もっとお話ししたかったのに。

せっかく会えたのに。

サークルの拠点である大きな青と白のパラソルを目指して、とぼとぼと砂浜を歩く。


先輩、甥っ子がいたんだ。

きっと、優しくて面白い、いいおじちゃんなんだろうな。


男の子を迎えに来た、びっくりするくらい大胆な水着をつけたお母さんは、泣きながら駆け寄る子の頭をばしんと叩き。



『離れるなって言ったでしょ!』



ごめんなさい、と涙をこぼす子に向かって、ヒステリックにわめいた。

それは胸が痛くなる光景で、それまで不安で泣くこともできなかった男の子のようやくの泣き声が、かわいそうでならなかった。

慰めてあげたいと思っても、部外者である私が出しゃばることもできず、たたずんでいると。

お母さん、と柔らかい声がした。



『迷子は、親御さんの責任です』



責めるでもなく、諭すでもないB先輩の言葉は、少しの嫌みもなく響く。

他のライフセーバーたちも、それぞれうなずきながら、その様子を見守っていた。


バイバイ、と男の子の頭をなでてやる先輩を、お母さんはしばらくぽかんと見て。

はっと恥ずかしそうな表情になり、ボードにそそくさと記帳して、子供の手を引いて逃げるようにテントを出ていった。


白く反射する足元の砂が、目の奥を焼く。

たまには幻滅させてください、先輩。

何かひとつくらい、こりゃないなって部分を持っててください。

でないと私。

私。



「どこ行ってたの、みずほちゃん」



ここで聞くことはないと思っていた声に、顔を上げた。



「加治くん…!」

「バイトが途中で消滅しちゃってさ、合流しに来たんだ」



確かになんの準備もなく来たんだろう、上は裸だけど、下は普通のハーフパンツを折っているだけだ。

ところで消滅するバイトって、何?

世の中って、知らないことだらけだなあと思って尋ねると、加治くんがほがらかに笑い声をあげる。



「贈答用の果物を選別して箱詰めするっていう、産地ならではの季節バイトがあってね」

「お中元とか、暑中お見舞いのってこと?」

「そう、でもある農家で、台風で全部実が落ちちゃって、その工場に収穫が入らなかったんだ。それで任期が短くなったわけ」

「なんだか、おいしそうなバイト」



いい香りがしそう。

そう言うと、しばらくその果物を見たくもなくなるよ、と笑われた。


いいなあ、やっぱり私もアルバイト、したいな。

夏休みの後半、何か探してみようかな。



「そろそろ合宿所に戻るみたいだよ、行こ」



確かに少し先のパラソルの下で、片づけが始まっている。

ん、と手を差し出されてしまうと、どうするわけにもいかず、おずおずと出した左手を、加治くんが握る。


どきんとしたことに、安心した。

やっぱり私は、男の子に不慣れすぎるんだ。

だからB先輩といても、何かしらドキドキしてしまうんだ。


ほんとにそう思ってる? という心の声に、聞こえないふりをして歩きはじめると、ポケットの中で携帯が震えた。

ちょっとごめんね、と断って開くと、兄だ。

手を離す理由ができたことに、うしろめたい思いでほっとしながら出ると、今いいか、という硬い声がした。



『電話でする話じゃないんだけど、でもお前だけあとで知るのもおかしいだろ、ごめんな』



さっぱりわからないながらも、明らかにいつもと違う兄の様子に不安になる。

ポケットに入れた片手で、パーカーの裏地をぎゅっとつかんだ。



「何…?」

『父さんと母さん、別れるらしい』


言いづらそうにしていたわりに、兄の声は、実直な性格を反映して、きっぱりしていた。

俺は母さんからしか聞いてないんだけど、という言葉は、私の耳をすべり抜けて、ぼんやりとしか理解できず。

そうなんだ、という自分のあいづちが、驚くほど他人事めいて聞こえた。



『当人から直接聞いたら、お前がショックでかいだろうからって、言うのをためらってたんだよ』

「お兄ちゃん、いつ帰る?」

『お盆だな。お前は?』

「お兄ちゃんに合わせて帰る。ねえ、駅で待ち合わせしてもいい…?」



何甘ったれてるの、と思いながらも、兄より先にひとりで家に帰る勇気が、どうしても持てなかった。

それを察したのか、いいよ、と兄が優しく言ってくれる。


どんな会話をして電話を切ったのか、もう覚えていない。

携帯を握りしめたまま動かない私に、みずほちゃん? と加治くんが心配そうに声をかけてくれた。



そっか、離婚しちゃうんだ、私のお父さんとお母さん。

この間、なんだか変な空気だったのは、そのせいだったのかもしれない。

最後の荷物だった私も手を離れた今、ふたりは自分の人生を歩くことに決めたんだろう。

いきなりでびっくりしたけど、そのこと自体はまあ、ついに我が家もかという感じで、意外と受けとめられてる。


私の意識は、別のところにあった。


どれだけショックを受けようとも、たとえ全然受け入れることができなかったとしても。



直接聞きたかった。




お母さん。








子供じゃないんだし、まさかこんなことで眠れなくなるなんて思わなかった。

夜、静かな部屋で目を閉じると、子供の頃の記憶がよみがえって、眠りに落ちる邪魔をする。


仲よしだった両親。

健在だった祖父母。

まだ兄との差を理解していなかった私。


寝返りを打って、もっと最近のことを思い返してみた。

私が高校に上がる時、兄は家を出ていった。

当時の私はエスカレーターとはいえ一応受験もあって、まあそれなりに、自分のことでいっぱいいっぱいだった。


高校の3年間は、今思えば部活漬けだった。

土日の練習にはお母さんがお弁当をつくってくれて、大会には両親そろって応援に来てくれたこともあった。


――いつから?


お母さん、お父さん、いつから?

いつから、家族であることを、終わりにしようと思ってた?


私の親であることを、やめようと思ってた?








「思ったより全然、ショック」

「タイミングが酷いよ。これじゃどうやったって、みずほが家を出て、親がせいせいしてるように思えちゃうじゃん」



朝食中の真衣子の言葉に、私は目を瞬いた。



「それだ!」

「どれよ」

「今まで、私のために無理やり家族をしてたのかなって気がしてるの」

「思いこみだよ、忘れな」

「真衣子のおみおつけ、おいしいね」

「自家製のダシを持ってきたの。母親が送ってくれるんだ」



これに勝るものはないね、と誇らしげに言う真衣子のご両親も、真衣子が高校生の頃に離婚していることを、私は以前聞いていた。

明け方近くから、少しだけまどろんだ私は、起床時刻になるなり、ちょっとそこ座んなさい、と真衣子に手招きされた。



『何があったか話しなさい』

『えっ?』

『寝てないでしょ、あんた』

『ごめん! 気になった?』

『別に気配がうるさかったとか、そういうんじゃないよ。その前から様子が変だって、聞いてたの』


誰から? とは訊かなくてもわかる。

加治くんしかいない。


まだ自分の中で整理できていなかったけど、なんでもないと言ったところで嘘なのはバレバレなので、打ち明けた。



「私、様子変だったかなあ…」

「そんなことないよ。あたしも加治くんに聞かなきゃ気がつかなかった。あんたって結構、そういうとこあるよね」

「どういうとこ?」

「見かけのわりに、まったく構ってちゃんじゃないとこ」



構ってちゃんて初めて聞いた、と思いながらつやつやのお米を堪能していると、目の前に冷たい緑茶の入ったグラスが置かれた。

真衣子にもひとつ渡しながら、元気? と訊いてくれるのは、加治くんだ。



「ごめんね、なんだか心配かけちゃったみたいで」

「いや、電話のあと、少ししたらあんまり普段どおりだったから。逆にそれが心配だったよ」



だって昨日は、いったい何がショックなのか、まだ自分でもわかっていなかった。

実のところ、今でもわかってないけど。

でも、ショックを受けてるということは、認められるようになった。



「何があったのか、訊いていい?」

「両親がね、離婚を決めたらしいの」

「えっ、ほんとに」



もう食べ終えたらしい加治くんは、隣に座ってお茶だけを飲んでいる。

そうかあ、とほおづえをついて、困った感じに息をついた。



「それじゃ俺、知ったようなこと言えないや。うちの親、引くくらい仲よくて」

「そのへんはあたしが受け持つから、加治くんはあっち行ってていいよ」

「…水越って、絶対俺のこと嫌いだよね?」

「そういう打たれ強いとこ、大好きよ」



にこっと笑う真衣子に、怖い怖い、と加治くんが口の中でつぶやいた。

率直な加治くん。

なんて気持ちのいい子だろう。



「私ね、離婚そのものより、親がそれを私に言ってくれなかったことに、ショックで」

「ああ、そういうの、あるよね」

「でもそれって結局、私のことでしょ。両親たち自身を心配する気持ちがなくて、それもなんだか、ショックなの…」


自分がこんなに自分本位な人間だとは思わなかった。

先に聞いて、ひとりで抱えてただろう兄の苦悩とか、そんなことに意識が向いたのすら、今朝で。

でも久しぶりに自分のことを冷静に見つめることができて、徹夜で悶々としたのも、無駄じゃなかったなと思う。



「どこが冷静よ。あんた思いっきり混乱中なのよ。無理しないの」

「俺もそう思う。一周して、見た目が普段どおりになっちゃってるだけだろ」

「そうなのかな」



今日は部屋でゆっくりしてたら? とふたりとも言ってくれたけど。

今日の練習は、楽しみにしていた、合宿の集大成の見せ場であるトーナメント形式の試合だし。

ひとりで鬱々としてる自分が簡単に想像できたので、むしろみんなと行動したいな、と思った。



「水越の家も、離婚?」

「そう、高2の時。まあもともと、不仲だったんだけどね」

「真衣子も、ショックだった…?」

「今思えばね。当時は、腹が立ってたよ、両親があまりに勝手な気がして」



同じだ。

親なら、家庭を維持することも義務でしょ、とか。

好きで結婚したなら、少しくらいのこと我慢してよ、とか。

一瞬でもそんなふうに考えてしまうのは、私が子供だからなのか、文字どおり、彼らの“子供”だからなのか。



「やっぱ反抗とかした?」

「したした。しまいには高校やめたくらい」



えっ! と私と加治くんの声が重なった。

言ってなかったっけ、と目を丸くする真衣子に、ないない、とふたりで首を振る。



「高認て、わかる?」

「コウニン?」

「まだ大検てほうが通りがいいかな。試験を受けて、大学の受験資格をもらうっての。あたしはあれで高卒扱いになってるだけなの」

「そうだったんだ…」



あまりに知らない世界で、言葉が出ない。

加治くんも同じらしく、しばらく真衣子を見つめると。



「なんか、パンチ効いてんね」



なんとも素直な感想を漏らし、私と真衣子をおおいに笑わせた。





試合でほどよくくたびれたので、これならすとんと昼寝できそうだと、私はビーチには行かなかった。

ところがしんと静まったロッジにとり残された瞬間、眠気がどこかへ行ってしまった。

身体は眠る準備でほてってるのに、頭が冴えて、寝られる気がしない。


仕方なく、みんなを追いかけることにし、バスルームで乾かしていた水着を身に着ける。

シャーベットカラーの、スカートタイプのビキニだ。

真衣子の水着姿を思い出して、私はやっぱり幼稚でございます、としみじみしてしまう。


スレンダーな身体にぴたりと合った、白とブラウンのシンプルなビキニを着て出ていった真衣子。

まっすぐな黒髪をポニーテールにすると、きりっと活発でかっこよく、憧れるくらい可愛い。


ひとつに結うとボリュームが出すぎて、髪に引っぱられているような気になってしまう私は、ふたつに分けて耳の下で結わえ。

あー子供、と鏡に向かってため息をついた。



薄手の白いパーカーを羽織って、砂浜までの道をくだるうち、ちょっと脇道に入ってみようと思いついた。

砂浜の直前を折れて、丘のふもとに沿って歩く。

今日もよく晴れて、気持ちいい。

日焼け止めは欠かさなかったけど、さすがに少し焼けたな、と素足を見おろしながら考える。


兄が家にいた頃は、毎年必ず家族全員で旅行に行った。

国内の時もあったし、海外の時もあった。

父が休みに融通の利く立場になってからは、現地のコンドミニアムで、二週間くらい自炊生活をすることもあった。

海辺の都市も、辺境の山岳地帯も行った。


兄が忙しくなり、私も高校生になると、そんな機会はぐんと減り、祖父母をつれて軽く遠出するくらいになって。

いつしか、そんなふうに家族で時間を過ごすことは、まったくなくなっていたことに、今ごろ気づく。


両脇の土手がせりあがって、だんだんと狭まっていた道が、ふいに開けた場所に出た。

目の前は海で、突き出たささやかな桟橋が見える。


頭の中で現在地をはじき出すと、あの桟橋からは、先輩の家が見えるはずだった。

迷うことなく、古びた木の橋に向かう。


明らかにもう使われていない小型のボートが一艘、橋のたもとに繋がれている。

水面までは2メートルほどだろうか、きしむかと思った橋は意外に頑丈で、私は小走りで突端を目指した。

途中まで来たところで、振り返る。

ああ残念、大きな木が邪魔をして、あと少しのところで見えない。


もうちょっとなんだけどな、と身体をあちこちに傾けながら一歩、また一歩とうしろ向きに進むうち。

あの緑色の屋根が、見えたと思った瞬間。


踏み出した足の下に、もう橋はなかった。










「そんなに警備本部が気に入ったの」

「B、大変な目にあった子に、その言いかたはないだろ」

「怒ってるんだよ、俺は」



すみません…と小さくなると、私の足の傷を看ていたB先輩がため息をついた。



「無理すると熱が出たりするかもしれないから、今日はもう、泳ぐのもテニスも、ダメだよ」

「はい」



海の中でパーカーを脱ぎ捨ててしまった私に、誰かがバスタオルをかけてくれる。

髪を拭きながら、迷惑をかけた申し訳なさに小さく息をつくと、右のくるぶしのあたりに激痛が走った。



「痛い!」

「当たり前だよ」



こすれて裂けた傷に、容赦なく消毒液を振りかけられて、そのたび痛みに身がすくんだ。

ガーゼをあててもらってほっとした時には、先輩の怒りももっともだと、改めて自分を恥じた。



「桟橋から泳いできたって、マジで?」

「可愛いのにたくましい子だね」

「あそこ、遊泳区域外だろ。パト誰だ」

「岩部です、この子がブイをくぐろうとした時、あいつが見つけたんですよ」



周囲のそんな声をよそに、包帯を巻きながら、じろりと先輩が私を見る。



「一歩間違えたら本当に危なかったんだよ、わかってるね」

「すみません…」

「どうやったらあそこで落ちるの。ひとりだったんでしょ」



ちょっと考えごとを、と濁したら、またにらまれた。

でも先輩の家を見ようとして足を踏みはずしたなんて、言えるわけない。



「少しゆっくりしたほうがいいんだけど。ここで休んでく? 合宿所に戻る?」

「戻ります、あの、ご迷惑をおかけしました」



立ちあがって頭を下げた私を無視して、先輩はなぜか奥の部屋へ行ってしまった。

本当に怒らせたんだろうかと不安になっていると、白いTシャツを手に戻ってきた先輩が、それを私にほうる。



「冷えてきたでしょ、着てって」

「ありがとうございます」


私はバスタオルを返して、シャツにありがたく手を通した。

頭をくぐらせた時、あれっと気づく。



「これ、先輩のですよね?」

「そうだよ、なんで?」

「いつもと匂いが違うので…」



くんくんと袖に鼻をくっつけていたら、数人いたライフセーバーたちがどっと笑った。

見ればB先輩が、なんとも言えない表情で、珍しく絶句している。

えっ、何?



「なんだよB、後輩とか言っといて、実は彼女か」

「どうりでピリピリしてると思ったら、照れてたのかー」

「いいなー、そんな可愛い子、あやかりてー」



明るい揶揄に、違いますと言ったところで無駄なのをわかってるんだろう、B先輩はふてくされた顔で私をじろっと見ると。

送ってくよ、とため息をついた。


桟橋は小高い丘から直接突き出ていて、海から岸へは上がれなかった。

幸か不幸か、携帯はロッジで充電中で、水没しなかった代わりに助けも呼べない。

橋げたにとっかかりもなく、のぼることが不可能なのは一目瞭然だったので、私は砂浜まで泳ぐことにした。


背後にそびえる岩場をぐるっと周れば、遊泳区域に出られるのはわかってる。

1キロ近くあるだろうから、体力を奪われないためにパーカーを脱いだのはこの時だ。

潮に流されないよう、なるべく岸壁に沿って泳いでいるうちに、海中の岩に足を激しく擦り。

遊泳区域の直前で、例の岩部さんというライフセーバーがレスキューボードに引きあげてくれた時、だらだら流れる血にびっくりした。



「ほんとたくましいね」

「水泳は、ずっと習っていたので…」

「服を脱いだのは、正解だよ。よく知ってたね」



ほめられてるはずなのに、怒られてる気にしかなれない。

先輩の声が低いのと、自分の不注意でしかなかったという自覚があるせいだろう。


私用と考えたからか、先輩はさっきまで着ていたユニフォームを脱いで、昨日と同じ、水着とパーカー姿だ。

両手をポケットに突っこんで、むっつりと地面を見ながら歩き、私のほうを見てくれもしない。


怒ってるんだろうか、あきれてるんだろうか。

たぶん両方だ。


こんなふうに、気分を露骨に出している先輩は初めてで、私は戸惑いながらも、嬉しかった。

怒りながらも、あきれながらも、全然こちらを拒絶しない、先輩のおおらかな優しさを、やっぱり感じたから。