「……ちょっと、うらやましいよ」


ぽつりと呟いた。

同時に、後ろで寝ていた猫が「がー」と鳴いて、トトトと階段を下りていった。

軽やかに遠くなる背中。ハナも、それを見つめている。


「なんにも憶えてないのってさ、うらやましい。わたしには、忘れてしまいたいものがいつもたくさんあるのに、全然忘れられなくって。毎日、どこまでも、その嫌な思いばっかり続いていくから」


積もって、積もって。でもどこにも捨てられなくて。

自分の体の中にどんどん溜まって、重たく動けなくなっていく。

無くなってしまえばいい。消えてしまえばいい。

そうならないのなら、わたしが抱える想いをすべて、綺麗に忘れてしまえばいい。

なにもかも全部。

そうしたら、この世界だって、もう少し、マシに見えるかもしれないのに。


「セイちゃん」


ハナが振り向く。

わたしはハナを見ずに、そっと視線を空に向ける。

雨が必ず晴れるように、心の中だって、簡単に切り替えられたら、どれだけ楽なんだろう。


「だけど忘れるってことは、憶えておきたいことだって全部、頭から消えちゃうってことだよ」


ハナの声はいつも通りだ。

怒ってたりだとか悲しんでたりだとか、わたしを諭そうとしてたりだとか。その声にはそんなものひとつもなくて、ただ、わたしに問い掛ける。