜にも耐えて咲く花が、ずっと傍にいるのよ」

 母の声だった。子守唄のように、おだやかに響く。

 風が頬を撫で、紫苑の薄紫の花弁が舞った。

 その瞬間、紫乃の心がじんわりと温まる。それは──紫苑の花精が目覚め始めた合図だった。