僕は何度でも、きみに初めての恋をする。


「でも、持っているものをすべて抱えたままじゃ、進めない先もあるのよ」


お母さんがそっと、わたしの頬を撫でる。


「前に行くには……捨てなきゃいけないものがあるの?」

「人生ってのは厳しいものね。神様ってどうしてこう性格悪いのかしら。好きなようにさせてくれたらそれでいいのにね」

「そういうこと言うとまた神様にいじわるされちゃうよ」

「そうそう私ばかりに構うほど神様も暇じゃないわ」


わたしが笑うと、お母さんも笑った。

それが嬉しかったけど、お母さんはすぐに、笑顔のまま、唇を少しだけ引き締める。


「今のお母さんにとって、前に進むために置いて行かなきゃいけないのが、きっと、お父さんと星だったのね」



また、泣くかと思った。

けれどお母さんは泣かなかった。

だからわたしも唇を噛み締めて、零れそうな涙を堪える。


「わたしとお父さんには、それが、お母さんだったってこと?」

「そう。でもね、家族が別れても、今まで日々の証がある。星、あなたが居るもんね。だからね、寂しいけど、悲しくはないよ」



そう言うお母さんの顔は、本当に晴れやかで、綺麗で。

やっぱりお母さんだなあと思う。

きっとこれがお父さんだったら、たぶんぼろぼろ泣いている。

それを想像するとおかしくて、わたしはつい、笑ってしまう。



「それよりも、星」


リビングに戻ろうとしたわたしを、お母さんの声が止める。


「何かあった?」

「え……?」

「さっきから、どうも表情おかしいけど」


何も答えなかったけど、何も答えないことが返事になってしまっていた。

お母さんは息を吐くと、困ったように笑って先にリビングに戻っていく。

「もうあと少しだから、お母さんひとりで出来るよ」

「でも……」

「星はそうやって、すぐに自分の心隠しちゃうのが悪い癖ね。女は、後先考えず突っ走るくらいが丁度いいの」

「……お母さん、そのせいで離婚するくせに」

「あ、星ったらデリカシーないわねえ」


ぷくくと笑うお母さんを、わたしはじっと見つめて。


『セイちゃんデリカシーないなあ』


笑ってくれたきみを思う。

今日、いつもとは違う顔だったきみを、思い出す。

何かをひとりで、必死になって考えているきみ。


ハナはあのとき、何を思っていたんだろう。

ひとりでいたかった? 誰にも言えないことだった?


それとも少しでも、わたしに側に居てほしいと、きみは思ってくれたかな。


「……なにができると思う? わたしに」


きみが何を考えているのかすらわからないわたしが、一体きみに何をしてあげられるのかな。

どうすればきみは、いつか見たみたいに、綺麗な顔で笑ってくれるのかな。

あんな顔を、しないで。


「星は、何をしてもらったの?」

「え?」

「何ができるかわからないなら、してもらったことをやればいいのよ。とても簡単なことでしょ」

「してもらったこと……」


ひとりで作業を続けるお母さんの、屈めた背中をじっと見ながら。ハナが……膝を抱えていた小さくなっていたわたしにしてくれたことを、考える。


「……側に居てくれた」


泣きたくないとき、泣きたいとき、大きな声で笑うとき。

ハナはわたしの側に居た。


『いつかきみが、笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣けたらって。そういう場所に辿り着けたら、そのときには俺、側に居るよ』


だからわたしもハナに言ったんだ。

わたしもハナの、側に居るって。

ハナ、きみは今、わたしに側に居てほしい?

思い過ごしだったり。自意識過剰だったり。

それならそれで別にいいんだ。ハナがひとりでいたいなら、それでわたしは構わない。


でもね、もしもきみがわたしに隣に居てほしいと心のどこかで思うなら。

わたしはいつだって、どこへだって、きみを探しに行こうと思うよ。


きみの手を握るために。



「ちょっと、もういっかい、出掛けてくる」


お母さんに背中を向ける。原付のキーを取って、置いていたカバンを掴んで。


「いってきます!」


家の玄関を飛び出した。


「いってらっしゃい」


聞こえた声は夕空に響く。

世界はオレンジに染まっている。


わたしは原付にキーを挿した。ペダルを蹴る。重たいエンジン音が鳴る。

メットをかぶってハンドルを握る。アクセルを、開いた。



遠くに行きたくて買った小さなバイクだ。

それでもどこにも行けなかった。

わたしを遠くに連れて行ってくれたのはきみだ。

このバイクは、きみのところへ連れて行ってくれる。


ハナ。


きみはまだそこに居てくれているかな。

不安で恐いよ。でもわたしも行くね。


もしもきみが今もそこで、たったひとりでいるのなら。

大切なことを考えて、涙を流せずにいるのなら。


今きっと、泣きたいときに泣けない場所に居るきみに。

大声で泣いて、心から笑って欲しいから。


わたしはきみの側に居る。

待っていて、ハナ。すぐに、行くからね。





公園に着いた頃、まだ空はオレンジ色だった。

入口に原付を止めて、さっきも通った場所を走って行く。


丘の下に人が立っていた。

見慣れた顔だった。

でもそれは、わたしが会いに来た人じゃない。


ハナの、お兄さん。


「お兄さん!」

「……セイちゃん?」


急いで駆けて行ったのは、様子が変だと思ったからだ。

ただ通りかかっただけにも、ときどきそうするみたいに気まぐれにハナを迎えに来たわけでもないみたいだった。


お兄さんは“何か”を、探している。


「どうしたんですか?」

「セイちゃん、ハナと一緒じゃなかったの?」


返ってきたのはわたしの問いへの返事じゃなかった。

でも、答えも同然の返事だ。


お兄さんが今、“何”を探しているのか。


ここには居ない、きみを。



「どうしたんですか。ハナはどこに? わたし、少し前までは一緒に居たんです」

「ハナ……あいつ……」


お兄さんの顔が歪んだ。

咄嗟に覆った瞳から、涙が落ちるのを、わたしは見た。

──胸が鳴る。不安な鼓動。


「部屋に、置いてあったんだ。ノートもアルバムも、そのまま。いつもふらふら出歩くけど、それを持って行かないことなんてなかったから、不安になって……あいつが行きそうなとこ探したけど、それでも」


どこにも、居ない。

ハナがどこにも。


「どこに……行ったんだよ。ハナ」


大切な、きみの記憶の証を置いて。

きみはどこかへ行ってしまった。

ついさっきまで一緒に居たのに、何も言わずに、きみはひとりで。


夢で見た光景を思い出す。おぼろげな景色だ。でも憶えている。

泣きそうな顔で笑いながら、暗闇の向こうへ行ってしまうきみ。

追いかけても追いつけない。ただ名前を呼ぶしかできなかったわたし。



「どうすればいい……! あいつが、戻ってこなかったら!!」


吐き出したのは、痛いくらいの思いだ。

顔を隠した指の隙間からは、いくつもの滴が零れている。

必死で我慢しようとして、でも抑えられなくて。きっとわたしよりも大きな不安を、ずっと、抱えている人。



「……ハナになにか、あったんですか?」


きみがときどき、わたしに言わない何かを、必死で考えている理由。それが何か関係している?

わたしにはわからなかった、きみが、泣きたくても泣けない理由。


『ねえセイちゃん』


今日、わたしに、きみが言いかけたこと。



「……ハナ、は」


お兄さんがゆっくりと、瞳をわたしに向けた。

まだ涙で濡れたそれは、きみと、よく似ていた。


「ハナの記憶量……どんどん、短くなってる」



息を止めた。

その一瞬だけが、言葉の持つ意味を理解するのにかかった時間だった。


記憶が短くなっている。

ハナに残っている思い出が、どんどん、消える速度を速めていく。


たった1日しかない記憶が、もう、たった1日すら残せなく。


「…………」


それは、一体、どこまで。

たとえば──


「……可能性は、確かにあって。うちの両親がずっと記録を付けてたんだ。主治医の先生とも一緒に検証をして、それで間違いなく、ここ数ヶ月で徐々に記憶される時間が減っているって判断された。おそらくこれから先も、もっと……」

「ハナはそれを、知っているんですか?」

「……知ってる。少し前の、まだ『もしかしたら』という段階から伝えてた。ちゃんと受け入れて、今日、確かになった結果を伝えても、わかったって、笑いながら、それだけを言ってたって」


騒いだり、喚いたり、悲嘆に暮れたりしなかった。

覚悟して、なすがままに、すべてを受け入れたように見えた。

でも。


「平気なわけがないんだ。苦しいに決まってる。何も言わないだけだ、人に心配かけたくなくて。あの馬鹿、本当に……!!」



いつから……いつからハナは、それを考えていた?

自分の記憶が、さらになくなっていくかもしれないこと。

あのノートに、大切な記憶のノートに書いていたに違いない。毎朝見て、知って、どれだけ、ひとりで、ハナは悩んできたんだろう。


『セイちゃんが俺に側に居て欲しいと思うとき、俺はいつでも、きみの側に居るよ』


わたしに心から笑ってくれていたときも。下を向いたわたしに手を差し伸べてくれたときも。光の見える場所へ、わたしを引っ張り上げてくれたときも。


『でもね、もしもきみが俺のことを嫌になったら、そのときは構わずに、離れていっていいからね』


きみはずっと考えていたの? 

ずっと、ずっと、ひどく苦しんでいる心で、だけどわたしの手を、離さず握っていてくれたの?


「……ハナ」



記憶がなくなるって、どういうことなのかな。


眠りに就いて、目が覚めて。毎朝、何ひとつ知らない世界に降り立つこと。

昨日までの自分がわからない。今の自分さえわからない。

世界に取り残される感覚。それがどれだけ辛くて恐いことか。


わたしたちには、きっといつまでだって理解できない。


想像もできないほどのことなんだ。

それをハナは、たったひとりで、小さな体で、必死に受け入れようとした。


きっと、心の奥に、とても暗い場所をつくって。いろんな思いをそこに沈めて。


きみの見る、何より美しい世界の裏側に、隠されていた深い暗闇。

星のない夜空のような。

何も見えない、真っ黒な世界。


ずっと、たった、ひとりで。


きみはそんな場所で、膝を抱えて泣けずにいたの。


「……セイちゃん」


お兄さんが、掠れた声で言う。


「ハナを、助けてあげて」


必死な叫びだった。

決して大きくはないのに、こんなにも強く響く祈り。


「ハナは……意識的にか無意識かは知らないけどね、事故に遭ってからはあんまり人と関わらなくなった。忘れちゃうのが恐くて、たくさんの人に囲まれてるのに、どっかでいつもひとりで居たんだ」



いつか、三浦さんが言っていたことを思い出す。


『いつもすごく楽しそうだったよ。でも反面、よく早退したり、休みがちでもあったみたいだけどね』


笑っている顔。

忘れたくなくて、見つけた景色を写真に撮る。

でも、忘れてしまう。

忘れたことすら忘れる、もう二度と、戻らない思い出。


「だけどたったひとつだけ。どうしてだろう。とても大切にしたものがあるんだ」


消えていくきみの記憶。

その中に残った、わたしの姿。


「セイちゃんだけなんだ。記憶がもたなくなってから、あいつが持った、大切なもの」



──きみは俺の宝物。

いつかの声が聞こえた気がして、知らず、唇を噛む。


「セイちゃん、俺からのお願い」


お兄さんは涙を拭った。

そして真っ直ぐにわたしを見つめて、もう震えはしない声で、もう一度言った。


「ハナを助けてあげて」




──ねえ。


きみは今、どこに居るんだろう。

どこに居て、何を思っているんだろう。


心の奥で、本当はわたしと同じに膝を抱えていたはずのきみは、それでもわたしに笑って、わたしに手を差し伸べてくれた。

ここに居ていいんだと、声高く言うきみの言葉が、わたしに空を見上げさせた。


だったらわたしは。

わたしはきみに、一体何ができるんだろう。

何をしてあげられるんだろう。


たった1日……それよりも短い記憶の中に。


わたしは、何を、残してあげられるんだろう。



「……できません。わたしには、ハナを、助けられない」


目を見開くお兄さんを、わたしは息を短く吸って見上げた。

視界にはいつもの丘と、楓の木。そしてオレンジと紺の混ざる、狭い不透明な空。


「わたしはハナを、助けてあげられるような人間じゃない。ハナの気持ちにも気付けなかったし、今だって、何をすればハナが心から笑ってくれるのかもわからない」


きみは簡単に、わたしの心を正直にしてくれたのに。

わたしにはそれがどんなことより難しい。


優しい人であれたらいいけど、わたしはいつも結局自分勝手だし。

きみに笑って欲しいのは、きみが笑ってくれたらわたしが嬉しいからで。

そのうえいつだってその方法を探してあたふたしているだけで、きみがわたしの知らないところで抱えていたものにすら気づかない。


こんなわたしのこと、きみは笑う?

馬鹿にされても、笑ってくれるならそれでいいけど。でも、ハナ、きみはそんな風に、わたしを笑ったりはしないんだよね。

笑い者にすらなれないわたしは、ほんとに何をしたらいいかわかんないよ。


だけど、だけどね。

ひとつだけ決めてたことがある。


「それでもわたし、側に居る。ハナが泣きたくても泣けないときは側に居るって、それから、笑いたいときに笑って、泣きたいときに泣けるようになったときも、わたしはハナの側に居るって。決めてたんです」


きっと、わたしはまだ暗闇を照らす光にはなれない。

だけどその代わりに、きみがしてくれたように、光が見える場所へ、暗いところに沈んだきみを引っ張り上げてあげるから。


上を向いてと。

確かにあると。


真っ暗だと思ったそこには、小さな星が浮かんでいると。


教えてあげるために。


きみがわたしに教えてくれたように。

今度はわたしが、暗闇の中うつむくきみへ。



「わたし、行きますね」


足を踏み出して通り過ぎたわたしを、お兄さんは追いかけて来なかった。

きっと振り向きもしなかった。

誰よりも今すぐ走り出したいはずの人は、それでも。わたしに言葉だけを預けて。


「ハナを、よろしくね」


背中越しに声だけを聞いた。

振り向かずに、わたしは真っ直ぐに、自分の行きたいところへ走った。




きみが居る場所が、わかっていたわけじゃない。


ただ、なんとなく、そこに居るんだろうと思っていた。


公園の小さな裏口から続く、丘陵に沿った真っ直ぐな階段。

住宅の隙間を縫ってところどころうねうねと曲がるそれは、どこでもない場所へと繋がっている。


いくつもの段をのぼったその先。

階段の終点の、近所の猫の昼寝スポット。

いつか見つけた場所だ。ここからの景色を見て、わたしたちは揃って言葉を失ったっけ。

とても綺麗な景色だった。でも今でも何より鮮やかに思い出すのは、ここから見える景色の中で笑う、きみの顔。


ここは、わたしときみの、秘密の場所。



「ハナ」




小さな声で、呼んでみた。

膝に置かれていた頭が、そっと持ち上がる。



「……セイちゃん?」

「こんにちは」

「なんで……ここに居るの」


ハナは随分驚いた顔をしていた。

わたしはハナの場所より数段下で、見上げる形で立っている。


「ハナこそ、なんでこんなところに居るわけ」

「……わかんない。ここ、どこだろ。セイちゃんは知ってる?」

「知ってる。教えないけど」

「あは、なにそれ」

「秘密の場所だもん」


ハナは笑顔だった。でも笑ってなんかいなかった。

少し風が吹いて、きみの髪が揺れる。

綺麗なそれを、わたしは見ている。