B先輩という人がいた。


派手なサークルに属しているとか、メジャーな寮に住んでいるとかでもないのに、有名だった。

どんな時も、とりあえず色あせたジーンズにスニーカー。

暑い日でもTシャツの上にカーキのパーカーを羽織って、涼しくなるとそれがモッズコートに変わる。


構内で見かける時は、たいてい走っている。

と言っても全力疾走しているわけではなく、ちょっと急いでます、という感じに身軽に駆け足をしている。

もしくは、足早に歩いている。


あんまり見た目に頓着しないんだろう、髪はいつもぱさぱさと適当に浮いていて、ラフといえば聞こえはいいけれど、年中寝起きみたいにも見えた。

人と群れているところは見たことがない。

たらんと長い上着のポケットに両手を突っこんで、いつもひとりで、どこかに向かって急いでる。


誰に聞いても、なぜ彼が有名なのか説明できる人はいない。

だけど誰もが、彼を知っている。



B先輩。


これは私が彼と過ごした、ひと夏の物語。





あまりの田舎ぶりに、呆然とした。

だだっ広いキャンパスは、一歩出ればのどかな田園風景に迎えられ、要するに出たところで何もない。

都心にだって、田んぼや畑はある。

でもスケールが違う。


すごい、とため息が出た。

これが、地方。


入試はもう少し都会の校舎で行われたので、通学することになる本キャンパスを初めて訪れたのは、入学式である今日だった。

慣れないスーツを身に着けて、事前に送られてきた案内状を見る。

校門から式典会場までは、構内を回遊しているバスに乗れという指示が、どうもぴんと来ていなかったんだけど。

いざ来てわかった。

これは、バスが必要だ。


さて、と校門前のバス停の案内図を見て、ちょっと困った。

意外と複雑だ。

ここから見える校舎の群れのさらに奥に、馬術練習場やら武道場やら、果ては国技棟なんてものがあるらしく、路線が入り組んでいる。

どれに乗るのがベストなのかわかりかねていると、人の走ってくる音がした。


スニーカーが地面を蹴る音、バッグの中身が揺れる音。

そして少し弾んだ息の音と一緒に真横に来たのは、なんとも言えないいい匂い。

これ、なんだろう、懐かしい匂い。


腕時計と時刻表を見比べているその人のために、少し場所を譲ると。

軽く見あげる高さにある顔が、びっくりしたように一瞬こちらを見て、はにかんで笑った。


目を合わせているようで合わせていない、人見知りらしい態度のわりに、拒絶されている感じも受けない。

黒目がちの瞳が、少し色の抜けた前髪からのぞく。

犬みたいだな、と思った。



「あの、イベントホールって、どのバスですか?」



どう見ても先輩なので、知っているだろうと尋ねてみた。

カーキのパーカーに両手を入れてバスを待つ体勢になっていた彼は、ぱっとこちらを見て。



「…東京の人?」



意外と普通に、話しかけてきた。


「そうです」

「珍しいね、こんな地方の大学に」

「ひとり暮らしがしたかったので」



そう、と優しく笑うそのイントネーションには、方言というほどではない、どこかやぼったい愛らしさがある。

このへんの訛りなのかな、と考えていると、彼が右手の方向を指さした。



「あれ」

「あ、ありがとうございます」



差された方角から、水色に塗られた可愛い小型のバスが、ゴトゴトと走ってくる。



「“ホール前”はトラップだから。“ホール入口”で降りないと、5分歩くよ」

「はい」



お礼を言いつつ、なぜそんなトラップが、と笑いがこみあげた。

変な大学。


私が乗りこむうしろから、この子を入口で降ろしてあげてください、と運転士さんに言ってくれる。

にこにことうなずく運転士さんに頭を下げて、脚をかけていたステップから飛び降りた先輩は。

手を振ろうとした時にはもう、後続のバスに向かって走っていってしまったあとだった。


残念な気持ちで座席に身を沈めると、あのいい匂いが、かすかに私を包んでいるのに気がつく。

なんの匂いだったかな、と考えながら、入学のしおりを開いた。



これが、私とB先輩との出会い。








「みずほちゃんでいいよね。佐瀬(させ)さん、て言いづらいから」

「みんなそう言います」



入学してから一週間、ほぼ毎日、いや確実に毎日、夜は飲み会だ。

巨大なキャンパス自体が町のような役割を果たしているこの大学では、新入生はもう見ればそれとわかるらしく。

構内を歩いているだけで、いつの間にか手がサークル勧誘のチラシでいっぱいになる。

中高とテニス部だった私は、たまにプレーする機会があればと、テニスサークルに入ろうと思った。



『テニサーは、飲みサークルの代名詞だから、気をつけて』



学生ホールで、テニスサークルの掲示板を見ていた私に、そう声をかけてくれたのが、水越真衣子(みずこしまいこ)だった。



『そうなの?』

『ヘタなの選ぶと、テニスなんて永遠にできないよ。あたしもやりたいから、一緒にちゃんとしたとこ探そ』



すらりと背が高く、綺麗な黒髪がきりっとした顔立ちにぴったりの真衣子は、第二外国語で同じクラスだったことを、翌日知った。



『聞いてきたよ、いくつかよさそうなところあるわ』

『もう知り合いがいるの? すごいね』

『付属校上がりの奴を探したの。つるんでばっかでうるさいあいつら、こういう時に使わない手はないでしょ』



なるほど。

この大学は、1割近くが付属校からの実質エスカレーター組だ。

すでに先輩とのつながりが学内にある彼らは、単位をとりやすい講義やOBが経営している飲み屋などにすごく詳しいらしい。

そんなところに目をつけることすら思いつかなかった私は、尊敬のまなざしを送った。


真衣子の見つけてくれた候補のサークルに、日替わりで仮登録をして、そうするとまず確実に、歓迎会と称した飲み会が開かれる。

そうやっていくつものサークルをはしごして、連日こうして飲み歩くはめになっているのだった。



「みずほちゃんて、なんでこの大学来たの?」

「ひとり暮らしがしたかったんです」

「ここまで地方に来なくたって、できるでしょ」



かなり規模の大きいらしいこのサークルでは、そのうち20名ほどが集まって歓迎会をしてくれた。

学内にあるバーベキュー施設を使って、周囲にわんさか咲いている終わりかけの桜を眺めながら、次々と缶のお酒を消費していく。

新入生は私と真衣子を含め5人程度で、私は男女の先輩数名に囲まれて、いかにも初対面な会話をくり広げていた。

知ってます? と私が出身校の名前を挙げると、先輩たちが首をひねった。



「…この学校名が通じない場所に来たかったんです」

「泣く子も黙る進学校とか?」

「いえ、いわゆるお嬢様校です。幼稚舎からエスカレーターの」


おおお、と声があがる。

このあたりには、そういう学校はないらしい。


私は、親の一存で初等部からそこに入り、真性のお嬢様とにわかお嬢様と、それらに憧れる庶民、という構図の中で育った。

私の家庭は、父が大手商社の重役をしているくらいで、裕福ではあるけれど、格としてはまあ、中の中だ。

公立校は荒れてるから不可、せっかく私立なら、娘としてどこに出しても恥ずかしくない教育をとか、そういう発想だったんだろう。



「いじめとかあるイメージだねー」

「本物のお嬢様は、優しくてのんきですよ。そういうことするのは、成りあがりか下々の者です」



下々! と笑い声があがる。

やっぱりお嬢様校はそんなイメージなんだなあと、抜け出せた解放感に浸りながら夜桜を見ていたら、ひとりの先輩が誰かに呼びかけた。



「B!」



ビー?

何その名前、とそちらを見て、あっと思った。

入学式の時の人。


ここから見おろせる用水路のほとりを、トートバッグを揺らして走っていたその人は、足をとめずにこちらを見あげる。

来いよ、と気軽にかかる酔っぱらいの声に、ちらっと腕時計を見ると、うなずいて。

身軽に芝生の土手を駆けあがって、私のいるテーブルにやってきた。


余った石材を適当に組みあげたようなテーブルに、どさっとバッグを置いて、座るなりごそごそと上着から煙草をとり出してくわえる。

火をつける直前に、吸っていいかな? と訊いてきた時、ようやく向こうも私に気がついたみたいだった。



「あれ」

「先日は、ありがとうございました」



頭を下げると、くわえていた煙草を口から離して、ちゃんと着いた? と人懐こく笑う。



「はい、すごく早く着いてしまいましたが」

「だよね、周りに新入生、誰もいなかったもんね」



私はどうやら余裕を持ちすぎたらしく、開場まで20分ほど時間をつぶさなければならなかった。

構内をバスで移動、なんて言われたものだから、構えすぎたらしい。

そこに、彼を呼んだ先輩が割りこんできた。



「お前、もう新入生に手ぇつけてんのか」

「入学式の日、迷子になってたんだ」

「なんだよ、役得だなー」


人徳って言えよ、と“ビー先輩”が煙草に火をつける。

煙草を吸う人を、こんな間近で見るの、初めて。

しかもサラリーマンとかじゃなくて、同年代の男の人が吸ってるところなんて、見たことない。

興味深く観察していると、サークルの先輩がビー先輩の頭をぐしゃぐしゃとかき回し、私に笑いかけた。



「こいつね、Bっていって、商学の3年。ちょっと変な奴だけど、仲よくしてやってね」

「“ビー”って、アルファベットの“B”ですか?」

「そうだよ、もちろんあだ名だけど。そういや本名なんだっけ、お前」



そこに、あーBじゃん、と他のテーブルの先輩たちも寄ってくる。



「生協で、カートンの安売りするらしいぜ、明日から」

「ほんと、でも俺の吸ってるの、バラ売りですらたまにしか置いてくれないんだけど」



なんでこんなの吸ってんだよ、とひとりがとりあげたB先輩の煙草は、オレンジ色のパッケージで、ちょっと変わった形をしていた。



「じいちゃんがこれだったから。これしか吸ったことない」

「いわゆる安煙草だろ、これ。うまいの?」



俺はうまいと思うけど、と言い訳するような口調が可愛くて笑うと、他の先輩たちがいっせいに私を見る。



「やっぱ東京から来た子って、違うなー」

「垢抜けてるっていうか、ダントツで完成度高いよな」



いや確かに可愛い、と女子の先輩まで真顔でうなずく始末で、居心地が悪い。

東京出身というだけで、ここまで持ちあげられるとは思わなかった。

女子校育ちで、校外に交友関係もなかった私は、実は男の人と話すこと自体、あまり経験がない。

お嬢様校出身、でいじってくれたら、ちょっとは驚きや笑いを提供できるのにな、と考えていると、B先輩と目が合った。



「私も、B先輩ってお呼びしても、いいですか?」

「いいよ、もちろん」



煙草をくわえた顔がにこっと笑う。

あれ、とちょっと違和感があった。

バス停での雰囲気と、何か違う。