「加治くんかー。会わない間に、いろいろあったのね」
「そういえば久しぶりだね」
連休前からしばらく会っていなかった真衣子と、学内のカフェでお茶をする。
私と真衣子は、示し合わせて同じ授業をとっているわけじゃないので、タイミングを逃すと本当に顔を合わせない。
「連休はどうしてたの?」
「一度親がこっち来てるから、帰らなかったんだ。部屋でゴロゴロしてたよ。みずほは帰ってたんでしょ」
「うん」
あれだねえ、とアイスティの氷をガシャガシャ鳴らしながら真衣子が言う。
「親と久々に会った時さ、なんか切なくならなかった?」
「あっ、やっぱり?」
わかる! と食いつくと、真衣子が苦笑した。
「参っちゃうよね。離れると、いきなり親が、ひとりの人間に見えてくるみたいなさ」
「そっか、そういうことかあ…」
家で感じた、あの微妙な居心地の悪さは。
夕食に下りてきた父は、本を持ったまま食卓についたりして、どうしちゃったのって感じだった。
よく考えれば、両親は、私たちがいない間、親である必要がなかったから。
久しぶりに親の顔をとり戻すのに、ちょっと時間がかかったに違いない。
「“実家”なんて言うのも、まだ抵抗ある。真衣子は?」
「おんなじ」
なんていうか、気恥ずかしい。
午後のフランス語の予習をしながら、そんな話をした。
「加治くんと出かける日は、決まったの?」
「ううん、まだ」
「あの子、最初からみずほ狙いだったもんね。でもいい人そうだし、遊んでも悪いこと、ないんじゃない」
「最初から?」
バレバレだったよ、とうなずく真衣子に、まったく意識していなかった自分を恥じた。
そうか、それじゃ私、かなり軽率なことしちゃった。
一緒に出かけたりして、気を持たせるようなことになっちゃったら、申し訳ない。
「どれだけ真面目なのよ。向こうは単にラッキーと思ってると思うよ。喜ばせるつもりで、遊んであげたら」
「そんなの、失礼な気がする」
失礼と思うことすら、うぬぼれが強すぎる気がする。
自然と眉根が寄ってしまうのを感じていたら、なんで? と訊かれた。
「加治くんはないって、決めてる感じだね」
「え…」
「誰かいるんだっけ?」
辞書を引きながら、真衣子が目だけ上げて尋ねてくる。
「そう、いうわけじゃ、ないけど…」
「なら、考えすぎずに、楽しく過ごしてきなよ。いいなと思ったらまた遊んで、ないと思ったらやめりゃいいんだしさ」
「そんな単純なもの?」
「さあ。あたしも偉そうなこと言えるほど、恋愛してきてないからね」
口元を微笑ませてそう言う真衣子の声に、少し苦いものを感じて、何か切ない恋でもしてたのかなと思った。
そういえば、どんな高校生活だったのか、お互い突っこんだ話をしたことってない。
「ねえ真衣子、今度泊まりに来てよ」
「何よ急に。行くけど」
甘えてみると、あきれたように髪をかきあげつつ、真衣子は独特のクールな笑みでうなずいてくれた。
構えすぎても、変に無神経でいても、加治くんに悪い。
正直に楽しんでこようという気持ちと、そんなの意識しちゃって絶対無理なんだから、今のうちに断るべきという思いが交差する。
なんせ、男の子とふたりで出かけたことなんて、ない。
会話が途切れても、つまんない子って思わずにいてくれるだろうか。
思われたって、別にいいんだけど…。
なんで私、必死にこんなこと考えてるんだろうとため息をつきながら、奥まった校舎の前でバスに乗ろうとした時。
棟と棟をつなぐうねうねとした道に、見慣れたうしろ姿を見つけた。
携帯をいじりながらなので、さすがに走らず、歩いてる。
私はバスに乗るのをやめて、追いかけた。
ふと先輩が、脇の生垣の陰に何かを見つけたらしく、方向を変えてすっと姿を消した。
甘党と聞いた善さんへのお礼にと、いつでも先輩に渡せるようにバッグに羊羹を入れていた私は、それを追って。
どうしてバスに乗らなかったろう、と後悔した。
生垣の中は、ゆったりした円形の芝生のスペースになっていて、ベンチがひとつ置いてある。
そこで見たのは、ひざに雑誌を広げて座っている女の人とキスをする、B先輩だった。
ベンチの背に片手をかけて、いかにも駆け寄ってそのままという感じに、もう片方の手をパーカーのポケットに入れている。
明るい巻き髪を背中まで垂らした女の人は、先輩の首に両手を回して、きゅっとしがみつきながら唇を合わせていた。
いたずらするみたいに先輩のTシャツの中にもぐりんだ女の人の手を、制止するように先輩がつかむ。
ふたりとも噴き出して、先輩は親しげに何か話しかけると、女の人の隣に座った。
バカだ。
私、バカだ。
もしかしたら、ちょっと特別扱いしてもらえてるかもって、思いはじめていたことに気がついた。
私、ほんと、バカだ。
誰にだって優しいでしょ、B先輩は。
そもそも、つきあってる人が、いるじゃない。
右も左もわからない、もの知らずの新入生をほうっておけなかっただけで、別にそれが、私だからじゃないんだよ。
先輩は、優しい人で。
すごく優しい人で。
ただ、それだけだったのに。
バッグの中の携帯が震えて、その音をふたりに聞かれないように、私は急いで通りに戻った。
「…はい」
『例の張り替えさ、今度の土曜でどう? ちょっと遊んで、飲んで帰ろうよ』
加治くんの声は、私の耳をすり抜けていったけれど。
別によく考えなかったわけじゃなく、私はちゃんと冷静に返事をしていた、たぶん。
「うん、大丈夫」
『やった。待ち合わせ、あとでメールしとくよ』
「ありがと」
楽しみ、なんて言える自分にびっくりしながら。
重い足を引きずって、再びバス停を目指した。
「そうだね、大半は県内からだよ。たまに遠くから来る学生もいるけど。ほら、情報科学部とか」
「そっか」
うちの情報科学部の一部の学科は、大手のIT企業との連携が進んでいて。
インターンシップと称して実際のウェブサービスの構築に携われたり、しかもそれで賃金がもらえたりする。
大きな学部ではないけれど、それに憧れて全国からこの大学を目指す人は、多い。
逆に言うと、商学部のようなどこにでもある学部で、私のように遠方から進学してくる学生は、ほとんどいない。
「みずほちゃんは、ひとり暮らし以外に、ここ選んだ理由ってあったの?」
「ジャーナリズムの専門学科がある大学って、意外となかったの、それもあって」
「将来報道関係に行きたいとか?」
「ううん、ただのミーハー」
昔観た映画の、女性キャスターに憧れただけ、とバカまる出しなのを承知で言うと、加治くんがあははと笑った。
「女子アナ志望って感じでも、ないもんね」
「まさか。人前で喋るなんて、考えられない…」
授業中に立って発言させられるのすら、ストレスだったのに。
そう言うと、加治くんが私のグラスを指して、何飲む? と訊いてきた。
あと何口かで空になる、絶妙のタイミング。
午後、駅で待ち合わせをして、バスでショッピングセンターに行った。
スポーツショップやCDショップ、ゲームセンターなんかで楽しんだあと、夕食がてら、道を挟んだ向かいにある居酒屋に入った。
加治くんは、楽しい。
心配していたように、会話が尽きることもなく、というか彼が尽きさせずにいてくれるおかげで、ずっとおしゃべりしていた気がする。
「珍しいよね、商学部の片隅に、報道系の学科って」
「その昔、教養学部が解体された時のなごりらしいよ」
「社会科学的なくくりだったのかな」
「それなら人文学部に入れてもよかったのになあ」
そうだよねえ、とメニューを見ながらあいづちを打って、ジンライムに決めた。
「渋いね」
「ジュースが入ってる感じのだと、頭痛くなっちゃうの」
同じ理由で、ミルク系もあまり得意じゃないことが最近わかった。
意外、と笑う加治くんが、店員さんを呼んでくれる。
「ワインとか焼酎とか、ハマったらいけそうだね」
「試したことない」
「今度、もっとお酒の種類の多い店、行こうよ。いろいろ飲んでみたくない?」
うん、とはとっさに言えず、私は曖昧に笑みを浮かべると、テーブルの上のおつまみに逃げた。
最低だ、私。
マナー違反だ、こんなの。
社交辞令でも、うんと言うべき場面だったのに。
どこからか現れた店員さんにオーダーを伝えると、加治くんは私に向き直って、にこりと微笑んだ。
「俺は、あのBって先輩に勝たないといけないのかな」
顔が真っ赤にほてるのがわかった。
私、そんなそぶり、見せてた?
うつむく私を、加治くんが笑ったのがわかる。
「かっこいいよね、あの人。我が道を行ってる感じで」
「そう思う?」
変な奴、と誰もがからかうB先輩だけど、こんなふうに言う人もいるんだと安心すると、加治くんが明るくうなずいた。
「みんなそういじってるだけで、やっぱ憧れてると思うよ、ああいう流されない人」
「それに優しいよね」
「まあ、俺は別に、優しくされたことないけど」
思わず意気込んだら、くすくすと笑われてしまった。
恥ずかしさに小さくなる。
でもさ、と加治くんが静かに言った。
「みずほちゃんには、合わないよ」
「合わない…?」
「本当に優しいなら、あんなに女の人とっかえひっかえすると思う?」
沈黙が落ちた時、タイミングがいいのか悪いのか、頼んだドリンクがやって来る。
空のグラスを店員さんに渡しながら、加治くんの言葉の意味を考えた。
私だって、ずっとそこは引っかかってる。
でも先輩は、いい加減な気持ちじゃないんだと思う。
この間見てしまった、先輩がキスしているところ。
あれは私には本当にショックで、何がショックだったかっていうと、先輩がちゃんと、女の人を好きなのが伝わってきたこと。
適当に遊んでるわけじゃないって、知ってしまったこと。
どっちがよかったんだろう、とあのあと考えた。
B先輩が女の人に対して適当なのと、そうじゃないのと。
どっちも、正直あんまり嬉しくないけど、やっぱり先輩が不実よりは、誠実なほうがいい。
好きでもない人と遊んでるよりは、ちゃんと相手を好きでいてくれるほうがいい。
そんな好きなら、なんで毎回すぐ終わっちゃうのっていう疑問が残るけど、そこはもう、私が考えて答えが出る部分じゃない。
信じるしかないと思った。
私の知ってるB先輩は、確かにちょっと変わってるかもしれないけど、思いやりがあって優しくて、たぶんすごく真面目な人。
自分の、その感覚を信じるしかないと思った。
「別に俺、あの先輩を悪く言いたいわけじゃないからね」
黙ってしまった私を気づかうように、加治くんがのぞきこんでくる。
加治くんも優しい。
「うん、わかってる」
「また遊んでくれる?」
返事は出てこなくて、彼と目を合わせたまま固まった。
加治くんは、苦笑すると、肩をすくめて。
「まあ、また何度でも誘うから。気が向いたらOKしてよ」
最後にはにっこりと、きっと私の罪悪感を軽くするために、明るく笑ってくれた。
真衣子、私はやっぱり、ダメでした。
ことはそんなに単純では、ありませんでした。
楽しかったけど。
いっぱい笑ったけど。
次なんて、無理です。
加治くんが楽しそうにしてくれればくれるほど、胸が痛む。
一瞬で消えてしまうものをプレゼントして、ごまかしてるような気持ちになる。
B先輩が、彼女さんのことを好きで、よかった。
この胸の痛みを感じないような人じゃなくて、よかった。
家に着いて、居酒屋さんのにおいをとろうとシャワーを浴びた。
何を着ていこうかさんざん迷った末に選んだ、シフォンとツイードの切り替えのワンピースを脱ぎながら。
きっとこの服は、今までほどには、お気に入りじゃなくなるだろうと思った。
B先輩の匂いがした。
あの、オレンジのパッケージの煙草の匂い。
他の煙草は区別がつかないけれど、あの匂いだけは、いつの間にか嗅ぎ分けられる。
キャンパスを歩いていた私は、風上に顔を向けて、すぐに先輩を見つけた。
傾斜している芝生に、寝転がって煙草を吸っている。
ちょうど今日の講義中、そばでくり広げられていたB先輩の噂話が気になっていた私は、なだらかな斜面をのぼった。
先輩はなんだか、一度にいろんなことをしていた。
本を読みながら、煙草を吸って、何かカップに入ったものを食べている。
「B先輩」
呼びかけると、プラスチックのスプーンをくわえた顔が、ぱっと振り向いた。
こんにちは、と挨拶する私に、優しい瞳がにこっと笑う。
その口元にある赤紫のあざに、噂は本当だったんだ、と思った。
「召しあがってるの、プリンですか」
「そうだよ、知らないの?」
「…プリンは知ってます」
うつぶせの先輩のかたわらに正座して、思わずふてくされた声が出る。
私、そこまで世間知らずじゃない。
すると先輩が、違うよ、と笑って身体を起こした。
芝の上にあぐらをかいて、閉じた本をバッグに入れる。
パーカーについた芝を払ってあげると、ありがと、とスプーンから煙草にくわえ替えた顔が微笑んだ。
「A2棟の食堂だけで買える、レアメニューなんだよ」
「幻のプリンですか!」
なんて心をくすぐる響き。
ガラスのカップに入ったそれは、こってりと艶やかなクリーム色で、カラメルの香ばしい香りがここまで漂っていて。
女子の名に恥じず甘いもの好きの私は、つい息巻く。
「栄養士さんのひとりが趣味でつくってて、その人の気が向いた時にしか、出ないんだ。それも一度に10個とかで」
「うわあ、本当にレアですね、私も食べたいです!」
どうやったら手に入りますか? と訊くつもりだったんだけど、それより先に先輩が、いいよ、とうなずいた。
いいよ?
はい、とひとかけ乗せたスプーンを差し出されて、私は自分の発言が誤解を招いたことに気がついた。
あの、私、ひと口くださいって言ったわけじゃないです。
でも今さら、いいですなんて言ったら失礼に決まってる。
なかなか動かない私が不思議なんだろう、少し首をかしげた先輩と目が合う。
私は、いただきます、となんとか小声でつぶやき、なるべくそちらを見ないように口を開けた。
小さな子にするみたいに、先輩が食べさせてくれる。
スプーンが口から抜けていく時、思わず視線を上げると、また目が合った。
満足げにその瞳が笑う。
「うまいと思わない?」
必死にうなずいた。
ごめんなさい、味なんてわかりません。
耳が熱い。
両ひざに置いた手が、ぎゅっとスカートを握りしめていたことに気がつき、汗ばんだ手のひらでしわを伸ばした。
くわえていた煙草をコーヒーの空き缶に落とした先輩が、気持ちのいい風に顔を向けて、同じスプーンでひと口食べる。
それはもしかしたら、食べさせてもらった時よりもいたたまれい光景で、私はもう立ち去ろうと思った。
そろそろ失礼しますね、と言いかけたところに、はいと再びスプーンが差し出される。
もはや遠慮する理由が見つからなくて、恥ずかしさに泣きそうになりながらも、またそれを口に入れてもらった。
先輩が食べて、私にも食べさせてくれる。
それを数回くり返すと、ようやくカップが空になった。
ほっとする私に気づく様子もなく、先輩がポケットから煙草をとり出して、一本をくわえ。
その時、ちょっと気にするように口元を押さえた。
「痛そうですね…」
無意識だったらしく、私の言葉に、え、と目を見開く。
あざを指さすと、ああ、と気まずそうに微笑んで、目立つ? と訊いてきた。
「少しだけ」
「そっかー」
風からかばうように両手で覆って、煙草に火をつける。
男の人らしくて、見るたびどきっとする仕草。
口の端に煙草をぶらさげたまま、ふうっと煙を吐いた先輩を見て、あれっと気がついた。
ほんの少し、元気がないように見える。
「先輩…大丈夫ですか?」
「え?」
何が? ときょとんとされた。
あんまり自覚、ないみたい。
「ちょっと、落ちこんでる、みたいなので…」
「ほんと?」
若干恥ずかしそうな表情になった先輩は、手に持ったカップをくるくる回しながら、しばらく黙って。
空き缶に灰を落とすと、煙草を指に挟んで、かすかなため息をついた。
「探してた相手が、見つかったと思ったんだけど、違って」
「えっ?」
予想と違う話が返ってきて、戸惑った。
私はてっきり、顔のあざにまつわる一件が原因なのかと思ったんだけど。