翌日は日曜日。

私は部長を巻き込んで、近所の大きな公園を散策した。

ただの散歩ではない。
お産を促すために早足のウォーキングだ。

公園を歩き尽くすと、近隣の散策。
隣の駅まで歩いて、遅めのお昼をカフェごはんにすると、買い物をして帰宅。

いつお産入院になってもいいように、買い物も最低限。
生鮮食品はほぼ毎日使いきり分しか買ってない。

はあ、めんどい。
あと二週間はこんなかぁ。

ひと休みという名の昼寝をして、夕食の仕度をする。
夏野菜キーマカレーが完成したのは18時だった。

ふう、今日も運動と家事をこなしたぜ。
すると、スマホがメッセージを知らせている。

見ると、美保子さんからだ。


『陣痛が始まったみたいなので、これから病院に行きます』


なにーーーー!?
「ゼンさん!美保子さん、陣痛みたい!」


私はソファで雑誌を読んでいた部長に叫ぶ。
興奮した私は迷惑も省みず、美保子さんに電話。


「もしもし?佐波さん」


電波の向こうの美保子さんは落ち着いている。


「だっだだ大丈夫!?」


「ええ、今朝、おしるしがあったの。それから少しずつ前駆陣痛が増えて、午後には規則的になったんだけど、まだ間隔が長いから待機してたのよ。今、ちょうど10分間隔。病院から来なさいって言われたから行くわ」


「ご主人いるんでしょう?」


「それが、ちょうど昨日から出張なの。そろそろ羽田につく頃だから、帰宅を待とうかとも思ったんだけど……。タクシーで行くことにする」


「ちょっちょっと待ってて!」


私は通話を保留にすると、部長に言う。


「美保子さん、今ひとりなんです!病院まで、送ってあげたいんですけど!」


話の流れを聞いていた部長は、すでに腰を浮かせていた。
車の鍵と財布をつかみ、答える。


「美保子さんちまで5分くらいだろう。すぐに行くって伝えろ」


かっ……カッコイイ。うちの旦那さん。


「美保子さん、待ってて!うちの旦那さんが車出すから!」


「そんな、悪いわ。まだそれほど痛くないし、ひとりで行けるわよ」


「んーん!ダメ!うちも予行演習になるから、お願い!待ってて」


私と部長は美保子さんの家に急行するのだった。


美保子さんの家のチャイムを鳴らす。
すぐに、玄関で待機していた美保子さんが荷物を持って現れた。


「佐波さん、ありがとう。一色さんも本当にありがとうございます」


美保子さんは私と部長の顔を交互に見て、頭を下げた。
こんな時でも上品で綺麗。


「痛みは?大丈夫?」


「ええ、さっき破水したみたいなの。水が流れる間隔がするし、本で読んだみたいな変な臭いがするから。今、産褥パッドを当ててるの。お車汚しちゃわないかしら?」


破水!!
いよいよじゃない!

慌てる私の後ろで、部長は後部座席にバスタオルを敷いている。
美保子さんから荷物を受け取り、車に誘導。


「こんなこともあろうかと準備してあります。横になってください」


ホント、段取りゴイスーです。
一色大部長殿。

武州大学病院までは車で15分。
直線距離ならもっと近いんだけど、大きな幹線道路を通らなければならないから、どうしてもかかる。


美保子さんの陣痛は明らかに強くなっているみたい。
間隔も10分切ってる。

病院の夜間出入口には助産師さんがひとり待っていてくれた。

私が助手席から飛び出して行くと、慌てた助産師さんに止められる。


「そんなに急に動いちゃダメよ!」


「違う!違います!私じゃなくて!後部座席にいます!破水してます!」


私は怒鳴る。

そりゃ、そうか。
私も出産間近の妊婦だもんな。
間違えても無理はない。

助産師さんが持ってきた車椅子に乗せられて、美保子さんは院内へ。
私も付き添う。

ナースステーションで助産師さんが一瞬私たちから離れた。
待たされながら、私はハラハラ。
だって、美保子さん、すごく苦しそうな息遣い。


「佐波さん」


「なになに?痛い?」


覗き込むと、美保子さんが顔をしかめながら言う。


「先に頑張ってくるわ」


「うん……うん!やっとチビちゃんと会えるね」


「ええ、やっとこの手で抱ける。嬉しい」


美保子さんは薄く笑い、万感こもる声で呟いた。
その微笑みは忘れられないくらい美しかった。




流産を、不妊治療を乗り越えて、
今、美保子さんがママになる。

それが、私も本当に本当に嬉しい。

私はLDR(陣痛分娩室)に入る美保子さんを見送って、溢れた涙を拭いた。


一時間もしないうちに、美保子さんの旦那さんが病院に到着した。
たぶん、空港からタクシーですっ飛んで来たのだろう。
髪はぐしゃぐしゃ、ワイシャツは汗で貼り付き、メガネはズレて、本当に焦った様子だった。

写真で知っていた私はすぐにわかり、立ち上がる。横で部長も立ち上がった。
ご主人も私が誰かわかったようだ。


「一色さんですね。この度はありがとうございました!」


「いえいえ、出過ぎた真似をしまして。美保子さんは今、LDRの中です。私たちはこれで失礼しますので、行ってさしあげてください」


「本当にありがとうございました。産まれましたら、是非、遊びにいらしてください」
美保子さんの旦那さんは、何度も頭を下げながらLDRへ入って行った。

その背を見送ると、私も部長もふーっと大きく息をつく。
大きな仕事を終えた気分と、自分たちも近く同じ経験をする緊張感。


「ドキドキしますね」


「ああ、あとはご夫婦と赤ん坊に任せて帰ろう。夕飯だ」


「ゼンさん、かっこよかった」


「は!?……当たり前だ。バカ」


ストレートに褒めると照れる部長。
可愛いなぁ。

私は部長の腕に自分の腕を巻き付け、病院を後にした。


頑張れ、美保子さん!


心の中で声援を送り、そして祈る。


どうか、母子ともに健康でありますように!





その晩、日付が変わった深夜2時。

美保子さんは3250グラムの男の子を出産した。

元気な泣き顔の赤ちゃんと、抱っこで微笑む美保子さんの写真が翌朝送られてきて、
私は嬉しくて大泣きしたのだ。







目の前でくーくー眠る赤ちゃん。
薄い皮膚、ぽわぽわの髪の毛。
ちいちゃい手はぎゅっと握られている。


「かわいぃ……」


思わずため息みたいに漏れた言葉。

横で美保子さんがうふふと笑った。


「ありがとう、佐波さん。純くん、ほら褒められたわよ」


美保子さんはベビーベッドで眠る赤ちゃんの頬に右手の甲をくっつける。
赤ちゃんはよく寝ていて目覚めない。


「お名前、決まったんだね」


「ええ、『純誠(じゅんせい)』って」


美保子さんは嬉しそうに微笑んだ。


39週3日。
今日、私は退院したばかりの美保子さんの家に赤ちゃんを見にきている。
美保子さんも赤ちゃんも異常なく日曜に退院した。
ご両親もお見えになるし、お顔を見に行くのは日を空けてからの方がいいかと思ったんだけど、
美保子さんが是非にと言ってくれるのでお言葉に甘えてやってきた。

産まれたての美保子さんのベビー。
純誠くん。

まだ赤い顔したふにゃふにゃベビーだけど、きっと美保子さんに似て整った子になるんだろうなぁ。


「純くーん。って起こしちゃダメだね。ねぇ、お名前の由来聞いてもいい?」


うちは決まってないし、参考までに。


「誠は主人の『誠一』から一字もらったの。純は、……実は流産した赤ちゃんの胎児ネームだったの」


美保子さんは困ったように笑う。


「授かって流れてしまう短い間だったけど、男女どっちでもいいように『純ちゃん』って呼んでだの。亡くなった子の名前をもらうのも、悩んだんだけど、どうしてもつけてあげたかった」


美保子さんにとっては、亡くなった赤ちゃんの存在証明なのかもしれない。


「いい名前だね」


私が微笑み、美保子さんも嬉しそうに微笑んだ。

ふたりでテーブルについてお茶を飲んだ。
私が持参したおっぱいに良さそうな豆大福がお茶請けだ。


「どう?育児は」


「まだ、ね。わけわかんないうちに一日が過ぎていくって感じ。病院は基本、母子別室だったから、昨日の晩が初めて、一晩一緒だったの。思ったよりよく寝てくれて。気になって、何度も起きちゃった」


「おっぱいは?出る?飲んでくれる?」


「うーん、少しずつ出るようになってるみたい。でも、結構この子が飲むから足りないのかな。ゆくゆくは完全母乳でいきたいから、少しずつミルクは減らしていくつもりよ」


語る美保子さんの姿は、もうすっかりママだ。
なんか、すっごく素敵。
うらやましい!