ごめんね。
ありがとう。
優しい彼は、いやいいんだけどさ、と気楽な返事で私の心を軽くしてくれる。
けど実際ちょっと上の空で、なぜか考えごとでもするように宙を見つめて、あのさ、と私を見おろした。
「変なこと訊くけど、怒らないでね」
「うん?」
「初めてじゃないよね、その余裕?」
ごく言葉を絞ってあったけれど、質問の意味がすぐわかった私は、自分が青くなってるのか赤くなってるのかわからなかった。
前に誰かと、キスしてるねってことだ。
別に、余裕とか、とへどもど言い訳する私に、加治くんの冷ややかな声が降る。
「まさかと思うけど、あの先輩じゃないよね」
沈黙は当然、肯定と受けとられたらしく。
強く握られた右手の、あまりの痛みに、思わず声をあげた。
「何あいつ、マジで許せないんだけど」
「違うの、私から無理に、お願いしたの」
えっ!? と驚かれて、私はいざ言葉にすると、自分でもなかなか衝撃的な響きだなと一瞬で反省し、あせった。
加治くんは目を丸くして、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
「お願いした? みずほちゃんが? してくださいって?」
「お願い、何度も言わないで…!」
恥ずかしさに耐えきれず、熱い耳を両手で覆って叫ぶと、加治くんが半ば呆然と、半ば感心したような声をあげた。
「それは、あの先輩も、驚いただろうね…」
「どうだろう、あきれてたかも…」
「いや、あせったとは思うけど、好意を持たれてるってことだし、悪い気はしないと思うよ、普通」
「そう思う…?」
おそるおそる訊いてみると、思うよ、とうなずいてくれる。
B先輩は、ひたすら優しいから。
その優しさの奥で、何を考えているかって、そういえば読めたことがない。
そうだ、私ったら、いつも自分の欲求ばかりで。
ちゃんと考えてみたことがなかった。
私は、先輩にとって、どんな存在なんだろう。
慣れない立ち仕事は、身体に来る。
5時間の尊い労働を終えて部屋に帰った私は、ロフトベッドに上がる力もなく、ぐったりとクッションに沈みこんだ。
この疲労は、バイトのせいだけじゃないかもしれない。
――みずほちゃんの失恋待ちでもしてるよ。
なんでもないことのようにそう言ってくれた加治くん。
ねえ真衣子、槇田先輩もね。
真衣子につきあえないって言った時、きっとものすごい心の痛みと闘ってたと思う。
一緒にいて楽しかったんなら、なおさら。
許してあげてね、なんて私が言う立場じゃないけど。
何か槇田先輩にも、どうにもならない感情があったんだと思うの。
それがわかれば、真衣子も楽になるんじゃないかな。
なんて、私はきっと、自分が許してほしいだけだ。
加治くんに対して、精一杯のことをしたよって言ってほしいだけ。
ずるいな。
眠りの淵に引っかかりながらそんなことを考えていると、固定電話が鳴った。
携帯じゃなくて、こっちが鳴るのは珍しく、飛び起きる。
「はい」
『みずほちゃん? お久しぶり、私よ、三鷹の』
「――おばさま!」
伯母だった。
正確に言うと、父の実姉だ。
お正月と法事くらいでしか顔を合わせないけれど、弟である父を可愛がっており、何かと私たちにも気を配ってくれる人のいい伯母だ。
だけどなんでこんなところに電話なんて。
そう不思議に思いつつも、家を離れてからのことなど、訊かれるままに答えていた時、伯母が父と母について触れた。
『あの子もね、一度決めたらてこでも動かない性分だから、仕方ないのもわかるけど』
「あの、おばさま」
『でも女はこらえ性よ、慶子さんもここが踏ん張り時でしょうに』
慶子というのは私の母だ。
これが本題だったんだ、と気づいた時には遅く、立て板に水のごとく喋る伯母をせきとめるのに必死だった。
「おばさま、私ね、そのお話は、父と母がいるところでお聞きしたいです」
『あっ、そうよね。でもお母さんの昔の人の話なんて、みずほちゃんもなかなか、聞いてて複雑よね』
えっ?
子機を持つ手が、固まった。
「…昔の人?」
『会ったことあるでしょう? 弟が大学で仲よくしてた』
言ってから、私が何も訊かされていないことに気がついたんだろう、はっと口をつぐみ、いえね、と急いで明るい声を出す。
『事情はどうあれね、みずほちゃんはうちに来たらって話してたの。うちの子も喜ぶわ、いつから会ってないかしら?』
喜ぶって歳じゃないでしょう、おばさま。
伯母の家の従兄は、私のふたつ上で、もういい大人だ。
悪い人じゃないおばさま。
だけどちょっと、私の両親の口の堅さをはかり違えていた。
バイトの疲れを理由に、もう失礼しますとやんわり伝えると、しっかりしたわねと感激してくれた。
私は切った子機を握りしめたまま、しばらくぼんやりしていた。
お母さんには、誰か相手がいるってことだ。
それはたぶん、お父さんのお友達ってことだ。
つまり母と一緒に行く道は、私にはあまり残ってなくて、家庭のことは不得手な父は、私を伯母に預けようとしたんだろうか。
“来たら”というのが、単純に遊びに行くような意味じゃないことくらい、わかる。
兄に電話をしようとしたけれど、携帯の番号を覚えているはずもなく、バッグの中の自分の携帯に手を伸ばす気力はなかった。
別に、いいの。
誰に預けられようが、私は在学中はここにいるんだし。
その後は働いて自活するつもりだから、つまりはどこを「実家」と呼ぶかという違いでしかない。
でもね。
でもね、私のことなの。
私のことなのに、私だけが知らなかったの。
情けなくて、涙がひと筋、ラグに落ちるかすかな音がした。
私って、そんなに軽い存在?
今、それなりに、自分で自分の面倒を見られてる気になってるんだけど。
そんなの幻想で、私はやっぱり、なんでも決めてやらないといけない、手のかかる末娘なの?
私、ここに、成長しに来たの。
でももしかしたら、私が成長できる限界なんて、最初から決まってた?
だったらその中で遊ばせてやろうって、そんな気持ちで家を出してくれた?
誰が聞いているわけでもないけれど、クッションに顔をうずめて、泣き声が漏れないようにした。
お母さん、お父さん。
ふたりにとって私は、どんな存在?
ねえB先輩、なんだか、どんどん。
信じることが、難しくなっていきます。
B先輩。
――あとになってみれば、転機の日。
昼間の私は、そんなことはつゆ知らず、アルバイトに行くためテニスの練習を途中で抜けて、構内を走っていた。
「あっ、すみません!」
ドン、というより、べちょ、という感触でぶつかり、双方が慌てて離れる。
すみま、と言いかけたのを、私の顔を見て、ごめん、とわざわざ訂正したのはB先輩だった。
「すごい汗だね」
「先輩こそ」
濡れたTシャツ一枚で構内を走っていた先輩は、バッグとパーカーをまとめて肩に引っかけている。
暑いんだもん、と笑いながら、シャツの胸元を引っぱって頬の汗を拭うので、すそからおへそと下着がのぞいた。
なんとなく目が泳いでしまう。
「何してらしたんですか?」
「あれ」
先輩が指さした背後では、バスケットコートで、少人数のゲームが行われていた。
そういえば先輩、中学時代はバスケ部だっけ。
「久々だったからハマっちゃった。シャワー浴びたい」
「更衣室で浴びていかれたら?」
「だって着替えもないのに」
そりゃそっか。
「でもそれで電車乗るの、つらいですね」
ふと思ったことを口にして、後悔した。
ん…と曖昧に微笑んだ先輩が、何を考えてるのかわかってしまったから。
あの人のところに寄るんだ。
駅の反対側の、綺麗なアパートに住んでる人のところに。
手に提げたラケットとテニスバッグをぎゅっと握りしめると、先輩のほがらかな声がする。
「これからバイト?」
「そうなんです、それじゃあ」
どうにか返事だけして、私は挨拶もそこそこに去った。
構内に点在する、綺麗な箱型の更衣室に飛びこんでドアを閉める。
ロッカーに荷物をほうりこみ、誰もいなかったのでカーテンも閉めずに服を脱ぎ、シャワーを頭からかぶった。
今朝の、父からの電話が思い出される。
伯母が私に連絡したことを聞きつけたらしい父は、泡を食って電話してきたわりに、何も言ってくれなかった。
『とにかく、姉さんとは父さんが話しておくから。お前は気にするな』
「気にしないなんて、無理だよ…」
もとからあまりぺらぺらと喋るほうではない父は、少しの間沈黙して。
そうだな、と静かに言った。
『すまんな、父さんたちの勝手で振り回して』
まさにそのとおりだよ、と思っていたことなのに、真正面から謝罪されると、何も言えない。
ううん、と小さく答えて、電話なのについ首を振る。
「何かあったら、すぐ教えてね」
『お前が聞くような話じゃ、ないよ。それよりまた、顔を見せに帰ってきなさい』
私の返事を待たずに、通話は切れた。
父の声は気づかいに満ちて温かく、優しい。
幼い頃から大好きな、深くて知的なバリトン。
それがこんなに恨めしく感じたのは、初めてだった。
私、お客様みたい。
どうぞ座っててって言われてしまい、黙ってじっとしてなきゃいけない疎外感。
悔しくて情けなくて、朝から心が鉛のように重くなった。
この陽気なら、お店まで走るうちに自然と乾くだろうと、ドライヤーをやめた。
清潔な服に着替えると少し気分が軽くなって、ほっと息をつきつつ更衣室を出る。
B先輩、私は今、何を信じたらいいでしょう。
誰もかれもが私に全部を話してくれていないようで、これまでにない距離を感じます。
信じられないわけじゃないんです。
ただ、信じてもらえていないように、思えるだけ。
傾きはじめた日の下、心地いい風が髪を梳いてくれる。
濡れた毛先が腕に触れて、先輩のお相手を思い出した。
親密そうなふたり。
でも以前見たのとは違う女の人。
先輩、先輩はなぜ、そう次々に誰かを好きになるんですか?
そこでも何か、探してるんですか?
相手の方とはどんなお話をしますか?
先輩がにこっと優しく笑うのを、その方も好きですか?
どんなふうに知りあうんですか?
どんなふうに、始まるんですか?
一緒にどんな時間を過ごしますか?
どんなふうに、先輩は。
相手の方に、触れますか――…?
いきなり手首をつかまれて、ぎょっとした。
声をのみこんで振り返り、そこにあった姿に、改めて悲鳴をあげそうになった。
「B先輩…!」
一瞬、頭の中を読まれたかと動転する。
あんまり強く先輩のことを考えていたから、呼んでしまったんだとめちゃくちゃな考えが浮かび、落ち着け私、と言い聞かせた。
立ちどまると、先輩がほっとしたように手を離す。
口にくわえた煙草からは、細い煙が立ちのぼっていた。
「あの…?」
「ごめんね、その、急いでるとこ」
いえ、とただ走っていただけで急いでいたわけではない私は首を振る。
まだ湿ったTシャツを着たままの先輩は、困ったように微笑むと、ちょっと足元に視線を落として、また私を見た。
「大丈夫?」
「何がですか?」
唐突な質問に思わず尋ね返すと、先輩は少し言いにくそうに間を置き、くわえていた煙草を手に持ち替える。
「さっき、様子が変だったから」
言い終えて、ふっと脇に煙を吐いた。
手元で煙草を叩いて灰を落とす、何気ない仕草。
呆然としていた私は、ようやく頭の回路がつながった。
もしかして。
それを訊くために、待っていてくれたんですか。
「ご両親と、また何かあった?」
立ち入ってもいいものか、はかりかねているように、遠慮がちに微笑む。
先輩のバカ。
どうしてそんなに優しいんですか。
犬とか猫に懐かれて、どうにも突き放せないような、あとに引けなくなってしまったような感覚ですか?
私が一番じゃ、ないくせに。
自分でもびっくりするくらいすねた考えが浮かんだ。
私、どうかしてる。
ふと先輩が、持っていた煙草をまたくわえて、私に手を伸ばした。
たぶん頭をなでてくれようとしたんだろうけど、私はとっさにその手を払いのけてしまい、ひとりで動揺した。
軽く目を見開いた先輩が、すぐに手を引っこめる。
あ、とよく考える間もなく、その手をつかんでいた。
違うんです、ごめんなさい。
さわられるのが嫌だったんじゃないんです。
少しいじけて、何もかもがちくちくした刺激に感じられて、過敏になっていただけで。
「どうしたの」
先輩が、私の手を握り返してくれた。
並んで手を繋ぐ時みたいに、手のひらを合わせて。
もう片方の手にはバッグと上着があるため、両手がふさがってしまった先輩の、くわえた煙草から灰がはらりとTシャツに落ちる。
気づいているだろうに、先輩はそれを払うこともなく、私の手を離さずにいてくれた。
意外なほど温かい手。
そこから、優しい何かがゆっくり流れ込んでくる。
手と手が触れているだけなのに、不思議なことに、これまでのどんな触れあいよりも深く、穏やかに。
どうしたの、って問いかける先輩の心が、私だけを見てくれているような気がした。
「先輩…」
ん? と受けとめてくれる、黒い瞳。
自分の手の温度が上がるのを感じた時、先輩が突然顔をそむけて、煙草を地面に吐き捨てた。
「ダメだ、限界!」
「どうしたんですか」
「熱かった」
突飛な行動にあっけにとられていると、煙草を踏み消した先輩が、ちゃんと拾うから許してね、とすまなそうに言って唇を噛んだ。
そうか、どちらの手も使えなかったから、短くなった煙草をどうにもできなかったんだ。
よほど熱かったのか、涙が浮かんでいる。
ぽかんとそれを見ているうち、だんだん笑いがこみあげてきて、胸が痛いくらいあったかくなった。
それでも繋いだままでいてくれた、手。
今もなお、握っていてくれる。
本当に、どれだけ優しいんだろう。
見あげると、にこりとして、大丈夫? と訊いてくれる。
ダメですと甘えたいような、大丈夫ですと頑張ってみたいようなで、答えを迷った一瞬。
突然、ぱっと先輩が手を離した。
えっ? とその視線を追って振り返ると。
視界に入ったのは、少し離れたところに立っている、加治くんの姿だった。
手に私のドリンクボトルを持っている。
いけない、私、コートに忘れてきたんだ。
加治くん、と呼びかけるより先に、先輩が私の背中をそっと押した。
その意図がわからず見あげると、柔らかい微笑みが見返す。
「続きは、彼に聞いてもらうのが正しいよ」
すべての音が、遠のいた気がした。
先輩の声が、頭の中でくり返し響いた。
“彼”というのが、いわゆる代名詞の意味でないことくらい、その語調でわかる。
でも。
「…どうして、彼なんて」
「だって、この間」
先輩がちょっと驚いたような顔で、言葉を詰まらせた。
その言いにくそうな態度でわかった。
この間、見てたんだ。
私が、先輩たちを見てしまったのと、同じように。
「…彼じゃありません」
「え…」
自分でも信じられないような、頑なな声が出た。
だって許せなかった。
先輩の目が、明らかに、ほっとしてる。
私にちゃんと相手ができて、安心したって。
そう言ってる。
「彼じゃありません」
「でも」
「彼じゃ、ありません!」
悲鳴みたいな声をあげた私に、先輩がうろたえたのがわかった。
何か言いかけて、けど加治くんを意識したのか、途中でためらうように飲みこんでしまう。
かっと頭に血がのぼった。
バカにして。
バカにして。
結局私は、気まぐれに面倒を見てやっただけの存在なんでしょう。
予想外に好かれてしまって、それでしまったと思って、身を引くタイミングを探してたんでしょう。
優しくするだけして、大事なことには気づかないふりをしてきたんでしょう。
しらばっくれたって、もう無駄なんです。
だって。
だって、先輩が今、ほっとしてるってことは。
――私の気持ちを、知ってるってことなんだから。
「ごめん、俺…」
「何が“ごめん”ですか? 気を持たせてごめん? 私なんか眼中になくてごめん?」
「そういう言いかたは、ダメだよ」
「子供扱い、しないで!!」
この期に及んで保護者ぶる先輩に、腹が立った。
困り果てた顔の先輩が歪んで見えるから、私はきっと涙を浮かべてるんだろう。
これだから。
子供扱いされたって、当然なんだ。