あきれ返ってそれを眺めた。

娘が結婚する時の男親の心境って、こんな?

ここまで荒れるもの?


そっと肩を叩くと、くぐもった返事が聞こえる。



「…千歳さん、24歳でしょう? 全然早くないですよ」

「あいつは世間知らずだから、きっとだまされてる」



いったい何を言ってるの、この人。



「千歳さんの幸せを、一緒に喜びましょうよ」

「幸せって誰が決めたの、どこに保証があるの」



わあ、めんどくさい。

しょげているような、すねているような頭をなでながら、顔をのぞきこんだ。



「先輩、今度私の家族に会ってください」

「えっ」

「毎年夏に、ホームパーティをするんです。母の家で開きますが、父と兄も来ます。みんなお友達をつれてきますので、ぜひ」

「俺、お友達なんだ」

「どうでもいいところを拾わないでください」



頭を軽く叩いても、反応しない。

見ると、突然の話に思考が停止したようで、なんだか呆然と布団に目を落として、固まっていた。



「父と兄に紹介しますから、挨拶してあげてください。そうしたら、千歳さんのお相手の気持ちもわかるでしょう」



返事がない。

身体を傾けて、同じ角度で顔をのぞきこむと、目を合わせたくないのか、また布団に顔を伏せてしまう。

やがて、ぽつんと「無理」と聞こえてきた。



「無理!?」

「違う違う、挨拶はさせてもらうよ、無理なのは千歳のほう、千歳の」



噛みついた私に、跳ね起きた先輩が慌てて手を振る。



「まだ無理なんて言ってるんですか」

「だって、どこのどんな奴かもわかんないんだよ…」

「これから知ればいいでしょう、知ったうえで何か言うならまだしも、会ってもいない方に対して、なんですか」

「頭では、みずほが正しいってわかってるんだよ」


時間くれよ…と泣きそうな声で顔を覆って、また布団に倒れこんでしまった。

可愛くて、その頭を抱きしめてキスを降らす。

少しバカにされているのを感じるんだろう、先輩はじっと動かずに、ふてくされていた。


ねえ先輩、楽しいですね。

千歳さんにも一歩くんにも、幸せが降って。

毎日だんだん忙しくなって、きっとそのうち、こんなふうにゆっくり過ごせる土日も、貴重になってく気がします。


学生の頃とは、違いますね、何もかも。

でも、違っていいんですね。

変わったねって言えるのが、一緒にいた証拠。


ねえ先輩、幸せですか?

毎日幸せ?


しつこい私に観念したのか、先輩が寝転がったまま、私を引き寄せた。



「今日会った、みずほの先輩さあ」

「かっこいいでしょう、あの方。エースなんですよ」

「俺、なんかすっごいチェックされた気がする。みずほ、人気あるね」

「父と兄のチェックに比べたら」

「………」



チェックされることを想像しているのか、千歳さんの相手をチェックすることを想像しているのか、沈鬱に黙る。

そのままじっと私の頭をなでて、ふいにつぶやいた。



「頑張ろ、俺」

「何をですか?」

「いろいろ、挨拶とか」

「そんなに気が重いようでしたら、来年でも」



いや、と妙に頑なに首を振る。



「そこを超えないと、千歳の相手にも会えない気がする」

「よくできました」



ぎゅっと背中を抱きしめて褒めてあげると、先輩が犬みたいに、私の肩に額をこすりつける。

ちょっとからかってみたくなって、訊いた。



「どうします、いけすかない相手だったら」

「ボッコボコにして沈めるよ、決まってるじゃん」

「沈…」


何その不穏な物言い。

思わず身体を引きはがして顔を見ると、不思議そうに見返す瞳と出会う。

そういえば先輩は、昔荒れてたとか、なんとか…。



「暴力はダメですよ」

「もちろん、言ってもわかんない奴にしか、使わない」



なんとなく、先輩が企業勤めをするのも、数年かなっていう気がした。



「腹減った」

「食べに出ましょうよ」

「それより、眠い…」



崩れた布団に頭を乗せて、先輩が息をつく。

私は笑って、その腕に頭を乗せた。


とろとろとした仕草で身体に腕を回してくれる。

先輩は指摘しないと、限界まで夜更かしして本を読んでしまう。

ゆうべもそうだったせいだろう、本当に眠そう。



「いいですよ、寝て」



うん、という声は、すでにぼんやりしている。

起きたら夜食をつくってあげよう。

もしかしたら、朝まで起きないかもしれないけど。


よい眠りを、と願いを込めて、その髪をなでた。


悪い夢を見ていそうだったら、起こしてあげます。

幸せな眠りなら、ずっと続くようにと祈ります。


じきに先輩は、寝てしまった。

規則正しい寝息が、愛おしくて。

切なくもあって、身を寄せた。


ふいに先輩が、きゅっと私を抱きしめた。

耳元にキスのような、ふわふわと寝ぼけた感触を落としながら、何事か口のなかでつぶやく。


それはすぐにまた規則正しい寝息に戻って。

優しい腕の中で、私は涙ぐんだ。





“みずほ”





ねえどうか。


私の夢が、先輩を癒してくれますように。

怖い夢を、退けてくれますように。



先輩がひとり、怯える夜を過ごすことがなくなるまで。

いつか自分を、心から信じられる日が来るまで。



ねえ先輩。

私、そばにいます。



ずっと、ずっと。







Fin.







Calling -true name-
another season

 
 NOCTURNAL:one





ごめんね。


こんな方法でしか、きみを守れなくてごめん。

こんなことになる前に、引き返せなくてごめん。



謝りたいけど。

もう、会わない。







調査隊の朝は早い。

日の出前に起きて朝食をとり、B&Bの女亭主が厚意で包んでくれる昼食をポケットに、駐車場へ向かう。

まだあたりは真っ暗だ。

最高気温が摂氏3℃にも届かない中、せめて日中は太陽が出ますようにと祈るような気持ちで、泥だらけのSUVを目指した。





Bくん、と教授の声が下から聞こえた。

発掘現場の、むき出しの地層の中腹にいたBは、はいと返事をしつつ、通路と決められている岩石の傾斜を滑り降りる。



「これ、研究センターでクリーニングに回すぶん。届けるついでに見学してきたらいいよ」

「ほんとですか」



知らない人にはただの石ころにしか見えないであろう塊が、一見無造作に投げこまれたバットを受けとった。

現地の大学の研究生である、カナダ出身の青年が、車のキーを揺らしてBに乗るよう呼びかける。

帰ったら車の免許をとりたいなあと考えながら、今行く、と返事をし、ふたりぶんのコーヒーをテントで手早くこしらえた。



「Bくん、これからセンター? 帰ってきたらどうよ、つきあおうぜ」



テントの中でサンプルのラべリングをしていた日本人の助手のひとりが、土埃で汚れた手で、ジョッキを傾ける仕草をする。

研究室に入っているわけでもないBを、彼らはこうして、気にすることもなく可愛がってくれる。

そしてBは、こういう誘いの場合、それがアルコールだけを指すのではないことを経験で知っていた。


「えーと、俺はいいです」

「なんで? すっごいいい子、いるよ」

「Bくんみたいな若くて可愛い子がいたら、向こうも喜ぶのにー」



ふたつのタンブラーにコーヒーを詰めて、いいです、と首を振っても、陽気な誘いはやまない。

見かねた教授が、ひげの隙間から白い息を吐きつつ、間に入ってくれた。



「日本で誰か待ってるんでしょ、無理に誘わないの」

「ここアメリカですよ、どうやってばれるってんです」

「Bくんは真面目なんだよ、きみたちと違って」



その代わり私をつれていきなさい、と胸を張る教授に、高血圧で倒れますよ、と誰かが言って、一同が笑った。

別に、誰が日本でBを待っているわけでもないけれど、あえてそこは訂正しないことにした。



「ごめん、お待たせ」

「また誘われてたの? みんな好きだねえ」



ジープに乗りこむと、青い瞳のチームメイトが気の毒そうに笑う。

ろくに整備もされていないらしい車は、懐かしさを覚えるほどの排ガス臭をまき散らしながら、荒っぽく発進した。



「Bも、一度くらい行けばいいのに」

「盛りあがる話題とか持ってないし、英語だってうまくないし、向こうに気をつかわせるだけじゃん」

「そんなの、女の子だってプロなんだから、いいのに」



Bらしいね、と笑われる。



「日本にガールフレンドがいるんでしょ? 二ヶ月もこっち来ちゃって、さみしがってない?」

「いないよ、みんながそう言ってるだけ」



はい、とタンブラーの片方を渡すと、彼はおおいに喜んで、この寒いのになぜか窓を全開にした。

片手でハンドルを操りながら窓に片腕をかけて、気持ちよさそうに口をつける。

湯気が瞬時に風に散って、香ばしい香りがBにも届く。



「じゃあなおさら、一度くらい遊んだらいいのに」

「俺は、いいよ」

「賃金も出るんでしょ、ちょっとくらい無駄遣いしても」

「いいよ」

「…女の子がダメなわけじゃ、ないよね?」


最後には遠慮がちにそう訊かれてしまい、笑った。

うん、と答えて、曖昧だったかと思い。



「俺は、女の子が、好きだよ」



そうつけ加えたはいいものの、改めて宣言するほどのことでもなかったな、と乾いた風に吹かれながら反省した。








最近は、車のほうから名乗り出てくれるんだから、楽だ。

言うほど昔を知らないけれど。


パチンコ屋に入る男性客のポケットから、すれ違いざまに失敬した車のキーのスイッチをカチカチと押しながら駐車場を歩く。

少し先で、ピッという電子音と共に、主人の帰りを喜んでいるようにハザードを点滅させた車がある。

濃紺のワゴンで、そこそこあちこちをいじってある雰囲気があった。



「どのあたり行く?」

「お邪魔しまーす」

「うわっ、ヤニくせえ」



3人いた仲間が口ぐちに言いながら乗りこむ。

Bも助手席のうしろに収まり、煙草をとり出した。



「B、お前まだ学ランじゃん、バカか」

「寒いんだもん」

「そういうこと言ってんじゃねーよ、しょーがねーな」



一番年長、といってもまだ15歳にもならないひとりが、気前よくブルゾンを脱いでBにくれる。

ありがたくそれを羽織って、温まらない手をポケットに突っこみ、ひざを抱えるように後部座席に脚を引きあげた。


四人の乗った車は夜の国道をあてもなく走った。

オレンジ色の街灯が時折彼らを照らし、右手には黒い海が静かに寝そべっている。



「まだ寒いの?」



丸まっていると、隣のひとりが声をかけてきた。

この中でBは最年少で、それは誰がどう見たって、ひと目でわかった。


「寒い」

「ベンチレーションいかれてんのかな」



いい車なのに、と後席の空調をちょっといじって、その少年は、来いよとBを手招く。

素直に身を任せると、上着の中に入れてくれながら、かわいーなお前、と冗談めかして額にキスをくれた。



「ちっちぇーな、B」

「どうしたらみんなみたいに伸びる?」

「さーなあ」



ずるずると、隣の彼のひざを枕に寝そべると、くわえた煙草の灰が革のシートに落ちる。



「どした、これ」

「親父にもらった」



はずみでポケットから転がり出た銀色のナイフを、Bより先に隣の手がとり上げた。



「息子にやるようなもんか?」

「アウトドアグッズだよ」



休日に自室を整理していた父親が、唐突にくれたのだ。

それなりにいいものらしく、重厚感があるのに軽く、ひやりと手に馴染み、無駄のないデザインもBの気に入った。

なんとなくポケットに入れて、そのままになっていた。



「護身用だろ、痴漢にあわないように」



揶揄する声に、脚を伸ばして助手席の頭を蹴ろうとした。

けど長さが足りず、それは軽々とよけられた。



車は適当なところに乗り捨てた。

以前のように、チキンレースもどきで遊んでから海に落とす話も出たけれど、車自体がいい雰囲気に仕上がっていたため、もったいなくてやめた。

キーも積んであるし、十中八九、あの車はちゃんと持ち主の手元に戻るだろう。

Bはここから歩いて行かれる場所にあてがあったので、3人と別れることにした。



「Bが男になりに行くってよ」

「残念ながら、もうだいぶ前から男だよ」

「ペットの間違いだろ」


からかいを無視して、バイバイと手を振る。

星が空を満たす、月のない夜。

真っ暗な道を、目指すマンションを探しながら、てくてくと歩いた。



「夜道は危ないよ、ただでさえBくん、可愛いのに」

「平気、こう見えても男の子だから」

「知ってるよ」



いつ来ても綺麗に片づいて明るいこの部屋は、優しい甘い匂いがする。

地元でアパレルの仕事をしている彼女は、ずっと年下であるBを同級生のように「Bくん」と呼び、Bはその響きが好きだった。

Bの冗談に笑いながら、何か飲む? と彼女が訊く。



「シャワー浴びていい? 一度、汗だくになってて」



Bのためにクッションを整えていた彼女は振り返り、軽くキスをすると、続いて首筋に吸いついた。



「ほんとだ、しょっぱい」

「ついでに洗濯させてもらえないかな。明日の夕方、とりに来るから」

「Bくんて、部活に励むタイプには見えないのにね」



あいにく、励むタイプなのだ。

持っていたスポーツバッグから、体操着とユニフォームを出して脱衣所に持っていった。

彼女が洗濯機を空けるためにとり出してくれた下着は、さすがにまだBの目に馴染まない華やかさで、目のやり場に困る。

その一瞬の迷いを見逃さなかった彼女は、可愛いと笑いながらBを抱きしめ、少し見おろすように唇を重ねてきた。


絡みつく舌に、身体が熱くなった。

けれどなぜか、寒いままだった。



寒い。

もうずっと、寒い。





「…もう行くの、今何時?」

「朝メシ当番なんだ」

「待って、お小遣いあげる」

「ありがと」