「俺、そういうのって、時間がたてば減るのかなって、ちょっと期待してたんだけど」
「減らないですよ、だって許す気のある人からは逃げて、自分自身は許す気が全然ないんだもの」
あれっ、と先輩が目を見開く。
「それって当然のこと? ていうか俺やっぱり逃げてた?」
「楽なほうを選んでたという意味ではないですが、人の声に耳を貸さない勝手さは、あったと思います」
「だって貸したら、お前は悪くないよって言ってくれちゃうじゃん」
「それが勝手なんです、聞きたくないから聞かない、なんて。聞いてほしかったのに」
…全否定だね、とすねた声。
わざとフォローせずにいると、立てたひざにほおづえをついて、考えたんだよね、とつぶやいた。
「千歳がこれだけ長いこと喋れなかったのって、もしかして俺のせいかなって」
そんなことないですよ、と言ってあげたかったけど、できなかった。
たぶんそれは、ある意味真実だから。
そしてきっと、千歳さんと先輩の、お互いに言えること。
先輩の頑なさが、どこかで千歳さんを縛っていたように。
千歳さんが、幸せそうにしながらも喋れないことが、先輩をずっと、過去から引き離せずにいた。
自分の一部を殺して、でも笑っていることが相手のためだと、この兄妹はきっと、どちらも誤解してた。
相手を思うあまり、そんな迷路に入りこんで、長い間その中で必死に出口を探してた。
先輩、やっぱりね。
時間が解決することも、あったと思います。
一歩くんは大きくなって。
過去は、少しずつ遠い記憶になってく。
だけどね先輩。
先輩が今、ずっと好きだった道にようやく入ったこととか、こうして千歳さんに会いに戻ってきたこととか。
そんな一歩が、彼女に声をとり戻させたんだと、思います。
そしてあの声が。
先輩に、ほんの少しの答えを、くれたんですよね。
暮れた海から吹きつける風が、先輩の髪を揺らす。
その顔は、どことなく楽しげに、満足そうにも見えた。
「で、結論としては?」
「逃げるのやめたら、何か変わるかなって」
「よくできました」
偉ぶって褒めてあげると、黒い瞳が笑う。
その笑いは、なぜかいつまでも終わらず、楽しげに、くすくすと続いた。
困惑する私を見て、さらに笑う。
なんですか、と腹を立てると、もっと笑う。
「うんって言えばいいんだっけ」
えっ、とつぶやく私を、優しい笑顔が見た。
「約束」
我ながら呆然と、それを見返す。
「…言うだけじゃ、ダメなんですよ」
「俺、そんなに信用ない?」
どの口で言ってるんですか。
にらむと、困ったように笑う。
「言ったら守るよ」
波の引く音が、かすかに届く。
空はもう、星がきらめきはじめている。
口を開いたら、この瞬間が全部壊れて、実は夢でした、なんてことになりそうで、身動きできずにいると。
地面に置いた私の手に、先輩が自分の手を重ねた。
「…勝手に、ひとりになりませんか」
「うん」
「どこも行かない?」
「うん」
顔が寄せられて、私の額に唇が落ちる。
にこりと微笑む顔が、のぞきこんだ。
「他には?」
「…約束というか、お願いがありますが」
「いいよ、何」
温かい手。
涙が浮かんだ。
「…私を、みずほって呼んでくださいませんか」
予想外のお願いだったらしく、先輩は目を丸くして。
何か言いかけてやめると、考えるように視線を泳がせ。
やがて、照れくさそうに笑いながら。
「そのうちね」
ずるい答えと一緒に、きゅっと手を握って。
濡れたまぶたにキスをくれた。
「意外と近いですね」
「ほんとだね」
4月を迎えるにあたって、先輩も私も引越しがあった。
先輩も、来月から正式に社会人だ。
「フリーのライターさんなのかと」
「あれはバイトみたいなもの。いずれはそれで食ってけたらなって思うけど、まずは奨学金も返さないとだしね」
千歳さんの家に預かってもらっていたオーディオセットを、気に入る位置に動かしながら、先輩が言う。
新しい部屋は、偶然にも私の新居と、30分もかからず行き来できるところにあった。
そして先輩の就職先は、あのムック本を出していた、学術系の出版社だった。
まさかの同業者だ。
手をはたきながら、先輩がうなずく。
「こんなもんかなあ、何か食いに行く?」
「そうですね、探索がてら」
驚くほど荷物の少ない先輩は、宅配便で引越しを済ませてしまった。
実家の荷物が合流すると、部屋の雰囲気は、善さんの二階のあの部屋と、実家の部屋の間くらいにおさまった。
恐竜たちを、一歩くんに残してきたからだ。
「そっちはどう、落ち着いた?」
「はい、土地勘があると、やっぱり楽です」
「そっか、向こうに行くこととか、もうない?」
「夏には真衣子の家に泊めてもらって、加治くんたちと遊ぶ予定ですよ」
そう、と微笑んだ先輩が、荷物をひとつあけて綺麗なTシャツをとり出すと、それに着替えた。
裸の身体にちょっとどぎまぎする私を笑って、頬に軽いキスをくれる。
先輩が戻ってきて数日。
私たちは、東京で再会した。
「買ってって食おうか」
商店街に並ぶお惣菜を見ながら、先輩が言った。
即座に同意する。
どれも家庭的で温かく、おいしそうで、お店に入るより魅力的に思える。
先輩がなぜこの町に住もうと思ったのか、わかるかもしれない。
ここはあの、善さんのお店があった町に少し似てる。
日用品を買って戻ると、ベランダに出るガラス戸から、午後の日差しが優しく部屋中を照らしていた。
この部屋も、フローリングだけど布団とテーブルという、床で生活するスタイルになっている。
どうしてだか、私はそれがすごく嬉しかった。
「お布巾、おろしちゃいますね」
「うん、ね、全部並べちゃっていい?」
お惣菜の袋をのぞいて、先輩が訊く。
小さなキッチンで新品の布巾を絞りながら、私は改めて問いただした。
「いつになったらみずほって呼んでいただけるんでしょう」
「自分だって、万里って呼べないくせに」
じろりとにらみあう。
「先に呼んでいただければ、私も呼びやすいです」
「すっごいお互い様」
「何がそんなに嫌ですか?」
「恥ずかしい」
思わずそちらを見ると、にやりと笑う顔と目が合う。
しまった、やられた。
テーブルを拭きながら、自分が真っ赤になっていくのがわかった。
もう、いきなり素直になるとか、ずるい。
「そんなに呼んでほしい?」
「当然です。呼んでくれないのなんて、先輩だけです」
「じゃあ呼んでくれる人のとこ、行きなよ」
煮つけを投げつけてやろうかと思った。
意地悪、意地悪、意地悪。
「ほんとに行きますよ、私だって、全然あてがないわけじゃ、ないんですから」
強がってみると、へえ、と面白そうに先輩が目を見開いた。
いまだに部屋を禁煙にするか喫煙にするか迷っているらしく、一応用意した灰皿を前に、煙草に火をつけあぐねている。
「もしかして、俺のいない間、何かあった?」
「え…」
「びっくりされなかった?」
「びっくり?」
なんの話だろう、と意味もわからず不安になる。
小さなテーブルを埋めつくす、春らしいお惣菜と炊き込みご飯が、早く食べてって湯気をあげている。
先輩は吸うことに決めたらしく、くわえた煙草に火をつけると、立てたひざに片腕を置いて、満足そうに煙を吐いた。
「俺としてたこと、そのままやらないほうがいいよ、少なくとも最初のうちは」
じわりと汗が浮いた。
えっ。
えっ。
「私…私、何か変なんですか」
「まあ、イメージよりはだいぶ大胆だよね」
そうなの。
でもみんな、そんなものなんじゃないの?
他の人のなんて知らないから、わからない。
けど、あんな女の人たちばかりを相手にしていた先輩にまでそう言われるってことは、相当なんだろうか、私。
だって。
「だって、全部、先輩が…」
「俺は単に、自分の趣味に合わせただけだから」
平然と言いながら、引っ越し祝いにと買ってきた缶ビールをふたつ開けて、はいとひとつをくれる。
「まあ、何も言わなかったってことは、喜んでたんじゃない? 俺と好みが似てるのかもね、誰だか知らないけど」
「誰ともしてません」
「あてがあったんでしょ」
「言ってみただけで」
そう、と乾杯もせずにビールを飲んで、割り箸を割る。
さっさとお惣菜に手を伸ばしはじめたその腕を、思わずつかんだ。
「ほんとにしてません」
「いいよ別に、してたって」
「してませんったら」
必死にすがる私を見て、先輩が灰皿に煙草を落とす。
ふーん、という冷たい声に、信じてくれてないんだとあせっていると、ふいに腕が肩に回されて。
引き寄せられたと思ったら、唇が重なってきた。
煙草くさい唇は、一度すぐに離れて。
息つく暇もなく、また重なってくる。
先輩、わかってますか。
これ、再会して初めての、ちゃんとしたキスなのに。
お互い、引越し作業のあとでなんとなく埃っぽくて、片手にお箸なんて持ってる。
私の不本意さが伝わったのか、先輩が笑った。
「夜まで言わないでおこうと思ってたんだけど」
「なんですか」
「ずっと会いたかったよ」
ずるい。
いきなりそんなの、ずるい。
「…でもやっぱり会わなきゃよかったって、思ってたでしょう、善さんのおうちで?」
「思ってた」
鋭いね、と苦笑する。
額をくっつけて、優しく髪をかき回してくれる。
「でももうそういうの、やめるんだ」
「どんなふうに?」
「うーん…会いたいと思ったら会うし、いろんなこと、したいと思ったらするし」
突然、熱烈な一瞬のキスをくれる。
のぞきこむ、優しくて真っ黒な瞳。
「一緒にいたいと思ったら、離さない」
なんで泣くの、と笑われた。
悔しくて、首にしがみついて顔を見られないようにした。
持ったままだったお箸を、先輩が私の手からとりあげて。
きつくきつく抱きしめて、頭をなでてくれる。
「勝手してごめん」
「謝らなくて、いいです…」
「ありがと、待っててくれて」
声にならなくて、肩に顔をうずめたまま首を振った。
まあでも、と先輩が言う。
「ほんとに待ってたか、怪しいけど」
「誰とも何も、してませんったら」
「まあ、確かめればすぐわかることだし」
意味ありげに、先輩の手が私の腰骨のあたりをなでる。
まだそうやって上に立とうとするのにかちんと来て、身体を離してにらんだ。
言っときますけど私、あの頃の先輩より、年上なんですよ。
「じゃあ確かめてください、早く」
どうせ潔白ですから、と胸を張ったつもりが。
一瞬ぽかんとした先輩に、大笑いされた。
えっと戸惑う私をまた抱きしめて、息を切らしながら笑う。
せめて食べてからでいい? とからかうように訊かれて。
ようやく私は、自分が何を言ったのか気がついた。
「そんなつもりじゃ」
「いいけどね、今すぐでも」
嫌です、と言う顔が熱い。
もう、なんで今さらこんな失態。
「ほらね、すぐそうやってボロが出るから」
「なんですか」
「俺以外とは、しないほうがいいよ」
どんどん顔が熱くなる。
くすくすと笑って首筋に噛みついていた先輩が、ふいに言った。
「やっぱり、この部屋で吸うの、よす」
「どうして、つらくないですか?」
「みずほの匂いが消えちゃうから」
理解するのに、少しかかった。
やっぱりずるい、そんな不意打ちみたいに。
顔も見せないで。
抱きしめる腕を、渾身の力で引きはがす。
照れくさがって全然目を合わせようとしない先輩に、ぶつけるようにキスをして。
卑怯者、という思いをこめて、散々に唇を合わせた。
善さんの部屋を出た先輩から、あの頃と同じ匂いはしない。
けど確かに、これが先輩だっていう匂いがあって、それが私を安心させてくれる。
少し開けた窓から、風がふわりと入りこんだ。
揺れるシェードが、優しい日差しを部屋に入れる。
運ばれてくる、春の香り。
この香りの下で、私は先輩と出会った。
呼んでよ、と先輩が言った。
「俺の名前」
微笑んで、私の涙を唇ですくってくれる。
ねえずっと、そうやって笑っていてくださいね。
笑えない時は、つらいと教えてくださいね。
もう絶対に、ひとりで隠れないでくださいね。
どこかへ行きたくなったら、言ってくださいね。
「好きです…」
「名前だってば」
好きです、と泣きじゃくる私を、先輩が笑う。
あやすように顔中に、キスをくれる。
ねえ先輩、好きです。
会いたかった。
会いたかった。
先輩は、仕方なさそうに噴き出して。
ぎゅうっと抱きしめて、うん、と髪をなでてくれた。
「俺も」
ねえこれまで、先輩がどれだけひとりだったか、今でもわかりません。
でもこれからは、私がいるって、思っていいんですよね。
幸せだったり楽しかったりするたびに、きっと先輩は、どこか不安になるんでしょう。
自分にそんな資格あるのって、問うてしまうんでしょう。
そうしたら、私を見てください。
いつでも、近くにいますから。
何度だって、呼びますから。
万里先輩。
優しい腕が、ふいに力強さを増して。
温かい唇が涙を拭いてくれる。
何度も何度も。
そのたびに、胸が詰まって。
必死に呼んだ。
産まれた時から、彼がずっと持っている。
本当の名前を。
Fin.
──Thank you!