Bに連絡をとりたいらしい誰かに、なんの用だろうと首をひねりつつも、こちらの番号を教えて構わないと伝えた。
いきなり仕事のオファーだなんて思うほどおめでたくないし、教授にも見てもらったから、内容の誤りってこともないだろう。
まあいい、と用件を終えた携帯を握りしめたまま、ベッドに腰かけてしばらくぼんやりとする。
久しぶりに伴という苗字を聞いた。
自己紹介のたびに風変わりな名前を取沙汰され、みんなBと呼びますと会話を継いだが最後、誰もがそう呼びはじめる。
覚えやすい代わりに、記号のように無機質なその愛称は便利で、Bにはたぶん、合っていた。
“B先輩”
また来た、と憂鬱になった。
記憶にある限り、Bをそう呼ぶ女の子はひとりだけだ。
なぜなら学校でも部活でも、年下の女子とまったく交流してこなかったからだ。
その子は、こんな適当なあだ名なのにもかかわらず、妙に敬意のこもった声でBをそう呼んだ。
面映ゆいほどのその音色には、やがて尊敬以外のものも含まれはじめ、決して鈍くないBは、すぐにそれに気がついた。
この、すぐ過去に浸っちゃう今夜のクセ、どうにかならないかなあと他人事のように考えながら、救いを求めて窓の外を見る。
夜と朝の狭間の時間帯は、厚い雲が空を覆っているせいで、中途半端な灰色をしていた。
思えば、編集部からの電話はいいタイミングだった。
その直前も、思考はそちらに行きかけていて、まるでそれを戒めるようなタイミングだった。
仕方ない、とため息が出る。
うまく眠りが訪れない夜は、どうやったってあの居心地のいい部屋を思い出す。
思い出すと、自動的に彼女の記憶もくっついてくる。
暑い暑い夏だった。
一緒に過ごしたのは、たぶん一ヶ月にも満たないくらいの、短い時間だった。
だけどなんでか、全体的にぼんやりと曖昧な過去の中で、その部分だけは、まぶしいくらいに光っている。
蝉が鳴いていた。
窓はいつも開けてあった。
むせかえるほど畳が香っていて。
その畳に、華奢な指が爪を立てた。
くるくると巻いた長い髪がこぼれ落ちるたび、ぱらぱらと軽い音がした。
危なっかしいほどまっすぐで、率直な好意を容赦なしにぶつけてきた、変わった子。
初めて拓く楽しみを知った身体。
無垢な彼女は、何ひとつ知らないくせに無駄に勇敢で、Bに応えようと懸命に頑張って。
いじらしくて健気で、時に笑ってしまうくらい大胆で、Bを困らせた。
傷つけた。
謝りようもないくらい、傷つけた。
さらに悪いことに、最終的にはそうなることを、Bは最初から、知っていた。
何度も引き返そうと思った。
今日終わりにしよう、明日終わりにしようと毎日思っていた。
だけどなぜか、彼女が伺うように部屋のドアをノックする、軽やかな音を聞くたび。
もう少しだけ、と自分をごまかし続けた。
俺じゃダメだよって、伝えたつもりだった。
離れたほうがいいよと警告もしたつもりだった。
いっそ自分がどんな人間なのか、全部教えてやろうかと思ったこともあった。
けどそうしなかったのは。
無謀なほどひたむきな彼女が、全部知った上で「それでもいい」なんて言いだした日には、それこそどうしようもなくなるからだ。
なんで、よりによって、こんな自分を。
神様、あの子はいつだって、あんたに祈りを捧げてたのに、こんな目にあわせて。
よそ見でもしてたの? と自分を棚に上げて、信じてもいない存在を責めた。
もしいるんなら、あの子の心から、自分の存在を消し去ってよ。
そんな都合のいい願いまで浮かぶ。
元より彼女は、もう自分のことなんて、忘れているだろうか。
本当のBを知って、目を覚ましただろうか。
もう、Bがつけた傷なんて、残っていないだろうか――
携帯が震えた。
一瞬、寝ていたらしい。
ベッドに倒していた身体を慌てて起こし、サイドテーブルに手を伸ばす。
十中八九、編集部に連絡を入れた人物からだろう。
ちょっとした親切心と社会的な気配りから、繋がった電話に向かって、珍しく名乗ってみた。
なぜか向こうは、何も言わず。
なぜかBには、その瞬間、すべてがわかった。
何が“水越”だよ。
どこで思いついたの、あんな会社名。
それ以前に、偽名を使われるなんて、どれだけ信用ないんだ、自分は。
念のため、もしもし、とくり返しても、反応はない。
これじゃ、彼女が何を思って再び接触してきたのか、わからない。
煙草に手を伸ばそうとして、サイドテーブルに置かれたカードが目に入った。
“JUDGEMENT”
まさしくだ、と感じた。
自分がしてきたことへの審判が、これからくだされるんだろう。
それはもう、彼女に委ねるしかないことで、あがいたところでどうしようもない。
妙にすっきりとした、あきらめにも似た思いで煙を吐き出した。
電話口の向こうで、彼女の名前が呼ばれるのが聞こえる。
慌てる顔が目に浮かぶようで、笑みが漏れる。
大丈夫だよ、最初からわかってたから。
さあ、どうしようか。
“終わりと再生”の、これはどっちの瞬間に当たるんだろう?
完遂できなかった思い。
彼女にすがられただけで、何もかも見失ってしまったこの手。
みっともない、中途半端なエゴしか持ちあわせない自分。
それを目の当たりにした彼女は、いったいどんな判決をくだすのか。
なんだ、と自分の愚かさにあきれた。
あの日、全部が終わったつもりでいて、実は何ひとつ、終わってなかったんじゃないか。
ずっと続いていたのだ。
ようやく、時が来たのだ。
さあ。
「来月、帰るよ」
賽は投げられた。
NOCTURNAL:dawn
Bは河を見おろす崖の上にいた。
このあたりを流れる河川がすべてそうであるように、この河も、いずれは大きな湖へと流れこむ。
手に持った、銀色の合金の重みは、長いこと連れ添ったもので、もう身体の一部みたいになっていた。
なんでここまで持ってきちゃったんだろう、とそもそもの疑問が浮かび、だけど置いてくるなんて考えもしなかったことを思い出す。
決心が固まるより一瞬早く、それを投げ捨てた。
固まるのを待っていたら、永遠に手放せなくなる気がしたからだ。
朝日にきらめきながら、音もなく水面に吸いこまれるのを見て。
あれって湖まで流されていくものなのかな、と純粋に知りたくなった。
きっとどこかで、水底に落ち着いて。
堆積物に包まれて、長い長い眠りにつくだろう。
もしかして何億年もしたら、地形が変わって、湖底は陸地になっているかもしれない。
そこで誰かが、地層に埋もれたあのナイフを、掘り出すかもしれない。
いくらステンレスといえど、さすがにその頃には腐食してるかな、とくだらない考えをひとしきり巡らせた。
Bくん、と背後から声をかけられた。
肥え気味の身体をふうふう言わせながら、教授が岩山をのぼってくる。
「探しちゃったよ」
「お世話になりました、研究生でもないのに」
「Bくん熱心だからね、こっちも楽しいんだよね」
持っていたヒップフラスコを差し出すと、あーと嬉しげな声をあげて受けとり、ひげを濡らしてウイスキーをあおる。
他大学の、しかも商学部からの編入という、いわば闖入者であるBに、惜しみなく知識を与え、可愛がってくれた教授。
あの学術系の出版社でのバイトを介して知り合い、Bに編入を薦めた当人でもあり。
院に行かずに就職を選んだBを、応援しつつも、とても残念がってくれた。
「Bくんが帰っちゃうと、みんな寂しがるなあ」
「先生たちは、いつ頃まで滞在するんですか」
「授業が始まるぎりぎりまでは、いようと思ってるよ。その頃にはBくんも社会人だね、不思議な感じ」
正確に言えば、Bはもう大学を卒業しているので、すでに社会人といえば社会人なのだけれど。
「そういえば、なんですぐに就職しなかったの?」
「ちょっと、ぼんやりしたくなって。あと、学部時代に就活をしてる暇がなくて」
「そうか、基礎教養からとり直したんだもんね」
偉いねえ、とつぶらな瞳を向けられて、苦笑した。
別に偉いことはない、文系から理系への転向だったので、純粋に、ひたすら単位が足りなかったのだ。
「気をつけてね、午後、空港までみんなで見送りに行くからね」
「いいですってば、せっかくいい天気なのに」
現場に行ってください、と頼んでも、いやいや、と首を振って、訳知り顔で笑ってみせる。
「Bくんを無事飛行機に乗せなかったら、日本で待ってる彼女に会わす顔がないからね」
「あはは」
「こんなに待たせて、バカー、とか薄情者、とか罵られるかもね?」
「いっそ、そうしてもらえたらいいんですけど」
「あれっ、ほんとにいるの?」
「いないです」
疑問符を浮かべる教授に、もう一度笑った。
待っててくれているのかも、わからないけど。
俺はこれから、その子に会いに行きます。
歯車はたぶん、そうなるように。
見えないところで、ずっと回ってた。
荷物をまとめて部屋を出ると、女亭主がロビーで待っていてくれた。
紫のゆったりしたカフタン姿で、Bに両腕を広げる。
その姿は、Bにあるものを想起させた。
「ウィッチだ」
「私のこと? 褒め言葉だわ、ありがとう」
愛情のこもったハグを受けて、Bもその豊かな身体を抱きしめ返す。
「ねえ、そんなすご腕の魔女なら、おまじないとかもできたりしないの」
「どんな?」
「…物事が、全部うまくいくような」
Bには正体のわからない、何か甘くてスモーキーな香りの中で、喉を鳴らして彼女が笑う。
「そんな都合のいいものがあったら、戦争なんて起こらなかったでしょうよ」
「だよね」
「何か心配ごとがあるの?」
言葉に詰まったBを、亭主が見あげた。
Bは曖昧に笑うことしかできず、紫と緑の瞳が心配そうに細められる。
「ジャッジされに行くだけだよ」
「不安なの?」
「全然、わからない、長いこと会ってなかったんだ」
「でも会いたいのね」
突然、何かの感情がBを襲った。
それは心臓を引き絞り、刺すように痛めつけて、優しく離れていく。
――会いたい
どんな結果に終わってもいいから、もう一度会いたい。
なあんだ。
そうだったのか、とひとりで反省した。
つまり、会いたかったのだ。
もうずっとBは、あの子に会いたかった。
そんなの、謝罪をして楽になりたいだけだ、と冷たくとらえる自分もいる。
けれど、たとえ謝ることを許されなかったとしても。
あの夢見ているようで力強く、向こう見ずで愛らしい存在を、もう一度確認できれば、十分だと思った。
「気休めにお守りでもあげたいけれど、私はそういうものは手元に置かないの、ごめんなさいね」
「いいよ、ありがと」
「あなたの煙草ね、これは妖精の名前よ、知ってる?」
「え?」
突然の話題に、思わず身体を離すと、上着のポケットに入れていた煙草のケースを、いつの間にかとられていた。
オレンジのパッケージを振りながら、亭主が続ける。
「ナルキッソスに恋をした、哀れな心優しいニンフの名前よ。人の言葉をくり返すことしかできないという罰を受けてたの」
「ナルキッソスって、あの水仙の?」
「そうよ、ニンフは彼の言葉をくり返すばかりで、最後には冷たくあしらわれ、恥ずかしさのあまり消えてしまうの、声だけを残して」
銘柄を変えようかな、と初めて思った瞬間だった。
自分のことしか見えていない男に恋をして、傷ついて消えてしまった妖精。
今自分が消えたい、と思うほどの肩身の狭さを感じる。
亭主の乾いた温かい手が、Bの両手を力強く握った。
「あなたは相手の心の声を、聞ける人であってね」
「…ニンフは、なんで罰を受けてたの」
「ちょっとした人助けをしたせいよ」
「彼女は悪くなかったの?」
「何を悪いというかによるわね、罰ってそういうものなのね、罪を犯したと言いきれなくても、与えられる」
彼女の手は、長い爪が濃い紫に光っていたけれど、使いこまれて、頼もしく、優しく。
母親の手ってこんな感じかなと、なんとなく考えた。
「罰を受けたからって、自分を罪人だと、決めつけないでね。おまじないじゃなくて悪いけど、私から贈る言葉よ」
「ありがと」
「“処女”によろしく伝えて」
いきなりそんなことを言われ、動転した。
うろたえるあまり「もう処女じゃないよ」と完全にいらないことを口走り。
いたずらっぽく眉を上げていた亭主が、今度は目を丸くしたのを見て、頬が熱くなる。
「まあ…あら、そう」
「…そう」
なんか他に、あっただろ、もっと、言いようが。
たまらずうつむいて目を泳がすBに、ついに女主人が噴き出し、Bはますます熱くなる頬を意識しながら、ぎこちなく笑った。
駐車場のほうから、Bを呼ぶ声がした。
「手紙、書くね」
「素敵」
嬉しそうに微笑んで、女主人はもう一度、Bをじっと抱きしめる。
ありがと、とその耳元にささやいて、宿を出た。
キン、と音がしそうなくらい冷えた空気が、顔を打った。
青い空は澄みきって、溶けた雪がどさりと地面に落ちる音が、あちこちでしている。
春が近いことが、Bにもわかった。
この空の下のどこかで、あの山の上の街にも、季節の変わり目が訪れているだろうか。
誰も見あげていなくても、空はいつだって頭上にあり、あらゆる場所と繋がっている。
これまでだって、これからだって。
軽くなったポケットは、心もとなかった。
これで判定に影響が出るとも思えないけれど、もしかしたら自分は、あの日から少しは変わった自分を見せたかったのかもしれない。
だから捨てたのかもしれない。
都合のいい自分。
いつだって、自分のことで手一杯で、周りを利用するだけして傷つけてきた。
会いに行くよ。
それが正しいのか、そもそも向こうも望んでいることなのか、わからないままだけど。
でも、会いに行くよ。
荷物、それだけかよ、と仲間が笑った。
うん、これだけ、と一緒に笑った。
「たまに弾いてたギター、お前のじゃないの?」
「あれ、宿のやつ」
そっか、とうなずいて、助手席のドアを開けてくれる。
温めておいてくれたらしい車内に、次々乗りこむブーツの音が響いた。
来た時よりも、少し軽くなって。
自分は帰る。
穏やかな休息と、澱んだ泥流の記憶が共存する。
あの場所へ。
Fin.