深夜に目を覚ますと、スタンドを机に移した先輩が、手紙を書いていた。
いつもと同じに、片ひざを立てて、片腕だけ机に乗せて、さらさらとメモ書きのようにペンを走らせる。
先輩は、ふとした隙間の時間に、こうして手紙を書く。
数日かけて書きためて、投函しては、すぐに新しい便箋をとり出す。
誰に宛てているのか、聞いてはいないけれど、そんな時の先輩がまとう空気は、普段よりいっそう柔らかい。
ひとりの時に私が思い描く先輩の、ひとつはこの、手紙を書く姿だった。
目が合った。
まだ寝てていいよと優しく笑い、少しの距離を来てくれる。
ごめんね、まぶしかった? と気づかいながら、温かいキスをくれる。
この幸せは、誰もが通るものなんだろうか。
いずれは穏やかに、慣れてしまうものだとしても、始まりは誰だって、こんなはちきれそうな幸福に満たされているものなんだろうか。
ねえ、だとしたら、どうして。
別れなんて、来るんだろう。
ねえお母さん、お母さんだって、過去にお父さんと、こんな日々があったでしょう?
それでもやっぱり、もう一緒にはいられないの?
このふわふわした幸せを思い出すだけで、胸があったかくなって、この人でよかったって、そう感じられるものなんじゃないの?
そうじゃないんだとしたら。
私が今感じている幸せも、終わりがあるってこと。
また眠りの世界に落ちていく私を、少しの間見つめて。
頭をひとなでしてくれたあと、先輩がそっと机に戻った気配を感じた。
夢の中で、父と母は若かった。
お互いしか目に入っていないような無邪気さと、愛すべき傍若無人さがあった。
私は母の視点で父を見ながら、この父は古いアルバムで見た、学生旅行の写真の中の父だわ、と冷静に考えた。
それに気づいた瞬間、父の姿はモノクロになった。
母だと思っていた自分は、本当の私になり、父はいつの間にか歳をとって、幼い私の手を引いてくれていた。
反対側には母がいる。
優しく微笑んで、私の手をとる。
頭上で交わされる親密なキスを、ドキドキして見あげた。
こんな時の母は、少女のように頬を染めて、嬉しそうに綺麗な歯を見せる。
そうだ、私、こんなふたりを見るのが大好きだった。
光の中で目を覚ますと、先輩の寝顔がすぐそこにあった。
私の身体に片腕をかけて、枕に軽く顔をうずめて、長い睫毛を伏せている。
こめかみにキスをすると、一瞬くすぐったそうに顔をしかめて、すぐにまぶたがぱかっと開き。
黒い瞳がのぞいたかと思うと、がばっと跳ね起きた先輩が、ものすごい勢いで私の腕をつかんだ。
「今、何時!?」
「えっ? えっと、たぶん8時くらいかと」
きょろきょろしたあと、机の上の目覚ましを確認した先輩は、はーっと息をついて、よかったー、と枕に顔を伏せる。
「何かご用事ですか?」
「午後から。ダメだもう俺、相当気がゆるんでる…」
そう弱々しくこぼしてから、ぱっと顔を上げると、枕に押しつけたせいで乱れた前髪をかき回し。
じっと考えこむように視線を落として、引き締めてくる、と誰にともなくつぶやくと、布団を出ていった。
廊下の先の浴室で水音がするのを聞きながら、私はなんだか、言いしれない幸福に浸っていた。
先輩が、私の前で、気をゆるめてくれたの?
あんなに忙しい人が、目覚ましをかけ忘れるくらい、ゆるんでくれたの?
私といる時に?
もしかして、私といるせいで?
布団を出て、シーツや枕カバーを外して、あとで洗濯するためにざっとたたむ。
干すものはまとめて部屋の隅に積んで、ふうと壁際に座りこんだ時、何かが頭に降ってきた。
「痛!」
さらにゴツンと固いものがぶつかり、思わず頭を押さえて、それが先輩のパーカーだったことに気づいた。
長押にかけたハンガーから、外れて落ちてきたらしい。
そういえば前にも、先輩のポケットに顔を打たれたことがあった。
ライターか何かを入れっぱなしにしてるんだろうと、なんの気なしに右のポケットを探って。
指先が探りあてた、ひやりとした感触に、鼓動がとまった。
見たくない。
でも確かめたい。
そんな思いが闘う中、おそるおそるとり出して、思ったとおりのものに心が冷える。
知らない人が見たら、すぐにはなんだかわからないだろう。
でも父と兄がいっときアウトドアに凝っていたせいで、見れば私はわかる。
刃も握りもステンレスの。
折りたたみ式の、ナイフ。
ごく軽量のそれを、持つ手が震えた。
なめらかに輝く刃は、しまいこまれていてさえ、一種の恐ろしさを感じさせる。
たたんだ状態だと手のひらに収まるけれど、意味もなく持ち歩くことが禁じられているサイズだ。
日常生活には、絶対に必要のないもの。
――人を探しに
先輩の声が、頭の中で暴れた。
――俺は、よくないことをしようとしてるから
――この子じゃ“目的”は果たせなくない?
よくないことをしようとしてるから。
よくないことを――…
先輩。
もう一度お訊きしても、いいですか。
先輩は、何をしに、この大学に――?
母からの着信を無視した。
ゆうべは兄からも着信があり、迷ったけど出なかった。
私は逃げてる。
「真衣…」
子、と呼びかけて語尾をのみこんだ。
ひとりかと思ったら、違うみたいだ。
学部の本館を入ってすぐの掲示板の前で、ぼんやり立っているように見えたのだけど。
よく見ると、隣に人がいた。
槇田先輩だ。
ひとりだと思ったのは、真衣子が、彼女に話しかける先輩を無視していたからだと気づく。
真剣な顔で何か訴える先輩に、頑なに答えない。
やがて先輩はあきらめて、真衣子を置いてこちらに来た。
私に気づくと一瞬気まずそうな顔をして、けど、久しぶりだね、とすれ違いざまに微笑んでくれる。
先輩が校舎内に入ったのを見計らって真衣子に声をかけると、はっとしたようにこちらを振り返った。
何かあったの、と訊くと、憮然とした表情で答える。
「なんであの人があたしを選ばないのか、わかんない」
「いいね、そういう強気」
「だって、一緒にいて感じるでしょ、向こうもこっちを好きだなってことくらい」
そ、そうだね、と迫力に押されてうなずく。
勢いで賛同はしたものの、自分とB先輩に置き換えてみた時、感じるとは言いがたい。
大事にしてもらってるな、相手にしてもらえてるな、くらいは、最近さすがに思うけど…。
「聞いてみても、彼女つくる気はないの一点張りで、ほんとイラつく。どうしろってのよ」
「どうしてつくる気ないのか、教えてくれた?」
仏頂面の真衣子が首を振る。
きりりとした美人の真衣子が、悲しげにすねた子供みたいに見えて、槇田先輩を恨めしく思った。
真衣子にこんな顔させないでください、先輩。
真衣子を好きなら、ちゃんと話してあげてください、何もかも。
行こ、と真衣子を促して、講義室への階段をのぼりながら、B先輩を思った。
ポケットの中身について、私は彼に訊けもしなかった。
見なかったふりをしてもとに戻して、忘れようと思った。
たとえば、私をどう思ってますか、とか。
たとえば、あのナイフはなんですか、とか。
以前なら、なんのためらいもなく訊けていただろうことが、今は口に出せない。
前より近づいたと思ったのに。
訊けないことが増えてるなんて、おかしな話。
だって今、十分幸せだから。
これ以上知りたいことなんて、ない。
嘘。
ただ怖いだけ。
この幸せが、どれだけ危なっかしい地盤の上に築かれてるのか、知ってるから。
訊いたらそれが崩れてしまう可能性を、わかってるから。
要するに逃げてるの。
私は今、いろんなことから逃げてる。
ある日、日も暮れる頃に先輩の部屋を訪れると、彼は窓辺に座っていた。
障子と窓を全開にして、膝ほどの高さの敷居に腰をかけ、柱に背中を預けて外を見ている。
私を認めると、間に合った、と満足げに微笑んで、冷蔵庫からビールを持ってくるよう指示した。
「え、屋根に出るんですか?」
「そうだよ、足元気をつけて」
言いつけどおりビールをとって戻ると、窓の外にとりつけてある転落防止の柵をひょいと乗り越えて、先輩が瓦の屋根に降り立つ。
手招きに従い私も、昼間の温もりを残す瓦を踏んで、導かれるまま傾斜をのぼった。
意外にすぐそこだった、一階の屋根のてっぺんの、峰の部分に腰をおろす。
どういうことですか、と尋ねようとした時、暮れた空がぱっと光り輝いた。
遅れて轟く破裂音に、近くの民家からもぱらぱらと拍手が沸き起こる。
見ればみんな、縁側や二階の窓から顔を出している。
花火だ。
すごい、こんな間近で見るの、初めて。
目の前というより、もう真上で花開いて、油断すると火の粉を浴びそうな気すらする。
そういえば今日、駅で浴衣姿の人を見た。
「お祭りですか?」
「そう。会場は人混みがすごいから、こういうとこで落ち着いて見るのが、絶対いいよ」
「特等席ですね」
先輩がにこっと笑って、開けた缶ビールを渡してくれる。
ふたりで乾杯して、屋根の上で、猫みたいな気分で光る空を見あげた。
前庭に出てきた善さんの、煙草の赤い火が見おろせた。
B先輩が呼びかけて、缶をひとつほうる。
驚くほどの正確さで受けとめた善さんは、お礼代わりに煙草を振ってから、こわごわプルタブを引いて。
予想どおり噴き出した泡に、私たち全員が笑った。
2時間近く続いた花火を最後まで鑑賞して、部屋に戻る頃には、耳が麻痺していた。
大きな花火が打ちあがるたび、身体の底がびりびり震える、初めての感覚。
ただ見ていただけなのに、ふらふらになってへたりこんだ私を先輩が笑った。
全然変わらない先輩。
相変わらず、ふわりと優しくて、時折意地悪な先輩。
ねえB先輩。
好きです。
「そうだ、通りのレコード屋さん、ご存じですか?」
「知ってるも何も、俺、あそこでたまに店番してるよ」
えっ、と先輩を見あげる。
開け放ったままの窓枠に腰を下ろした先輩は、夜の心地いい風にうしろから吹かれながら、楽しげに笑った。
「あのマスター、実はバックパッカーで。たまに突然、まとまった休みとって旅に出ちゃうんだよ」
「その間は、先輩がお店に?」
「うん、ほんとにたまにだけど。なんで?」
今日通りかかった時、店先の窓に、以前先輩が弾いてくれた、あのミュージカル映画のLPジャケットが飾ってあったのだ。
それで先輩のギターを思い出して…と話しかけたところで、そうだ、と思いついてしまった。
「嫌だよ」
「まだ何も言ってません」
何か察知したのか、先輩が先回りする。
私は負けじと部屋の隅からギターをとって戻り、先輩に突きつけた。
「弾いてください」
「やだって言いました」
「できたら、歌も」
「俺の話聞いてる?」
渋い顔をする先輩を気にせず、その手にギターを握らせて、私は足元の畳に腰を下ろす。
受けとってしまった先輩は、私をじろりと見て、それ以上抵抗するのも大人げないと思ったんだろう、脚を組んで弾く体勢になった。
ぽろんと鳴らしながら、何弾けばいいの、とふてくされた声で訊いてくる。
「この前は、もう少し気前よく弾いてくださったのに」
「だってさあ、あの時は、まださあ…」
ぶちぶちと垂らされる文句が途中で消えた。
まだ、なんですか、先輩。
親しくなる前だったからって言おうとしたんですか?
こういうのは、そういう相手の前のほうが、やりづらいって?
どうして最後まで言えなかったんですか。
言ったら、今の私との距離を認めることになるからですか。
「で、何弾くの」
「先輩が歌いたい曲を」
「そもそも歌いたくありません」
「往生際が悪いです」
気分に合う曲を探しているのか、ちらちらとかすかな音で、次々コードを替えながら、先輩が黙りこむ。
やった、折れた、と心の中でガッツポーズをした。
どうして私、こんなに必死になってるんだろう。
それはたぶん、先輩の優しい音を聞きたいからだ。
聞いて、先輩はやっぱり優しい人なんだって確かめたいからだ。
困っている私に手を差し伸べて、一晩中私の好きな曲を弾いてくれようとした、あの優しさは、嘘じゃないんだって確かめたいからだ。
先輩はまだ迷っているらしく、眉をひそめていくつかぱらぱらとコードを押さえる。
無理強いされた不満を示すように、口が少し、すねたへの字になっている。
窓の敷居に腰を下ろして、さっきまでの花火で少し煙り、火薬の匂いを残す夜空をぼんやり見つめながら。
くるくるとフレーズを移ろわせていた先輩が、ふと何か見つけたように、一筋の旋律を奏でだした。
ゆったりしたアルペジオと重なる、特徴のある、切なくて懐かしい、雨だれみたいな単音のイントロ。
懐メロと言われる時代から今まで、ずっと最前線にいるバンドの、知らない人はいない名曲だ。
真夏に交わした愛を、涙と共に思い出す歌。
まさか先輩がラブソングを選ぶとは思わなかったので、ちょっと驚いて、でもその柔らかい響きに満たされた。
メロディに入る直前、本当に歌ってくれるのか心配になって見あげると、目が合う。
疑り深い私に、さらに機嫌を損ねたらしい先輩は、まだふんぎりがつかないのか、視線を窓の外に泳がせて。
最後にちらっと私を見ると、照れくさそうに少しだけ微笑んで、口を開いた。
先輩の歌声。
穏やかで、静かで、柔らかくて。
どこまでも優しく、夏の夜の湿った空気に溶けていく。
普段から、少しぼんやりとゆるいその声は、こうしてバラードに乗ると、特徴が際立つ。
なんでも知っているふうなのに、どこか甘えているような。
哀しみを抱えながらも、幸せを抱いてるような。
控えめなのに伸びやかに響く声は、時折にじむようにかすれて潤む。
色気のあるファルセットが、私の心を揺らす。
涙が出た。
先輩はやっぱり、温かい人です。
こんな優しい人、他に知らない。
ひざに顔をうずめる私を、曲に何か思い入れがあるとでも思ってくれたのか、先輩は何も言わなかった。
サビをくり返して、原曲よりもさらに甘くゆったりと歌いきると、肩の荷が下りたのか、ふうと息をついてアウトロに専念する。
最後の一音の余韻が消えた時、窓の外から拍手が聞こえた。
はっとそちらを振り返った先輩は、いかにも悔しそうな、恥ずかしそうな顔になり。
机のティッシュボックスをとりあげて、屋根の下に向かって腹立たしげに投げつけた。
きっと善さんが、庭で聴いてたんだ。
涙を拭きながら、それに笑った。
心からの拍手を送ると、弱りきった顔で手招きされる。
ギターを壁に立てかけて、ひざの間に座らせた私をうしろから抱きしめながら。
首筋に、照れ隠しみたいな、やけに長くて熱いキスをくれた。
その夜、私は初めて、頭の中が真っ白に飛ぶ経験をした。
全身から汗が噴き出して、これ以上続けたら自分がコントロールできなくなるのを予感する。
本能的に、身体が先輩を突っぱねた。
「や…嫌です、やめて、やめて」
「何が嫌?」
「やだ、先輩、嫌です、嫌」
混乱して暴れる私を、先輩がぎゅっと抱きしめる。
押し寄せる、未知の感覚の波に、怯えて涙がこぼれた。
「先輩、嫌です、やだ、怖い」
「何が怖い?」
優しく訊きながら、先輩はとまってくれない。
きつく私を抱きしめて、休むのを許してくれない。
私はもう、自分の声が、嗚咽なのか悲鳴なのか、それとも快感に喘ぐ声なのか、わからなかった。
つっぱっても叩いても、先輩は私を離さない。
突きあげるような感覚が押し寄せ、我を忘れて先輩にしがみついた。
おかしくなりそうです、と懇願するような泣き声が出た。
とにかく解放してほしくて、やめてと叫びながら、強く抱きつくしかない矛盾。
「なっていいよ」
「や…」
軽い波が訪れた。
身を反らせて耐える私に、それを感じるんだろう、先輩が容赦なく、私の腰に回した片腕に力を込める。
激しく揺さぶられる身体からは、もう声も出ない。
自分がどうなってしまうのか、わからない。
苦痛に近い強烈な快感と、不安に戦きながら、やめてと声にならない懇願を口にする私を。
先輩は絶対に許そうとせず、追い詰めた。