遠くて、近い。




 しまった、と思った。




 蝉の鳴き声という夏の知らせが遠くから聞こえ、ぼんやり嫌気がさす放課後。私が呼び止められたのは、二階の図書室に向かう途中にある、階段の踊り場だった。
 目の前には、緊張から視線を上げず、耳を赤く染めた男子がいる。
 彼、多賀(たが)文都(ふみと)くんに告白されたのは、ほんの数秒前のこと。

 ーー相馬のこと好きだから、付き合ってほしい。

 なんとなく、多賀くんに話があると言われたときの緊張感と、ここに来るまでの沈黙で、告白だろうとは思っていた。
 だから、予想通りだったと思ったけれど、それよりも、また失敗したという後悔のほうが若干強かった。
 というのも、私はときどき他人との距離感を間違えているようで、過去にも友達と思っていた人から告白をされたことがある。
 私としては、友達としての接し方に気を配っているつもりなんだけど、まだ調整が上手くいかないみたいだ。

「……ごめん」

 長い沈黙のあと、私はたった一言、呟くように言った。
 過去の言動を反省したことと、告白を断らなければならない気まずさで、どうしたって声を張ることはできなかった。
 声は、震えていなかっただろうか。
 多賀くんはどんな顔をしているのだろうか。
 多賀くんの指先の動きですら見るのが怖くて、私は顔が上げられない。
 だから告白は嫌なんだ。
 相手を傷付けてしまうし、私は私をさらに嫌いになってしまう時間から。
 はやく終わって、なんて最低なことを考えていたら、多賀くんの「……そっか」と消えそうな声が聞こえてきた。
 その瞬間、強く心臓を握り潰されたような気がした。

「ごめんな、急にこんなこと言って」

 多賀くんの声は、少しだけ明るくなった。
 無理やり明るくしていると言ったほうが正しいのかもしれない。
 私にはそう聞こえてしまって、また謝りそうになったけれど、言葉が詰まって出てこない。
 私が固まったことで、この場はさらに沈黙へと落ちていく。
 なんとなく、多賀くんも困った顔をしているような気がした。だからといって、気の利いたことが言えるわけじゃないんだけど。

「……じゃあ、また明日」

 それが聞こえたと同時に、視界から多賀くんの足が消えた。
 慌てて顔を上げると、多賀くんはもう階段を降りていて、背中しか見えない。
 また明日。
 その返事すら、私はできなかった。
 だけど、その後悔よりも、呪いのような緊張感から解放された安心のほうが強かった。
 そのはずなのに、まだ首を柔らかく締め付けられているような感じがする。
 それでもここに居続けるわけにもいかないので、私は階段を登って目的地の図書室に向かった。

 好き。
 青春を過ごす中で、その感情はどうしてもセットにされる。
 だから、告白は一大イベントで、女子たちが盛り上がっている光景をよく見かける。
 誰がかっこいいとか、誰が付き合ってるとか。
 他の内容なら楽しく話せるのに、その話題になった途端、私の前に一枚の透明の壁があるように感じてしまって。それでも、なんでもないフリをするのが上手くなったと、自分でも思う。
 どうしてみんな、誰かを好きになることで盛り上がれるんだろう。
 どうして、誰かと付き合おうなんて思うんだろう。
 友人関係のままだとダメなの?
 ……なんて。
 ダメだから、嫌だから、みんな告白するんだよね。
 でも私は。

「……人と触れ合いたくないんだよ」

 図書室のドアに伸びた手を見て呟く。
 引き戸に触れたことで、鉄の冷たさがじんわりと伝わってきた。
 
 図書室に入って閉めたドアの音が、私の心のドアが閉じた音にも感じた。

 本を返却ボックスに入れると、次の本を探しに、本棚に向かう。

 どうして人と触れたくないのか、自分でもわかっていない。
 いつからか、人と触れ合うことに嫌悪感を抱くようになっていた。

 異性に限らず、友達も、親友も、家族も。
 誰に触れられても、妙な緊張感に襲われるようになった。

 でも、“触らないで”なんて、言えるわけもなく。

「柚衣(ゆい)」

 本棚を眺めていると、小声で名前を呼ばれた。

 振り向くと、右頬になにかが当たる。
 いや、刺さったと言うべきかもしれない。

「凛花(りんか)……」

 それは、親友の指だった。

 よくあるイタズラ。
 そうわかっているのに、一気に鳥肌が立った。

「……どうしたの?」

 だけど、凛花には悟られないように、そっと凛花の指を下ろす。

 凛花は幸せそうに笑うから、気を使いすぎたみたいだ。

「朔(さく)くんがね、今日は一緒に帰ろって言ってくれて」

 小河朔。
 数週間前からの、凛花の恋人。

 知らない間に名前を呼ぶほど親しくなったらしい。

 私は、その事実が変に受け入れられなかった。
 あろうことか、“キモチワルイ”という言葉が頭をよぎった。

 親友の幸せそうな姿に、そんなことを思うなんて。

「……わかった」

 凛花の顔も見れなくて、本を探す振りをする。

 私……人に触れられないだけじゃなくて、恋人関係になることも、受け入れられなかったの……?

 その事実に動揺が隠せそうにない。

「柚衣?」

 少しだけ視線をずらすと、凛花は不安そうに私を見ている。

「……ん?」

 お願い、なにも言わないで。

 そう願いを込めて凛花を見る。

 すると、それが伝わったのかわからないけど、凛花はにっこりと笑った。
 そして私の腕に抱きついた。

 凛花の上目遣いは可愛いけれど、正直、それどころではない。

「寂しいんでしょ」
「……違うよ」

 凛花の腕から逃げる。

「明日は一緒に帰ろうね」
「はいはい」

 適当にあしらったのに、凛花は笑顔だ。
 そして手を振って離れるから、私は手を振り返した。

 凛花は親友なのに。
 嫌だと感じてしまう私が嫌いだ。

 目を閉じて気持ちを落ち着かせようとするけど、余計なことを考えてしまうばかり。

 凛花に気付かれたかも。
 私が、凛花といるのが嫌って思ってるって思われなかなったかな。
 凛花に嫌われたらどうしよう。

「……あの」

 負のループから抜け出せないでいると、声をかけられた。

 そこにいたのは、去年同じクラスだった浅木(あさぎ)くん。
 いつも教室の隅で誰とも話さず、本を読んでいた印象が強い。

 かくいう私も、浅木くんとはほとんど話したことがない。
 だから、話しかけられて驚いてしまった。

 浅木くんの少し冷たい視線が、私に向けられているような気がした。

「ご、ごめん。邪魔だよね」

 彼が本当につもりで声をかけてきたのかは、わからない。
 でも、今は誰かと対話する気力もなくて、私はそのまま図書室を後にした。