「あっ! すみません!」
「いや、そっちこそ大丈夫?」
盛大に飛び散ったビールに、頭が真っ白になった。
テーブルからこぼれたぶんが、先輩のデニムにしたたるのをおしぼりで拭こうとすると、何も気にしていないような声が降ってくる。
あせりのあまり顔が真っ赤になるのを意識しながら、どう脳の回路がつながったんだか、はっと思いついた。
まさか。
「いいよ、もう。ありがと」
「…B先輩の、Bって」
私の手をやんわり押し戻す先輩を、呆然と見あげる。
ん? という不思議そうな視線とぶつかった。
「ビッチ専の、Bですか…?」
B先輩の、こんなにぽかんとした顔、初めて見る。
一瞬ののち、爆笑が沸き起こった。
お座敷の全員が笑い転げるのに、えっと動揺して見回すと、B先輩があきれたようにみんなに言う。
「こんな子に変な言葉、教えるなよ」
「しょうがねーだろ、お前の実態なんだから」
「え、俺のことなの、あれ?」
また笑いが起こった。
「なんで俺が?」
「そりゃ女の趣味が、最悪だから」
「俺、別に趣味なんてないよ」
きょとんとする先輩の声も無視され、酔っ払った集団はひたすら笑い転げる。
先輩は何か訴えるのをあきらめたらしく、うなだれる私をのぞきこんできた。
「女の子が、そんな言葉使っちゃ、ダメだよ」
「…はい」
穴があったら入りたい。
ないなら掘ってでも入りたい。
今さらながらに私は、自分がどれだけ恥ずかしい発言をしたのか、身に染みていた。
やっぱり私は、前のめってたみたいです…と心の中で真衣子に語りかける。
顔が熱い。
どうとりつくろえばいいんだろう。
「俺のBは、イニシャルだよ」
ふいにかけられた声に、えっと顔を上げた。
焼き鶏の串を手にしたB先輩が、面白そうに私を見る。
「…なんて仰るんですか?」
「バン」
「バン先輩?」
「バンリ」
「バンリ先輩ですか、苗字は?」
気がついたら正座で先輩に向きあって、私はいきなり飛び出した先輩の本名に、すっかり興奮していた。
そんな私を落ち着かせるように、先輩が笑う。
「バンが苗字、名前がバンリ」
「…バンバンリ?」
「ふざけてるだろ」
グラスの滴を使って、先輩の指がテーブルに文字を書く。
伴万里。
「そーいや、そんな名前だったな」
「Bで十分だろ、こんな奴」
いつの間にか聞き耳を立てていた数人に、うるさいよ、とのんびり抗議する先輩が、水滴の字をさっと払って消した。
でも私の目には、その形が焼きついていた。
伴万里。
フルネームだと確かに変わってる。
B音が重なるインパクトが強すぎて、こんなあだ名になってしまうんだろう。
だけど、こんなに似合う名前もない。
伴先輩。
万里先輩。
口の中でつぶやいてみたその名前は、おこがましいような、照れくさいような感じで。
私はきっと、本人を前にしては呼べないだろうと思った。
B先輩はやっぱり、途中でふっと消えた。
お手洗いに行くような気軽さで腰を上げ、けどさりげなくバッグを持っていたのに、私は気がついた。
「先輩」
駅の手前で追いつくと、くわえ煙草の先輩が驚いたように振り返る。
「走れるの。お酒強いんだね」
「あんまり飲んでませんから」
「おごってもらえるうちに、たっぷり飲んどけばいいのに。一度限界知っておくのも、大事だよ」
「先輩も、そんなに飲んでないでしょう?」
まあね、と白い煙が吐き出された。
少しの距離を、並んで歩く。
「…帰ったら、何をしますか?」
「寝るよ、明日早いから」
「講義ですか?」
「バイト」
この間は夜してたのに、今度は朝か。
どうしてそんなに忙しくしてるんだろう。
「なんのバイトですか」
「いろいろだね」
「…探してる方は、見つかりそうですか?」
くわえた煙草の先が、一瞬赤々と光って。
ふうっとため息みたいに、先輩は煙を吐いた。
「わかんない、まだ探し中」
「そうですか…」
改札前の四角いスタンドの灰皿に、ぽいと煙草を投げ捨てると、先輩は横の自動販売機で、何かを買った。
「はい」
「え」
「この間のお返し」
いきなり渡されたのは、缶コーヒーだった。
一緒に「渡しといてくれる?」と数枚の千円札と五千円札を受けとる。
ひんやりとした缶とお札を握りしめているうちに、先輩は改札を通り抜け、向かいのホームに続く階段へ向かう。
「また、一緒に飲んでください」
その背中に呼びかけると、両手をパーカーのポケットに入れた先輩は、振り向いて。
「おやすみ」
そう、優しく微笑んだ。
よく晴れた休日。
朝起きて、洗濯をして、掃除をして、ご飯をつくって、本を読みながらゆっくり食べたのに、まだ一日の大半が残っていた。
『あーごめん、今日は親がこっち来るんだわ、視察に』
「またあ、愛娘に会いたいんでしょ。親孝行してきてね」
真衣子を誘って出かけるプランも、ダメだった。
無駄に時間をかけて流しをピカピカにして、カゴに立てていた食器もちゃんと拭いて棚にしまう。
もうこれ以上、部屋の中でやることがないと認めるほかなくなった時、外出しようと決めた。
ひとりって、暇だ。
違うな、家にいた時だって、暇で暇で仕方ない時はあった。
ひとりって、タイミングをつくるのが難しいんだ。
もうすぐご飯だから、その前にあれやっちゃおう、とか、夜はお客様がいらっしゃるから、早めにお風呂に入らなきゃ、とか。
そんなふうに、自分以外の理由で何かのタイミングを決める必要が、全然ない。
いつ何をしてもいい。
そうすると案外、なんでも先に先に手をつけてしまって、ぽっかりと時間があく。
私意外と、家事が得意なのかな?
6畳の部屋を綺麗にしてるくらいで、そんなの調子に乗りすぎかな?
そんなことを考えながら、春らしい明るい色のワンピースに、歩き回るつもりでぺたんこの靴を履いてアパートを出た。
目的地は、決めていた。
私のアパートと、大学の、間の駅。
高架から見える、曲がりくねったメインストリートを囲む商店街が、ひなびてていかにも雰囲気がよさそうで、ずっと気になっていたのだ。
2列しかない改札を出て、車窓からの景色を頼りに商店街の入り口を探す。
駅前の通りから少し奥まったところにそれはあって、想像どおり、なんともいえない枯れた風情が愛らしい、昔ながらの商店街だった。
「見ない子だねえ。新入生?」
「はい、お世話になります」
どうやらここは、同じ大学の学生たちが集まる街らしい。
住民ではないけれど、きっと私はここに通うことになる気がするので、にこやかに声をかけてくれた調剤薬局のおばさまに頭を下げた。
優美なカリグラフィでつづられた店名が結局読めなかった喫茶店で、いかにもなランチとコーヒーを楽しむ。
ぶらぶらと全部の路地に入りながら、じぐざぐに探索するうち、レコードショップを見つけた。
CDじゃない、本物のレコードだ。
B先輩のギターを思い出した。
あんなに弾けるなんて、相当練習してるか、昔からギターにさわっていたかのどっちかだ。
きっと育った環境の中に、当たり前にアコースティックギターがあったんだろう。
不思議な先輩。
探してる人って、誰ですか?
女の人ですか、男の人ですか?
見つけたら、何を伝えたいんですか?
私、何かお手伝いできること、ありますか?
「どうぞ、見てってちょうだい」
「あっ、ごめんなさい、すみません」
お店の前にたたずんでいたら、中にいたニットのベスト姿のおじさまが、わざわざドアを開けてくれた。
そりゃそうだ、しまった、やっちゃった。
私は古いレコードに造詣が深いわけでもないし、ジャケットにすら興味があるわけでもない。
同じ趣味を共有する人だけが立ち入っていいはずの場所に、足を踏みいれるのは申し訳なくて。
失礼しました、と頭を下げて、慌てて逃げた。
逃げながら、B先輩はあのお店を知ってるかな、と考える。
ああいうお店、好きそうだな、なんとなく。
教えてあげたら、喜んでくれるかな。
ねえ真衣子、気づくとB先輩が頭の中にいます。
これはいったいなんでしょうか。
話にしか知らない、例の、何かの始まりなんでしょうか。
でもね、真衣子、そもそもね。
私、男の人って、B先輩くらいしか知らないの。
そんなの、気になって当然だと思わない?
気がついたら、空は薄暗く。
ひんやりと肌寒い風が吹きつけていた。
ずいぶん奥まで来ちゃった。
もはやお店の並ぶ通りですらない。
ここ、どこだろうと思うけれど、私の特技のひとつに、方向感覚のよさがある。
どこをどう歩いても、東西南北と、ランドマークの位置がわからなくなることはない。
「わかる、駅はあっち」
ひとり言を口にしながら右前方を指さして、迷わずその方角へ進んだ。
その時、ふわっといい匂いが鼻をかすめる。
あっ、とふたつの思いが、ひらめくように瞬時に浮かんだ。
これ、表具屋さんの匂い。
これ、B先輩の匂い。
(表具屋さんって)
とっさにそんな単語が出てきた自分がすごいよ、と褒めてみる。
小さい頃は、定期的に出入りして、ふすまを張り替えたり修繕したりしてくれる出入りの表具屋さんがいた。
同じところで畳も数年に一度替えてもらって、庭で畳縁をつけかえる作業を見ているのが、大好きだった。
香りは記憶を呼びさますって本当だなあとひとりごちているうちに、匂いのもとにたどり着く。
歩いていた通りの右手に、お店の前に作業場を構えた、こぢんまりとした古めかしい表具屋さんがあり。
匂いから想像したとおり、看板には「表具・畳」とあって、いぐさと糊の匂いがただよっていた。
長い軒下に寝かせた数枚の畳を、ふたりの男の人がてきぱきと屋内に入れているところだった。
通りから見える部分こそちんまりとしているものの、のぞいてみると、建屋の奥行きはかなりあるらしい。
奥のほうに今どき珍しい屏風や衝立が立っているのが見えて、へええと思っていると、ひとりがこちらに来た。
かなり降りそうか? という奥の年配の人からの問いに、そうだなーと空を見あげながら歩いてくる。
「雲、途切れ目がないよ、夜どおし降るかも」
「そうか、間に合ってよかった」
「もう雨戸閉めちゃう?」
ぐんぐん日が暮れて肌寒くなる中、Tシャツ一枚のその人は、軍手をした両手を腰にあてて、雲を眺めていた。
すぐ近くにいた私は、あんぐりと口を開けたまま彼を見る。
ふと視線を戻した彼が、私に気づいた。
「あれ」
「…こんにちは」
B先輩。
「うわあ、すごい。個人のお宅のものですか?」
「これは県民会館の応接室のもの。あっちは個人のお得意様のだね」
先輩が指さしたのは、堂々たる六曲の屏風だった。
「半双屏風ですか?」
「違うよ、片割れは奥の間で修復作業中」
すごい、これだけの屏風を一双飾ることができるなんて、どれだけ豪壮なおうちなんだろう。
作業台らしき机に、幾重にも布と紙を敷いて、慎重に寝かされている掛け軸に描かれているのは、吉祥天だ。
「象牙ですね」
軸先から外して、そばの箱に入れてある風鎮を眺めながら感嘆の息をつくと、先輩がへえと声をあげる。
「やっぱりこういうの、わかるんだね」
「やっぱりって、なんですか?」
「お嬢様校出身って、みんなが騒いでたから」
「…祖父が古美術に凝っていて、きっとそのせいです」
学校はあまり、関係ないような。
そう言うと、そっか、と先輩が軽く微笑んだ。
「おいB、上がってもらえや」
「いえ私、もうおいとまします」
工房である広い土間の横は居住スペースらしく、上がったところは畳敷きの居間になっている。
障子から顔をのぞかせるおじさまに慌てて手を振ると、茶も入ったし、とにこにこ言われてしまい、結局お邪魔することにした。
「この子、興味あるみたい。あとでいろんなもの見せてあげてよ」
「今どき珍しいな、なんでも見せてやるよ」
嬉しそうにうなずく善治(よしはる)さんというおじさまは、作務衣を気楽に着こなした、私の父より少し若いくらいに見える人で。
B先輩は彼を、善(ぜん)さんと親しげに呼んでいた。
「先輩は、ここでバイトをされてるんですか?」
「ううん、ただの手伝い」
手伝い? と訊き返す前に、ぱらっと雨戸を叩く音がしたかと思うと、一瞬のうちに広がって、ざあっと吹きつける雨音に変わる。
「来たな」
「電車もとまるねー。明日学校、どうしよ」
「えっ」
ぎょっとした私を、ふたりが驚いて見つめた。
「とまるんですか、このくらいの雨で?」
「たぶんもう、とまってるよ」
「もうとまってる!?」
じゃあ私、どうやって帰るの?
思わず悲鳴をあげると、家、この駅なんじゃないの? と先輩がきょとんとした。
「隣の駅なんです」
「この路線、このあたり以外は勾配がきついんだよ。大雨が降るとすぐ線路が水没しちゃうから、早めにとめるんだ」
「全然知りませんでした…」
「そうか、そりゃそうだよね」
教えてあげればよかったね、と申し訳なさそうに言われて、とんでもないです、と首を振る。
「私が無知でした」
「でもそもそも、もう終電の時間だったんだよ。もしかしてそれも知らなかった?」
「終電!?」
だってまだ…と言おうとして、今が何時なのか知らないことに気がついた。
腕時計を見ると、意外にいい時間で、もう9時前だ。
でもこれで終電って。
「休日ダイヤだから。バスのほうが遅くまで走ってるから、今度もし逃したら、それで帰るといいよ」
「本当ですか、今日もそれで帰ります。バス停は近いですか?」
「バス道も雨で埋まるから、駅間の運行はもう終わってると思うよ」
「………」
自分の世間知らずに情けなくなった。
こっちに来て、時刻表を見てから駅に行く習慣も、なかなかつかなかった。
自分が何を知らないのかわからないので、こんなふうに失敗するまで、足りない知識にも気がつかない。
バスが走れないってことは、当然タクシーもダメだろう。
「あの、ファミレスとか漫画喫茶とか、このあたりにないですか。そこで始発まで待ちます」
そう言うと、善さんとB先輩がぽかんとした。
「もしかして、24時間営業のってこと?」
「もしかしなくても、そうです…」
「そんなもの、あるように見える?」
「…え?」
我ながら建設的で実際的なアイデアだと思ったんだけど、なんだか場が妙な空気に包まれた。
「あのコンビニだって、ついこの間まで、名前どおりの営業時間だったんだよ、このへん」
「………」
7時から11時まで、ですか。
私、ずいぶん遠くまで来たみたい…とカルチャーショックに呆然としながら、打つ手を考える。
ない。
「嬢ちゃん、晩飯もまだなんじゃねえか。食っていきなよ」
「いえ、そこまでしていただくわけには」
「B、泊めてやるだろ」
「それしかないよね」
「何かされたら声出せよ、嬢ちゃん。駆けつけてやるから」
力強く拳を握る善さんに、え? としか返せなかった。
何もしないよ、と憮然と先輩が言い返す。
「あとで客用の布団を上げてやるよ」
「ありがと」
布団?
頭がついていかない。
B先輩は、そんな私の戸惑いを見透かしたように笑った。
「俺、ここの二階に下宿してるんだよ」
なんとなく。
そういう意味なんだろうなって。
思ってました…。