神に選ばれし花嫁と、藤の君の誓い

 朝の光がやわらかに差し込む神苑の奥、紫乃は白衣をまとい、花を整えていた。

 巫女として任命されてから数ヶ月。藤宮家の嫁としてではなく、花巫女としてこの地に立てることが、何よりの誇りだった。

 供花に選ばれたのは、白椿と山桜、それに紫苑。どの花にも、紫乃はひとつひとつ名を呼び、祈りを込める。

 ──咲いてください。神に、心を届けるがごとく。

 その祈りに応えるように、花々はほんの少し、陽の光を受けて透き通ったように見えた。

 神祇院の人々は、はじめは彼女を「異例の者」として距離を置いていた。しかし次第に、紫乃の丁寧な所作と誠実な祈りは信頼を集めるようになっていた。

 藤真もまた、神務に携わる傍ら、朝晩にはかならず紫乃の元を訪れた。

「今日は、紫苑の花精が強く響いていました。神前でひときわ香りが強くなって……まるで、こちらを見ていたようでした」

 そう報告する紫乃に、藤真はただ頷き、隣に静かに座る。

「君の祈りは、(まこと)なのだろう。花が応えている」

 紫乃は、その言葉だけで胸が満たされた。
 藤真の肯定は、どんな褒美よりも彼女を救ってくれる。



 冬になると、撫子から手紙が届いた。

 淡い藤色の封筒に、銀の花紋が浮かぶ。それは黒薔薇の家紋──神祇院内でも、もっとも格式高き家のひとつ。

 紫乃は息を呑んで手紙を開いた。

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 わたくし、このたび黒薔薇家の次期当主と婚約いたしました。
 突然のこととお思いでしょうけれど、母が望んだ縁組でして、これもまたわたくしの務めかと存じます。
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 紫乃の指先が、震える。

 欲望と嫉妬にあふれていた彼女が、まるで違う人のような筆致で、それを「務め」と言う。

 (……撫子も、変わったのかもしれない)

 読み終えた紫乃は、ふとそんなことを思った。
 嫁いで、役目を得て、人は変わるのだろうか。

「藤真さま、撫子が婚約されたそうです。黒薔薇の家と──」

 言いかけたとき、彼の表情がわずかに揺らいだ。

「……そうか。黒薔薇と、か」

 それきり、彼は何も言わなかった。

 紫乃は知っていた。藤真の静けさの奥には、決して他者が立ち入れぬ深い淵があることを。



 その晩、紫乃は久しぶりに藤真の胸に抱かれて、まどろみの中にいた。

 囲炉裏の火はもう落ち、灯りはほのかに残るばかり。それでも、部屋の片隅まで、あたたかさが満ちている。

「紫乃……」
「うん……ここにいます」

 藤真の低い声が、寝息のように耳元で囁く。

「眠ってもいい。君が隣にいてくれるなら、それだけで……」

 言葉はそこでとぎれ、紫乃は静かに彼の指先を握りしめた。

 遠くで、木々の葉が風に揺れていた。
 初冬の夜風は、ひんやりと肌を撫でていったが──ふたりの胸の奥には、春のような穏やかさがあった。

 紫乃は、ふと遠い昔を思い出していた。

 幼い日のこと。
 病身の母が恋しくて、しかし誰にも抱きしめてとは言えなかった夜。
 泣きたいのに声を殺して、神棚に向かって、ただただ祈っていた。

(神さま、どうか、わたしたちを守ってください。せめて、母だけでも)

 あのときから、紫苑の花に名を呼び、手を合わせ続けてきた。
 誰にも知られず、見返りもなく、ただ毎晩。
 その祈りは、きっとこのぬくもりのためにあったのだ。

 ──神に選ばれし身だとしても。
 この手のなかにあるものだけは、守れますように。

 世界がどうあろうと、この愛おしさは変わらない。
 紫乃は目を閉じ、藤真の胸にそっと顔をうずめた。