あしたはきっと、ゆめ日和



そうだよ、嫌いになったんだ。

ぼくは知らない、あんな楽器のことなんて。

弾いていた時の自分なんて。飽きたんだよ。モテたいから適当に弾いていたんだよ。


そう思っているから、べつに許すも許さないもない。


ふたりが責任を感じることもない。これ以上、ぼく達になにもない。これは終わった話にしか過ぎない。


「久しぶりに会って何を言いだすかと思えば、笑わせないでくれるかい?」

「英ちゃん、わたし達はあの時のことを話したいの。そして、また英ちゃんにギターを弾いて欲しいの。みんな、待っているよ」


「待っている? そういうのはいいよ。清々しているってことくらい、ぼくには分かっているし」

「ち、ちが。本当に待っているの。みんな、英ちゃんが戻って来てくれる日を……わたし達と話してくれる日を」


ぐらり、と仲井さんの体が前乗りに倒れそうになったのは、この直後だった。



「な、仲井さん?! 大丈夫!」



倒れそうになる体を受け止めるも、「き、気分が」と彼女がしゃがんでしまう。

血の気ない蒼白な顔色は、彼女の体調不良の深刻さを教えてくれる。

どう見ても歩けそうにないから、ぼくは彼女を背中に乗せることにした。


「ご、ごめんね……中井くん。ちょっと吐きそう」

「いいよ。どこかで休もう。旭。菜々。もう行くからな。ぼくはお前達と話すことなんてないから」




できたら、もう二度と関わってくれないでくれよ。お互いのために。


ぼくの歪んだ微笑みがふたりに届いたのかどうかは分からない。

何か声を掛けられたような気もするけど、頭の中は仲井さんでいっぱいだ。


どこへ行こう。


仲井さんが休めるところ。

トイレが近いところがいいかな。

喫茶店だと周りにお客さんがいるだろうから、彼女が気を回す。


コンビニでトイレを借りるのも手だけど、まずは座る場所の確保だ。


結局、思い当たる場所は当初目的としていたバス停だった。


まばらにバスを待つ乗客がいたけれど、ヒト一人分の座るスペースはある。

そこに仲井さんを座らせると、少しでも気分が良くなるように近くの自販機でミネラルウォーターを買った。


その頃には、仲井さんの頬に少しだけ赤みが差した。

さっきよりは気分が良いんだと分かる。


バスに乗れそうか、と尋ねると、彼女はうんっと頷いて、「ごめんね」と申し訳なさそうに謝ってきた。


気にしていない。むしろ、謝りたいのはぼくの方だ。


不本意とはいえ、彼女に気を遣わせてしまったから。


察しの良い彼女は気付いているだろう、さっきのふたりとぼくの間柄に漂う不穏な空気を。


それを追求しないのは、仲井さんの優しさだと思う。


「次のバスに乗ろうか」


仲井さんの隣に座っていたサラリーマンが立ち退いたため、ぼくは遠慮なくそこに腰を下ろす。


ミネラルウォーターの入ったペットボトルの蓋を開けていた彼女が、少し間を置いて頷いた。

そして、物言いたげな横顔がぼくの方を向く。


「中井くん……やっぱり、気になるから聞くね――きみが本当に好きなものはなに?」


どきり、と心臓が鳴る。

質問の意味が分からないのに嫌な汗が流れた。


口の中の水分が急速に失われていく。
ぼくの好きなもの? そんなの仲井さんが一番分かっているじゃないか。


ぼくは映画が好きだ。雑誌を買ったり、その記事をスクラップしたり、DVDそのものを買ったりして楽しんでいる。



ぼくの気持ちを持つ仲井さんが一番分かっているじゃないか。



いつものようにおどけて返さないと。返さないと。かえさない、と。





何も答えられずにいると、仲井さんが視線を戻し、持っているペットボトルを軽く振った。


「弾けない。怖い。もう嫌だ。夢なんて見たくもない、好きなものだと言いたくない。こんな自分が嫌いだ。さっきの中井くんは、そう思っていた」


水の中に生まれる気泡を見つめる仲井さんを凝視してしまう。

なんで、彼女がそんなことを。だって入れ替わった気持ちは映画の、えいがの。


「黙っておこうと思っていたんだけど、中井くん……教室で柳くん達とギターを触っていた時も同じようなことを思っていたの。すごく、悲しい気持ちになった。それが嫌いだと思い込むきみの気持ちまで、ひしひしと伝わってきて。わたしはとても泣きそうになって」


ああ、なんで、よりにもよって。


「好きなものを否定する、嫌う、悲しいきみがわたしの中にいる」


あの気持ちが仲井さんの中に宿っているんだ。



「本当は聞いちゃいけないことなのかもしれない。見ない振りをする方が良いのかもしれない。だけど、わたしにはできなかった。中井くんが悲鳴を上げている、その声をどうしても」



――好きになってしまった女の子の心の中に、あの気持ちが。


どおりで、忌々しい楽器を目にしても何も感じなかったはずだよ。

ギターの弦の張り替えをスムーズにこなせたはずだよ。


菜々や旭を目にしても、動揺せずに済んだはずだよ。


なら、さっき仲井さんが気分を悪くしたのは、ぼくの気持ちのせいか。

あの気持ちはぼくだけでなく、彼女までも傷付けるのかよ。どこまでも苦しめてくるんだな。



どうにかしないと。

ぼくの気持ちが、ぼくだけでなく仲井さんを傷付けるなんて絶対にあっちゃいけないことだ。



「仲井さん。今から学校に行こう。あの雑誌と本を持って」



目を丸くする仲井さんは、べつの返事を待っていたに違いない。


だけど、ぼくは彼女に言い放つ。



「今すぐ、ぼく達は元に戻らないといけない」



⇒【6】





【6】

 
   消えろ、きえろ、きえろ









「な、中井くん。今から学校なんて無理だよ。閉まっているかもしれないし、わたし達は制服じゃないんだよ。学校に入れないよ。例の雑誌や本も持っていないし」


真上の空はすっかり色を変え、星が瞬き始める。夜が訪れたようだ。


バスを降りて地元に戻ったぼくは、仲井さんの腕を引いて夜道を突き進むように歩いていく。


目指すは学校だ。それしか頭にない。


彼女が必死に無理だ、落ち着いて、止まって、と訴えるけど足は止まらない。思いも止まらない。


早く元に戻らないと、戻らないと。


そればかりがぼくを急かす。


「痛いよ、中井くん!」


道の途中、仲井さんが足を踏ん張る。

それによって歩調が遅くなった。非力な彼女じゃぼくを止められないようだ。


「急にどうしたの。わたし達、何度も元に戻ろうとしたよ? でも、できなかったから様子を見ようって話になったでしょ」

「今回は元に戻れるかもしれないだろ? 返してもらうよ、ぼくの気持ち。それは仲井さんが持っていちゃいけない」


持っているだけ、きっと仲井さんは傷付く。

それは傷付けることしかできないものなんだ。


彼女の気持ちのように、楽しい気持ちにさせたり、嬉しい気持ちにさせたり、感動させる気持ちにさせてくれるものじゃない。


ただただ、苦しくて、つらくて、重たいものなんだ。

映画だけなら仲井さんに預けておけた、ぼくの気持ち。


そこにべつの気持ちが宿っているなら、今すぐ元に戻らないと。


「無理だって!」声音を張ってくる仲井さんに苛立ちを覚え、「やってみないと分からないだろ!」と反論する。


「挑戦してもいないのに、なんで仲井さんが結果を決めているんだよ」

「なんとなく分かるよ。今回も失敗するって。それに今の中井くんは、戻りたいからやろうとしているんじゃない。何かから逃げようとしているから戻ろうとしている。わたしから逃げようとしているの?」

「そんなことヒトコトも言っていないだろ?!」

「態度で言っているじゃんか!」

そうでなければ、急に態度を変えて元に戻ろうなんて言わないし、今から学校へ行こうなんて言わないと仲井さんが強く言い放った。


「いつもの中井くんらしくないよ! なんで、わたしから逃げようとするの!」

「だから、ぼくは逃げていないって言っているじゃん!」




これは仲井さんのためなのに、どうしてそれを分かってくれないんだろう。

彼女だって早く元の気持ちを取り戻して、イラストと向き合いたいだろうに。


睨みつけてくる彼女を睨み返し、ぼく達は対立する。逃げている、逃げていないの言い合いは飽きもせずに繰り返された。


ぼくは逃げていない、仲井さんをこれ以上傷つけたくないから元に戻りたいんだ。それだけなんだ。

だから言われたくなかった。聞きたくもなかった。思い出したくもなかった。


「わたしに知られたくないの? 映画よりも好きなものがあることを」


やめてくれよ。


「だけど、わたしには分かっちゃうよ。きみの、好きな気持ちを持っているから」


やめてくれ。



「映画よりも好きなんでしょ。ギター」



その言葉を聞いた瞬間、ぼくは腹の底から「嫌いだ!」と叫んだ。

周りに通行人がいたかもしれないけれど、そんなの構っている余裕すらない。彼女に何度もギターなんて知らない。


嫌いだ。大嫌いだと主張する。明らかにぼくは動揺していた。


今のぼくの気持ちが仲井さんにどう届いているのかは分からない。

ただ、彼女は鋭い眼光を弱め、ぼくを哀れむように見つめていた。


それがぼくをもっと惨めにさせた。そんな目で見ないでくれよ。


ぼくはぼくの意思でギターをやめたようと思ったし、嫌いになったんだ。なったんだよ。


気付くと仲井さんから手を放し、背を向けて走り出していた。

呼び止める声すら逃げたい衝動の一因になる。


ぼくはわけも分からず、頭を真っ白にしてがむしゃらに走った。

あの頃の弱虫な自分を知られたくない一心で。


彼女から逃げ出した時点で弱虫毛虫だというのに。



息が切れるまで走った。

流れる汗を拭いもせず走った。

肺が痛くなるまで走った。


とうとう限界を迎え、ぼくはもつれそうになる足を止めて膝に手を置く。息を吸っても吐いても苦しい。




「あ」ようやく顔を上げることができたぼくは、自分が通っている高校の正門の前にいることを知った。

校舎の時計は七時を指している。

今日は土曜日、体育館に部活生校がいたとしても、校舎自体は閉まっていてもおかしくない。


なのに、ぼくは惹かれるように半開きになっている正門を潜った。

自分が私服だということも忘れて。


昇降口は開いていた。

迷わず校舎に入ると靴を脱ぎ、靴下のまま廊下を進む。

薄暗くて不気味な教室を通り過ぎ、一段いちだん階段を上っていく。


いかにも出そうな空気、何故か誰にも見つからない不思議、けれど恐怖心は薄い。

ホラー映画で耐性をつけているせいなのかも。


衝突事故を起こした三階と四階の間にある踊り場まで来る。

そこで鏡と向かい合い、ぼくは自分の情けない姿と対面した。

暗くても分かる自分の姿。本当にダサイ姿をしている。


変に作っている笑った顔も、走ったせいで乱れた髪も、流れている汗も。


その鏡に背中を預け、ずるずると滑るように腰を落とした。



「まじダッセェの」



なにしているんだよ。

体調が悪い仲井さんを怒鳴りつけた挙句、置いてきたとか。

せっかくのデートだったのに、自分から好きな子に幻滅させるようなことをしちゃって。

こりゃ嫌われてもしょうがない。告白すらできなかった。


投げ出していた右足を折り曲げ、それを抱えると、膝小僧に頭を預ける。

月曜日から仲井さんと、どうしていこう。一応カレカノなのに。痴話げんかで通るのかな、これ。

なにより。


「気持ちを元通りにさせないと。仲井さんにつらい思いをさせる」


今のぼくはギターを思っても胸に痛みを感じない。あの頃はよく痛みを感じていたのに。

その代わり、仲井さんが何かしらの痛みを感じているはずだ。

ぼくが仲井さんの痛みを感じたように、彼女も痛みを感じている。


それはきっと、ぼくが感じたよりもずっと強い痛みに違いない。


どうしたらいいんだろう。なにも分からない。ぼくは逃げてばかりだ。


「いっそのこと、ぼくの気持ちが消えてくれたらいいのに」


そうだ。消してしまえばいい。

仲井さんの気持ちを戻して、ぼくの気持ちを消してしまえば。


なにか良い方法はないかな。

あんな気持ちが戻って来たところで、ぼくに損しかないし。


目を瞑って、ぐるぐると思考を巡らせる。いっそのことぼくが消えたい気分。




「ナカナカは夜の学校で、"ナカナカ"に怖い思いをしているんですけど」


ゆっくりと瞼を持ち上げたぼくは、それが幻聴だと思い込んだ。

だけど衣服がこすれる音や、ちょっと早い息づかい、ぼくの前で感じる気配がそれは現実だと教えてくれる。


ゆっくりと正面を向くと、手提げ袋を抱いた仲井さんがしゃがんでぼくと視線を合わせようとしていた。

ワンピース姿のままだ。

さっき、あんなに制服じゃないと無理だって言っていたのに。


「なかいさん?」


どうしても目の前の彼女が本物に思えなくて名前を紡ぐ。

仲井さんがここにいるわけがない。

ぼくが置いてきてしまったんだから。


付け加えて逃げたし、怒鳴ったし、睨んだし。


なのに仲井さんはぼくの隣に座るとはだしの足をさすって、いつもの調子で話し掛けてくる。

「中井くんにホラーはだめって言わなかったっけ? よりにもよって夜の学校に行っちゃうなんて。靴下を履いていないから、足の裏は埃だらけだし……」

「なんで、ここに?」


「中井くんがここにいると思ったから」


ぼくが走り出した後、仲井さんはぼくの行方を探してくれていたという。

ただし、彼女は一度家に帰ったそうだ。


それは胸騒ぎを覚えたから。

彼女は手提げ袋から雑誌を取り出した。ぼくの雑誌だ。


パラパラとページをめくり、仲井さんは意を決したようにそれをぼくに差し出した。


「これを開いたら、ページが変わっていたの。これ、楽譜でしょ?」


雑誌を受け取って中身を確認する。

確かにそこには一面、楽譜で埋め尽くされていた。


表紙は映画雑誌のままなのに、内容は映画の記事から楽譜に変わっている。それもギターの楽譜に。


頭がくらくらしてきた。

ぼくが買った映画雑誌はどこにいったんだよ。


記事がお気に入りで、これを買ったのに――またギターの楽譜を目にするなんて。目にしてしまうなんて。




「ふざけるなよ!」

「な、中井くん!」


感情まかせに雑誌を向こうに投げてしまう。

仲井さんの目を気にする余裕はなく、ぼくは壁にぶつかった雑誌を睨みつけることしかできない。

そして、悲しそうに転がる雑誌を目にしてうなだれてしまう。


もう、わけが分かんねーよ。

なんで仲井さんの中に、映画以外の気持ちが宿っているのかも。


今までそれが出なかったのかも。なにもかも。


隣に座っていた仲井さんが雑誌を取りに行く。

止める気力すら無くなったぼくは、ただぼんやりと様子を見守るだけ。

彼女が折り目の付いた表紙を手で一生懸命に伸ばしながら戻って来る。

放っておけばいいのに、わざわざぼくに寄り添うように腰を下ろす。


「それ、捨てて良いよ。もう、ぼくにはイラナイものだから。燃やしたらいいかも。そしたら、ぼくの気持ち……仲井さんから消えてくれるかもしれない」


仲井さんは聞く耳を持ってくれない。いつまでも雑誌のシワを伸ばしている。

ふとその手を止め、彼女はぼくの左手を取った。

手のひらを自分側に向けて、指先を優しくなぞってくる。


「五本指に全部マメができているね。これ、ギターの?」


何も言えないでいるぼくに彼女は続ける。


「言いたくないなら言わなくてもいいよ。ただ、中井くん、本当に苦しそうだから。今もすごく胸が痛くて」

「……ごめん。その痛みはぼくのせいだ。気分が悪くなったのも、ぜんぶ」


「気にしていないよ。わたしだって中井くんに痛い思いをさせたから」


マメができている指ごと、左手を自分の手と結んでくる。

あったかい体温を振り払う気にもなれず、弱いぼくはその優しさとぬくもりを逃がさないように握り返してしまった。


会話が途切れ静まり返る。仲井さんは無理に聞きだそうとするつもりはないようで、ぼくが動くまで自分もここにいると宣言してきた。

手を結ぶのは、また置いて行かれないようにするため、だそうな。逃げたことはちゃっかり根に持っているみたいだ。


今何時だろう?

仲井さん、八時には帰らないと、お父さんが心配するんじゃ。


でも、今の彼女はそれを言ったところで聞いてはくれないだろう。

結んでくる手がそれを教えてくれているのだから。