「中井くん。お付き合いの期限は戻るまで、だからね」
今から彼女になる、その子にきっぱりと期限を突き出された。
喜んでその期限を呑むぼくは、確認する意味も込めて彼女に聞き返す。
「期限付きのお付き合いだね? 分かった、ちゃんと覚えておくよ仲井さん。その方がお互いのためだろうしさ」
ぼくも彼女もナカイ。同じ苗字の音だけど、漢字が一文字違う。
にんべんが付いている方が仲井さんで、付いていない方がぼく。
とてもややこしい。
クラスメイトから『ナカイ』と呼ばれる度に、ぼくと彼女が反応して振り向いてしまうのだから。
そう思うと、日本で数の多い苗字『佐藤さん』や『田中さん』、『鈴木さん』辺りはいつも苦労しているんだと思う。
同じ苗字の音を持つぼく達だって苦労することがあるのだから。
ちなみに彼女の下の名前は知らない。
だって、仲井さんとは仲良くもなければ親しくもない、ただの同級生だ。会話こそしたことはあるけど、それだけ。
はっきり言えば性格が合わないと思う。
ほら、よくあるだろう?
そいつとしゃべった瞬間、『あ、この人とはお友達になれそうにない』っていうあれ。
悪い印象を持たれたくないから愛想は振る舞うけど、何を話しても会話が弾まない。まさに仲井さんはそれだ。
きっと彼女も、ぼくの下の名前を知らないと思う。
仲が良ければ『ナカイ』と、よそよそしく呼び合わずにいられるんだけど……よりにもよって、しゃべるだけでも壁を感じる仲井さんがぼくの彼女か。
上手くやっていけるかな。先行き不安だ。
「なんで、こんなことになっちまったんだろうな?」
お付き合いの原因となった話題を仲井さんに振る。
すると彼女は唇をヒヨコのようにとがらせ、むすっと頬を脹らませると、「中井くんのせいだよ」と、すべての責任をぼくに押し付けてきた。
それには異議申し立てをしたいところだ。
確かに原因を作ったのはぼくのせいかもしれないけど、ふたりの身に降りかかった災難はぼくのせいの一言じゃ片付けられないじゃないか。
「これ、誰かに相談したいよな。いっそ医者に相談したらいいかもしれない」
そんなことをした日には頭の心配をされるだろうけど、
「誰も信じてくれないと思うよ。わたし達だって、わけ分からないんだから。やっぱりこれは、わたし達でどうにかしないといけないと思う」
「そうだよ、な」
「……そうだよ」
ふたりの間に沈黙が流れる。
ちょっとだけ視線を落とすと、机の上に二冊の本が置いてあった。
一冊は貫禄のある分厚い本。
ぼくの親指の幅ほどページ数がある。
表紙には『初心者向けのイラスト講座』と題名が記され、鉛筆描きされている人間が笑顔を作っている。
もう一冊は雑誌。
それは映画専門の雑誌で、表紙一面におぞましい仮面をかぶった人間がチェーンソーを振りかざしていた。
いかにもホラー映画の登場人物だと分かる。
これはぼくと彼女の私物だ。
どっちがどっちの私物なのかは、お互いの見た目で分かると思う。
それが理由に挙げられなくとも、ぼくは美術がとても苦手だ。
有名絵画を見たところで感動よりあくびが出る。
絵を描こうとしたってペンを握ったら、真っ白な紙に棒人間を並べるだけ。芸術とは全然縁がない。
なのに、ぼくはこれっぽちも興味のないイラスト講座の本を手に取り、彼女は映画専門雑誌を手に取った。
「もう一度確認するね。お付き合いの期限はわたしときみが元通りになるまで」
「ああ、分かっているよ。今持っている本が、持ち主の下に戻るその時まで、だろう? ちゃんと理解しているから」
「それまで、大切にしてね。わたしの気持ち。中井くん、変なことしないでよ?」
「いやいや人聞きが悪いからね。ぼくの気持ちだって仲井さんの中にあるんだから、そっくりそのまま返すよ」
まず変なことってなに? なにをするんだよ。
「……はじめての彼氏がこんな形でできるなんて」
「それもぼくと同じだから! そう、あんまり落ち込まないでくれるかい? しかたがないとはいえ、さすがに傷付んだけど」
「だって、彼氏ができるって、もっとキラキラと輝いているものだと思っていたから」
「あー……なら一応ちゃんと告白しておくべき? 思い出作りには協力するよ」
「べつにいいよ。適当に告白されても嬉しくないし、相手は中井くんだから」
仲井さんは本当に辛らつな子だよな。
すでに仲良くなれる気がしないんだけど。
「元通りになるそれまで、とりあえずよろしく。中井くん」
「こっちこそ、適当によろしくね。仲井さん」
こうして、ぼく達はお付き合いを始めた。
どちらかが想いを告げたわけでも、恋に落ちたわけでもない。
ちょっとした事故で関わるようになってしまった、不思議な関係だ。
誰に言っても信じてもらえないだろう。
ぼくは仲井さんの、仲井さんはぼくの、気持ちが入れ替わってしまった、なんて。
だけど、ゆめでもなんでもない。
ぼくたちは入れ替わった。
今、ぼくの中には仲井さんの気持ちが宿っている。
そして彼女の中には、ぼくの気持ちが宿っている。
⇒【1】
【1】
ふたりのナカイ事件簿
「中井。仲井さんと付き合い始めたって本当かよ? やっぱりあれだな、同じナカイに運命を感じたんだろう。どっちが告白したんだ?」
朝から何度目だろうか、この質問が飛ばされてきたのは。
ぼくはいい加減、クラスメイトのからかいがてらの質問攻めにうんざりしていた。
やっぱりお付き合いは早まった選択だったかもしれない。
良きお友達として振る舞う方が得策だったか?
なによりも……誰だよ。
ぼくと仲井さんが付き合い始めたことを言いふらしている奴は。
ぼくは一言も仲井さんとの関係を公言した覚えはないんだけど。仲井さんか?
何気なく背後に視線を流すと、以心伝心でもしたかのように文庫を読んでいた仲井さんと目があった。
あからさま引きつり笑いしている仲井さんの、目が笑っていないこと笑っていないこと。
おおかた、ぼく達の会話に聞き耳を立てていたのだろう。
犯人は彼女じゃないようだ。
「なあ中井」
しつこいクラスメイトに、投げやりでぼくから告白したことを教える。
嘘は言っていない。
そこに好き、という気持ちがないだけで。
「へえ。お前って仲井さんのような、おとなしい子がタイプだったんだな。意外だよ。もっと活発的な子が好きだと思っていたのに」
当たっている。
ぼくのタイプはクラスを引っぱっていくような、活発的で明るい子だ。
「ま、良かったじゃん。オーケーしてもらえて。おれは仲井さんとお似合いと思うぞ。あ、結婚しても苗字には困らないな。にんべんを付けるか、付けないかの差だぜ?」
「柳。お前もそれを言うんだな。勘弁してくれよ」
ああほら、向こうで仲井さんが机に撃沈している。
うらやましい、ぼくも撃沈して質問攻めから逃げ出したい。
これも、それも、全部あの衝突事故のせいだ。どうすればいいんだよ。
◇ ◆ ◇
ぼくと仲井さんの気持ちが入れ替わってしまった。
口にしたところで、言っている意味も、理解できないと思う。
当事者のぼくも、仲井さんもいまだに混乱しているのだから、他の人間に話したところで首をかしげられるに違いない。
それでも、これは事実なんだ。ぼくと仲井さんの気持ちは入れ替わってしまった。
原因となったのは、さかのぼること三日前。
その日、ぼくは二学期早々職員室にいる担任から呼び出しを食らっていた。
理由は単純明快。夏休みをめいっぱい楽しんだツケが回り、提出物である宿題の三分の一を投げ出してしまったからだ。
これでも出校日や、夏休み最後の週に死に物狂いで片付けようとしたんだけど、無理なものは無理だった。
特に現代社会からの自由研究。
まさか高校になってからも、自由研究の提出を要求されるとは思わなかったよ。
なんで、高校に入っても勉強三昧なんだろうな?
去年、受験生だったぼくとしては、高校生になったら中学生ではできない遠出をしたり、海に行ったり、夏祭りに行ったり、と遊びまくると目標を立てていたわけで。
サボった罪は軽いと思うんだけどな。去年は勉強を死ぬほどがんばったんだから。
話は戻り、職員室を出たぼくは不貞腐れていた。
悪いのは自分だって分かっていたし、担任の言い分も理解できる。成績に響く懸念だって持っていた。
けど、そこまで怒らなくていいじゃないか。ちょっと宿題をサボったくらいで。三分の二は片付けたんだから。
「くそ、最悪だ。二学期早々放課後に呼び出されるなんて。恨むぞ岩倉」
一時間は軽く説教をしてきた担任に、ぶつぶつと恨み節を唱えながら昇降口に向かう。
どうしてもムシャクシャが止まらないから、ぼくは友達に借していた雑誌を通学鞄から引っ張り出す。それは映画専門雑誌だった。
ぼくは映画を観ることが好きだ。
映画は今の自分が忘れられるほど、魅力的な世界を魅せてくれるから。
万人受けする人気の映画も良いし、B級映画と呼ばれるコアな映画も好きだ。特に洋画が大好きだ。
もちろん邦画もいいけど、壮大な世界を魅せてくれるのはなんて言っても洋画だと思うんだ。
ただし好きなジャンルはアクション、SF、ホラー。恋愛は得意じゃない。歯の浮くような台詞が、どうしてもぼくには受け付けないんだ。聞いただけで鳥肌が立っちまう。
最後に観た恋愛映画は『タイタニック』だったかな。
まだ小学生だったぼくには、豪華客船が沈む印象しかなかったけど。
「やっと返ってきたよ。この雑誌に書いてある映画の記事がおもしろいんだよな」
十二分に周りを確認して雑誌を開く。
そこには、大好きなホラー特集の映画記事がびっしりと載っていた。
『先取り夏のホラー特集』という見出しが目を引く。
夏といえばホラーだよな。
ホラーに関しては、日本のホラー映画を観るに限る。
「でも、この記事が推している映画はイマイチだったんだよな。開始三十分でオチが読めちゃったから」
誰も予想できないどんでん返しの結末があってこそ、最高のホラー映画だと思う。
ぼくはページをめくり、お行儀悪く昇降口まで歩き読みをする。
雑誌の記事に目を通すだけで、ささくれ立っていた気持ちが穏やかなものとなった。
腹が立ったら、好きなものを見て忘れる。それが一番だ。
だけど昇降口に辿り着く前に、
「中井!」
背後から怒号が聞こえてきた。
運が悪いことに学年主任の斎藤に見つかってしまったようだ。
別名"鬼の学年主任"と呼ばれる斎藤は、ぼくの手に持つ雑誌に気付くや、それは学校に持ち込むものじゃないと判断。
それを自分に見せろと命令し、ずんぐり太った腹を揺らしながら早足で歩んできた。
「まじかよ。斎藤じゃん」
あいつに捕まったら確実に生徒指導対象だ。
最悪、学年集会を開かれるかもしれない。
それだけならまだしも、この雑誌が没収されかねない!
斎藤に没収されたら卒業まで返してもらえないと噂を聞いているぼくは、急いでその場から逃げだした。
どうしてもこの雑誌を没収されるわけにはいかない。
特にこの雑誌はお気に入りで、やっと友達から返してもらったんだ。
指導なら明日にでもたっぷりと受けるから、今は見逃してくれ!
「岩倉の説教の後は、鬼の学年主任と鬼ごっことか。今日は厄日かよ」
誰がどう見てもぼくが撒いた種なんだけど、自業自得だっていうことも分かっているんだけど、それでも嘆かずにはいられない。今日はとんだ災難だ!
昇降口近くの階段を駆けのぼり、斎藤から逃げる。
通学鞄に雑誌を仕舞う余裕はない。
頭の中は見つかったことに対するパニックと、どこかに雑誌を隠してしまうことでいっぱいだ。
何が何でも没収だけは回避したかった。
一階から二階、二階から三階、そして三階から四階に差し掛かった時だ。
「どこだ中井!」
下の階から心臓が縮み上がる怒号が聞こえ、ぼくは思わず後ろを振り返ってしまう。
だから気付かなかった。踊り場の鏡の前で、同じ『ナカイ』の名前を持つクラスメイトが、自分の名前を呼ばれたと勘違いして足をすくめてしまったことを。
ぼくはぶつかる寸前まで仲井さんに気付かず、視線を戻して、彼女の存在を知った。
「うわ、ちょ!」
「きゃっ!」
どちらが先に悲鳴を上げたのか。
それは時刻を知らせるチャイムによって掻き消され、分からなくなってしまう。
鏡の向こうに映るぼくと仲井さんは鳴り始めるチャイムと同時にぶつかり、それぞれ手に持っていた本と雑誌が投げ出された。
派手な衝突事故だった。
お互いに尻もちをつくほど、勢いづいてぶつかってしまったのだから。
トドメを刺すように、仲井さんの持っていた分厚い本の角がぼくの脳天に直撃して身悶えしまう。
目から星が出るって言葉、あれは本当だった。世界がチカチカしたもん。まさに踏んだり蹴ったりだ。
バサバサ、と音を立てて転がる本と雑誌を尻目に、ぼくはうめき声を上げてしまう。
「イタタタ。一体なにが起こったの?」
同じようにお尻をさすって、うめいている仲井さんは涙目でぼくを見つめた。相当痛かったようだ。
ぼくは彼女に両手を合わせ、「ごめん! ちょっと慌てて」と、頭を下げて謝る。
「鬼の学年主任に、雑誌を読んでいるところを見られちゃって。あいつに没収される前に逃げてきたんだ」
自分がお行儀悪く、廊下で歩き読みしていたことは伏せておく。それを説明したら非難を浴びそうだから。
仲井さんは納得したように、ひとつ頷いた。
鬼の学年主任はぼく達生徒の間では、とても不評な先生だ。
校則に厳しいだけじゃなく、小さなことで注意をして、すぐ怒ってくる。
例えば、廊下に落ちていたゴミを拾わない。
それだけで学年集会になったことがあった。
お前達の善意はどこに行った。掃除の仕方から勉強しないといけないのか。小学校からやりなおせ、なんて怒鳴られたことがある。
言いたいことは分かるけど、集会を開いて二時間も説教する内容じゃない。
ぼく達生徒をストレス発散にしているんじゃないか、とあの時は疑ったよ。