あしたはきっと、ゆめ日和



「旭、ぼくは少しずつ前に進んでいるよ。怪我も完治した。ギターと向き合うことだってできた。こうしてお前に会いに来ることもできた」


だからもう、ギターを弾くことに負い目を感じて欲しくない。

ぼくを負い目に感じて欲しくない。


ハブられたことだってあったし、責められたことだってあったし、傷付けられたことだってあったけど、ぼくもお前もギターが好きだ。それに変わりはない。


もう充分だ。

旭はずいぶん苦しんだ。ぼくが逃げてしまうことで、お前を苦しめていた。ぼくもお前を傷付けていた。

いつの間にか、旭のギターを好きな気持ちを奪っていたよ。


「ぼくは今、ギターが好きだよ。やっていて良かったと心から思う。お前とも会えたしな。旭はギターが好きか?」


質問に答えは返ってこない。

ギターを抱えたまま、旭は体を震わせて何も言わなくなってしまった。

「ごめんな」ずっと避けていたことを謝罪すると、「謝んな」上ずった声で突っぱねられる。

謝って欲しくない。謝る要素なんて何もないじゃないか、と旭。

それはぼくだって同じだ。旭に謝って欲しくない。もう終わったことだから。


「英輔……笑うかもしれねぇけど、おれ、ひとつ悔しいことがあってさ」

「なんだよ」


「あの学園祭でお前がギターを弾いているのを見て、なんであの頃……お前と一緒に弾けなかったんだろうって。まじもう、どうしようもねぇよな。自分で蒔いた種なのに。あの頃、一番おれはお前と近かったのに」


ちょっとしたすれ違いで、ぼくと旭は正反対の道を歩み始めた。

ギターを続けた旭と、ギターをやめたぼく、どっちがつらい道だったんだろうな。

けど、またこうして同じ道にたどり着いた。

ずいぶんと曲がりくねった道を歩いたけどさ。


「旭。笑うかもしれないけど、ぼくにはひとつの夢がある」

「……なんだ、夢って」


「いつかまた。お前達と一緒にギターを弾きたい。叶うなら、ステージに立ってさ」


これはクダラナイ夢だろうか。

旭に聞くと、「笑うかよ」と、また突っぱねられた。


旭は言う、自分も同じ夢を見ていた。叶わないと知っていながら、同じ夢を見ていた、と。


そうか。同じか。なら笑われる心配はないか。ぼくは肩を竦める。



「なあ旭。今週の日曜日、暇か? 観たい映画があるんだけど」


ぼくの映画好きは今も健在だ。

ギター好きが上回っているだけで、映画が好きな気持ちだって忘れていない。

一番じゃなくなったけど、映画は今も好きだ。映画はぼくを支えてくれたものだから。


そして、こんな時に役立つ。

すれ違っていた空白を埋めるために、小さなきっかけを作ってくれるんだから。


旭に言う。

今話題のホラー映画がある。彼女は付き合ってくれないから、一緒に行ってくれないか。そして映画の帰りに楽器屋に行こう。あの頃のように。

また旭とギターの話で盛り上がりたい。


「練習だってしないとな。いつか、お前とステージに立つために。旭、今度ぼくにギターを教えてくれるか? 今度、高校の友達に教えなきゃいけなくなってさ。ぼくはもっとギターを上手くなりたいんだ」


「おれで、いいのか?」


「何言っているんだよ。お前以上に上手い奴をぼくは知らないんだけど? なんなら、今から教えてくれてもいいんだぞ。残り二十分あるし」


ほら、お前のギターを貸せと両手で手招きをする。

戸惑いを見せていた旭が、「ほら」自分のギターを差し出して、今日はじめて小さな笑みを零してくれた。

ちょっぴり目が充血していたことは見ない振りをする。


「今週の日曜だな。楽しみにしているよ」


あの頃の時間が、今ここに蘇ったのだと実感する。


「旭、ギター変えたか?」「バイトで買ったんだ」「バイトしてんだ」「夏だけしたんだよ」「なんのバイト?」「引っ越し屋」「まじかよ。それ、きつそう」


そんな他愛もない会話をしながら、短い時間を過ごす。

たった二十分しかない時間だったけど、旭にギターを教えてもらった。

フィンガリングの仕方から、コードの切り替えから、音の覚え方から。

旭のように指が上手く動かなかったし、あの頃に比べてずいぶん下手くそにもなっていたけど、旭は熱心に教えてくれた。ぼくも熱心に話を聞いていた。


だから二十分なんてあっという間で。


公民館の館長に声を掛けられて、九時を過ぎていることに気付いた。




「掃除が終わったら、お友達さんと気を付けて帰って下さいね」


館長からそんなことを言われて、ぼくと旭は目を点にする。

あれは君達のお友達でしょう? と、館長が出入り口を指した。

そこには帰った筈の菜々達の姿。


ずっと様子を見守っていたようで、ぼく達と目が合うと控えめに手を振られる。が、旭の顔を見てメンバーは慌てたように逃げ出してしまう。


どうも旭は自分の情けない姿を他のメンバーに見られたくなかったようで、


「お前等ざけんなよ!」


怒鳴り声と共に扉に向かって走り出す。


「なに覗き見しているんだよテメー等!」


廊下から聞こえてくるのは、「だってふたりが心配で!」「旭、あそこはもっと泣いてもいいと思うぜ」「ばか、もう目が赤いじゃん」「まじ全員シバく!」


あーあーあーうるせぇの。

ぼくひとりで片付けをしろってか? 勘弁しろって。


こりゃ今度みんなと話すは撤回かもな。

この後、メンバーと話してもいいかもしれない。



今のぼくなら、それもできそうだ。



「明日、志穂にこのことを話そう」



きっと喜んで聞いてくれるに違いない。

ぼくは腰を上げて、出て行った旭を呼び戻すために扉へ向かう。


廊下では見られたことに、フツフツと怒りを噛みしめている旭の姿があった。

片付けよう、声を掛けるとあいつから返事をもらった。


それはさっきぼくが聞いた質問の答え。


「おれもギターが好きだ。やっぱ、ギターが好きでしょうがねえよ。英輔……おれ、お前を傷付けてから、好きになることすら許されない気がして。気がしてさ。おれ」


怒りの感情を表に出したことで、別の感情も一緒にこみ上げてきたんだろう。

大粒の涙を零しながら、あいつは何度もギターが好きだと答えた。なんども、なんども。


「知っているよ。ぼくもお前も、根っからのギターバカだからな」


小さく笑みを浮かべ、ぼくは旭の背中を軽き叩き、相づちを打った。なんども、なんども。



⇒【E】





【E】

 
   あしたはきっと、ゆめ日和









今も時々ぼくは仲井さんの気持ちが分かる。


例えば乗りに乗ってイラストを描いている時、例えば調子が悪くて何も描けずに落ち込んでいる時、今の自分はこれでいいのかとスケッチブックと向き合っている時。


イラストで一喜一憂する彼女を目にする度に、なんとなく気持ちを察する。


あ、今は楽しいんだろうな、とか。

今は苦しくて絵を描く気分じゃないんだろうな、とか。

自分の思い描いている将来に不安を抱えているんだろうな、とか。


あの時、彼女が抱いていた痛みを、苦しみを、つらさを、反対に楽しさを感じていたぼくだ。表情ですぐに分かっちまう。


それはきっと仲井さんも同じだろう。

ぼくがぼんやりとギターの雑誌を眺めていたり、自分の指先を見てため息をついたりすると、積極的に声を掛けてくる。

それによってぼくは落ち込んでいた気分を持ち上げたり、また過去の古傷を顧みることやめる。

お互いの気持ちを知っているからこそ、表情で分かってしまうんだ。


だからなのか。

最近の“ナカナカ”コンビは恋人扱いじゃなく、夫婦扱いを受けている。

一から十まで説明しなくても分かるところが熟年夫婦っぽいらしい。

ただし、それはお互いの一部の気持ちが分かっているから夫婦っぽくなっているのであって。


カレカノとして接すると、なんか、こう初々しくなってしまう。


今こそ下の名前で呼び合うことができるけど、最初はそれすら大変だった。

癖でどうしてもお互いにナカイと呼んでしまう。

今まではそれで良かった。

期間限定のカレカノだったんだから、苗字呼びでもなんでも良かった。どうせ別れるのだと割り切っていたのだから。



けど、正式にお付き合いを始めたらそうもいかない。


ぼく的に苗字呼びのままでも良かったんだけど、仲井さんが友達にこっそりと「中学時代の女の子は名前呼びなの」と、相談していたところを聞いてしまった。


菜々の言う通り、仲井さんは彼女に嫉妬していたんだ。

その理由は後から、本人に直接聞けた。

曰く、ぼくのギターの気持ちに付録として菜々の気持ちがくっ付いていたそうだ。

それはきっとギターを通して旭や菜々と知り合ったせいだろう。


彼等に対して貫くような痛みを感じることもあれば、ほんのりと恋心を感じることもあったそうだ。


それを聞いてしまえば意地でも名前で呼ぶしかない。

そりゃ菜々のことは好きだったけど、今好きなのは仲井さんなんだ。誤解はされたくない。


ぼくは腹を括り、彼女に宣言した。


「もうナカイって呼んでも反応しないから。仲井さんも、ぼくがうっかりナカイって呼んでも反応しないでね」


宣言から一週間は、思い出すだけでも恥ずかしい日々だった。

なにかと癖でナカイと呼んでしまう仲井さんを無視したこともあったし、逆にぼくが仲井さんの下の名前を呼ぶのに照れてしまうこともあった。

「英輔くん」と呼ばれた時には慣れていなさ過ぎて、変な声で返事をしてしまったっけ。


あの自称恋愛マスターの柳ですら、ぼく達のやり取りに「もう無理。お前等甘過ぎる」と、言って逃げ出してしまったという……あまり、あの時のことは思い出したくない。恥ずかしさで死ねるから。


しょうがないだろ。仲井さんはぼくの初カノ。

なにもかもが初めてなんだから、どうすりゃいいのか分からないんだよ。

カッコイイことはしてやりたいけど、下手に気取ったってボロが出るだけだ。


でも、これだけはキッパリ言える。

彼女のことは大切にしたいとは思っている。


今も仲井さんとお付き合いは続いている。

それは期間限定ではなく、お互いの意思を持ったお付き合い。


これから先、彼女と続いていくかどうかは分からないけど、ぼくは仲井さんと出逢えたことを本当に感謝している。

あの不思議な体験だって感謝も感謝だ。


あれがなければ、ぼく達は性格上、合わないと思って話すことすら儘ならなかっただろうから。




「それ。ヒヤシンス?」


放課後、ぼくと仲井さんは視聴覚室で過ごしていた。

期間限定の付き合いから、この時間はちっとも変わっていない。

ここでぼく達はふたりっきりの時間を過ごす。


一緒に漫画を読むこともあれば、お互いの雑誌を読むこともあるし、仲井さんはスケッチブックに絵を描くこともある。

ぼくはギター楽譜を眺めて、コードを指で覚えようとする。

そんな穏やかな時間を過ごす。


仲井さんのスケッチブックを覗き込んだぼくが、それはヒヤシンスか、と尋ねると、彼女は大きく頷いた。


「お母さんの命日は今月だから。今年は間に合いそう」

「そっか。良かったじゃん。描けないって嘆いていただろ?」

「うん。それでね英輔くん。ヒヤシンスのペン入れが終わったら一緒に塗ろう」

「……また志穂は。ぼくの色塗りの下手さを知っていて、それを言うの?」

「知っているよ、英輔くんが下手くそなのは」


このやろう。はっきり言ってくれちゃって。


「でも、わたしは英輔くんと塗りたいの。これを仏壇に飾って、お母さんに報告するんだ。好きな人と一緒に塗りましたって。ヒマワリも喜んでくれたと思うけど、ヒヤシンスはもっと喜んでくれると思うんだ」


なにより、誰かと一緒に色を塗ったら楽しい。好きな人と塗ったら、なおさら楽しいと仲井さん。

それを聞いたぼくは額に手を当てて、言い知れない羞恥心を噛みしめた。

仲井さんの天然の殺し文句はいつ聞いても慣れない。心臓が破裂しそうだ。


嬉しい? ああもう、嬉しいよ。嬉しくて爆発したい気分。


じっと見つめて、返事を待つ仲井さんに「分かった。わかったよ」と、ぼくは折れて一緒に色塗りをすると答えた。

下手くそでも文句は言うなよ、と付け加えて。


嬉しそうに頬を上気させる仲井さんの笑顔に悔しさを覚え、ぼくはスケッチブックを取り上げてパラパラとそれをめくっていく。


これはいつもやっていることなんだけど、今日の仲井さんは中身を見られたくないのか、「あ」と言って焦ったように手を伸ばしてくる。




「なに、ヒヤシンスの他に何か描いているの? べつに何を描いても驚きは……」


驚いてしまった。

最後のページにギターを持った少年の下書きが。

胡坐を掻いている少年の膝や頭には、ぶすくれたヒヨコが数匹のっている。


ギターを弾いている少年は、すごく楽しそうだ。

ヒヨコ達に向かって笑顔を作っている。


そのぶくすれたヒヨコは見覚えがあった。

あの学園祭で弾いた曲の楽譜にいた奴等だ。

じゃあ、そのギターを弾いている少年のモデルは。


「それ、学園祭で弾いた時の英輔くんをモデルにしているんだ。あの時の英輔くん、本当に楽しそうだったの。カッコ良かったし」
 

本当は完成してから見せようと思ったのに。

気恥ずかしそうに唇を尖らせて、ぶすくれヒヨコと同じになる仲井さんにぼくは頬を緩ませてしまう。

そっか、あの時のぼくはこんな風に笑って弾いていたのか。


再来年の学園祭も、こんな風に笑って弾いていられるといいな。


「志穂。これ、完成したらぼくにくれないか?」

「え?」


「忘れたくないんだ。こんな風に弾いていたぼくを。また、いつか、落ち込んでギターを嫌いになりそうになったら、これを見て励まされようと思って」


きっと、この絵を見る度にぼくは思い出すだろう。

ギターが好きな自分を。好きなものを好きだと言える、正直な自分を。入れ替わったあの日々を。


ぼくは何一つ忘れたくない、仲井さんと入れ替わった時間を。


彼女が全部ぼくに教えてくれた。自分を偽らない大切さを。本当の自分と向き合う勇気を。そして人を好きになる気持ちを。

ぼくも彼女に教えられることはあったかな。あったとしたら、ぼくはとても嬉しいよ。





「ねえ、キスしてもいい?」


すっかり日が暮れた七時頃。

視聴覚室にいたぼくは帰り支度を終わらせた仲井さんと教室を出て、人気のない四階の階段を下りる。

その途中、ぼくは彼女にキスをしてもいいか、と尋ねた。

イラストを描いてもらっていた気持ちが昂り、どうしても仲井さんとキスをしたくなったんだ。


その前から機会は狙っていたんだけど、なんとなく言いづらくて。

“ナカナカ”コンビは、ナカナカに恋の進展が遅いってか? 全然上手くねーの。


先に踊り場まで下りたぼくを、仲井さんが驚いた顔で見下ろしてくる。ぼくは誰かさんのマネをして唇を尖らせた。


「好きなんだから、そういう欲を持ってもしょーがないだろ」

「だ……誰のマネ、それ」

「分かっているくせに」


へらへらと笑ってやれば、仲井さんが顔を真っ赤にしてわなわなと体を震わせてくる。

あ、やば、怒らせた? キスは無理っぽい? おあずけ?

彼女はずんずんと下りていた階段を二段、三段、上ってしまう。


ぼくとは違う階段を使うのかと思いきや、「じゃあ受け止めてね!」と、仲井さんがワケの分からないことを言ってきた。

じゃあ受け止めて?

頭上に疑問符を浮かべるぼくが、血相を変えたのはこの直後。勢いをつけた彼女が降ってきた。まじで階段から降ってきた。


「ば、ばか! なにして、ああもう!」


落ちてくる仲井さんを受け止め、ぼくはその場で派手に尻もちをついた。

なんなのもう勘弁も勘弁なんだけど。尻がいってぇのなんのって。

荷物を持ったまま飛び下りてくるし、重いし、痛いし、なにより心臓が止まるかと思った。


呻いているぼくの腕の中では仲井さんが「怖かった」と感想を述べていた。

当たり前だ。ぼくも怖かったよ。

いきなり受け止めろ、とか無茶ぶりにもほどがあるだろ。


「おい志穂」怒りを見せるぼくに、「また入れ替われる気がして」彼女は悪戯っぽく笑いを零した。

はあ? また入れ替わりたいってか? なんで。


「入れ替わって、英輔くんがわたしと本気でキスしたいかどうか確かめてやろうと思って。真剣になったと思ったら、すぐ茶化すから」


ばか、そういう空気にしないと焦るのは仲井さんじゃん。

こっちの気も知らないで。ナカナカに鈍い子だよ、ほんと。


それとも実は期待を寄せている彼女に気付かない、ぼくが鈍いのかな?


さすがは“ナカナカ”コンビ。ナカナカに上手くいかないったらありゃしない。


向こうに見える鏡に目を向け、ぼくはそれを指さす。