「―――…おっとすんません。って、秋本じゃねえか。何してるんだ、こんなところで」
夕月夜。
近所を歩いていた秋本は、曲がり角で偶然にも同級生にぶつかりそうになる。
危うく自転車に轢かれそうになったが、相手が咄嗟の判断でブレーキを掛けてくれたために大事には至らなかった。
「危ないじゃない」
事故を起こしそうになった同級生の遠藤に毒づく。
事故を起こしたら完全に非は自転車にある、とお小言を垂れてみせる。
悪びれた様子もなく、ハイハイと聞き流す遠藤は何しているのだと質問を飛ばしてきた。
その様子だと家に帰ってないんじゃないか、遠藤の指摘に秋本は決まり悪く顔を顰める。
錆が目立つハンドルに肘を置く遠藤を流し目にし、「多分あんたと一緒」素っ気無く返事した。
間を置いて、「そっか」遠藤は泣き笑いを浮かべる。
訪れる沈黙。
それが嫌で、秋本はそこまで一緒に歩かないかと誘った。
気分的に人と会話したかったのだ。
乗ってくれる遠藤はわざわざチャリから降りて、自分と歩調を合わせてくれた。
「何処に行く予定だったんだ?」「気の向くままよ」「なんじゃそりゃ」「あんたこそ予定は?」「んー気分のまま」「一緒じゃない」
簡単な会話を交わして歩道を歩く。
車道を荒々しく過ぎ去るトラックを脇目に、遠藤は苦し紛れに笑って呟いた。
「何処に行ったんだろうな」と。
それが分からないから警察も手を焼いているのだと返す秋本も、表情は彼と同じだった。
本当に何処へ行ってしまったのだろうか、今話題の生徒は。
近々ニュースに出るかもしれない。
遠藤の言葉に胸が重たくなる。最悪な事態になっていなければいいのだが。
二人は弾まない会話もそこそこに商店街を通り抜け、小学生に定評の駄菓子屋を横切り、墓地の側の沼地を過ぎた。
重い足取りで、住宅街から外れた神社前の石段に辿り着く。
どちらが先に上ろうと言ったわけではないが、遠藤は邪魔にならないよう石段脇に自転車を止めた。
しっかりと鍵を掛けると待っている秋本と共に石段を上る。
本当に何気ない気持ちでそこに入ったのだ。
それ以上も以下もない。
けれど石段を上り切った二人に待っていたのは、驚きの光景。
静まり返っている物寂しい神社を見渡していた二人は、ご神木に視線を向け、目を瞠ってしまう。
ざわざわっとご神木が葉を擦らせて手招き。
急激に失われる口内に唾を送り、顔を見合わせ、夢現をお互い問い掛ける。
ご神木下で眠っている、いや倒れている少年。
あれは夢? 現実? この際、どちらでも良い。
とにかく今、自分達がやらなければいけないのはっ。
「坂本っ、坂本―――!」
失踪事件を起こしている親友の名を口にし、遠藤は駆けながらグシャグシャと顔を皺くちゃにした。
声さえ出ない秋本も涙ぐんで、遠藤と共に駆ける。駆ける。風と共に駆ける。
1996年某月某日の木曜。
約1ヶ月前に失踪した少年・坂本健は、地元の神社で発見される。
同級生達の通報によって彼は無事に保護されたのだった。
⇒Epilogue
神様はどうして1ヶ月後という世界に戻してくれたんだろう?
どうして失踪の日に戻さなかったんだろう?
あの日々を、1ヶ月という月日を忘れないで欲しいって事なんだろうか?
そんなことしなくても大丈夫なのに。
だって俺は2011年で教えてもらったことは絶対に忘れない。
俺が戻ったことで消えてしまった未来だったとしても、アラサー達のこと、2011年の同級生のこと、あの日々のこと、絶対に忘れない。
* * *
「健。今日のお昼ご飯どうしようか…って、いいのに、そんなことしなくても」
居間でテレビを観ながら洗濯物を畳んでいた俺は、母さんに声を掛けられて作業の手を止める。
「いいよ」暇だったし、綻ぶ俺に微苦笑する母さん。
そっと隣に座ってきた。
手早くタオルを畳んで、次の洗濯物に手を伸ばす俺は昼食の質問に唸り声を上げる。
何が食べたいだろう、気分的にはめん類かもしれない。
だけど昨日の昼はやきそばだったしなぁ。
答えが出ない俺は何でも良いと返答する。「じゃあラーメンでいい?」母さんの問い掛けに頷いた。
さてと昼食を食べ終わったら、勉強しないとな。
うーん、今、何処を授業してるんだろう。
追いつけるかなぁ。一応受験生なんだけど。
お昼過ぎから参考書でも買いに行こうかな…。
肩を落とす俺は、母さんに本屋に行って良いかと尋ねる。
まだ駄目だと即答されてしまった。
えー、まだ駄目なのか。もう随分家に閉じこもっているんだけど。
やっぱ失踪事件ってデッカイ事件なんだな。
苦虫を噛み潰すような表情で俺は呻いた。
1ヶ月前に失踪事件を起こした、俺、坂本健が発見されて早2週間が経つ。
発見されたその日、俺の身柄は一時病院に預けられた。
そこで家族と対面したんだけど、父さん母さんから大泣きされ、兄貴から何処に行っていたんだと怒られ、家族の心配を一身に浴びた。
俺はどうしようもなくて始終流れに身を委ねていた。
気を落ち着けるために一日、病院で休養を取った後、俺は医師や警察から何処にいたんだと事情聴取を受ける。
俺はよく憶えていないと返した。
他に答えられなかったんだ。失踪した日は神社にいて、そこで時間を潰していた。
そこまでは憶えているのだけれど、後の事は…、と言葉を濁すしかなかった。
何時間も質問に対して同じ事を繰り返す、嘘偽りのない俺の態度を真摯に受け止めた医師は、大人達にこう耳打ち。
精神的ショックから一時的に記憶障害を起こしている可能性がある、と。
もしかしたら何か大きな恐怖、不安、衝撃に襲われたのかもしれない。
だから無闇に刺激しない方が良い。
そう医師が診断を下したため、俺への質問もじょじょに数が減っていった。
尤も、俺の前でそんな判断は下していない。
身内や警察にこっそりと告げていた。
じゃあ何で俺がそのことを知っているか。
病室で狸寝入りしている際、看護師の話を偶然にも聞いてしまったからだ。
おかげさまで身内も殆ど質問はしてこない。
ただ時折、目で質問をしてくるけれど俺自身答えられそうにないや。
だって言えるか?
実は2011年という未来に行っていました、なんて。
それこそ身内を不安に貶めるだけだろうから、俺は甘んじて医師の診断を受けることにした。
こうして俺は無事に家に帰れることになったんだけど、此処暫く家に引き篭もっている。
学校に行きたいけど、まだ両親が許してくれなさそうだ。
現実って厳しいな。
この調子じゃ学校に行くのも一苦労するだろう。
教室に馴染める時間も要しそうだし。
これも多くの人を傷付け、心配掛けさせた罰なのかもしれないな。
許可も下りないまま、俺は母さんと昼食を取り、平日の午後を過ごす。
何をしていたかというと、専ら部屋で勉強だ。
学校で授業を受けているであろう、同級生達に追いつくために。
んー、それにしても未だに俺は1996年の世界に戻って来たという実感が湧かない。
確かに父さんの持っている通信器具はPHSだし、我が家にあるテレビはブラウン管だし、スマートフォンなんて単語、テレビではちっとも聞かないけど。
それにしても実感が湧かない。俺が今1996年の空気を吸って、この世界で生きているなんて。
だけど俺は確かに2011年にいた。いたんだ。
引き出しを開ける。
中から取り出したのはあの時、彼女に買ってもらったキャップ帽と、仲直りした際に返してもらったCD。
キャップ帽も当然なんだけど、驚くことに遠藤から返してもらったCDも俺の手元にある。
2011年の遠藤から返してもらったCDが此処にあるということは、1996年の遠藤の手元にあるであろうCDはどうなるんだろうな。
よくわっかんねぇけど、これも2011年を忘れないでくれってメッセージなのかもしれない。
俺は宝物としてそれらを大事に引き出しに仕舞う。
数学の教科書と睨めっこしていると、「おい」の声と共に襖が開かれた。
足で襖を開けてくるのは兄貴だ。
学校から帰って来たらしい。
失踪前の俺なら勝手に上がってくる兄貴に文句を言うだろうけど、今の俺は「なに」返事を返すだけ。
なんか一々文句を言っていた自分が馬鹿らしく思えたんだ。
制服姿のまま部屋に入ってくる兄貴にお帰りと目尻を下げ、何か用かと相手に質問する。
物言いたげな表情を作る兄貴は、「また勉強してるのか」素っ気無く毒づいてきた。
「だって俺、このままじゃ受験もできないだろうからさ。元々成績も良くなかったし…、成績が上がれば母さん達も安心だろ?」
すると兄貴は不機嫌面を作って、「いいんだよ。あいつ等は」わざとらしく鼻を鳴らした。
親失格だとふてぶてしく吐き捨てる兄貴は、どっかりと俺のベッドに腰掛けた。
……兄貴、親と仲が悪くなってるんだよな。
此処暫く俺としか喋っていないし。
なんで仲が悪くなっているのか、兄貴は語らないけど俺は知っている。
「なあ兄貴。参考書を貸してくれよ」
話題を切り替える。
本屋へ買いに行きたいけど、外に出れそうにないから兄貴のを貸して欲しい。
俺の申し出にあっさり承諾してくれる兄貴は、ついでに勉強を見てくれると言った。
「サンキュ」俺は椅子ごと兄貴の方を向いてお礼を口にする。
仏頂面を作る兄貴は、「それより健」ゲームしようぜ、と誘ってきた。
ゲーム…、そういや此処暫くしていないな。1ヶ月はしていない筈。
「対戦相手がいなくてツマンねぇんだよ。おら、行くぞ」
有無言わせず、ベッドから下りた兄貴は俺からノートや教科書を引っ手繰って閉じてしまう。
そのまま兄貴の部屋に拉致られてゲーム開始(兄貴の部屋にはゲーム用のちっちゃなテレビがある)。
普段だったら殆どさせてくれない格ゲーをさせてくれた。
兄貴なりの気遣いだって事は容易に察する。
ちっとも対戦じゃあ勝たせてくれなかったけど、それなりにゲームを触らせてくれた。
それが嬉しくって夢中で兄貴とゲームで遊んでいると、一階から母さんに呼ばれた。
どうやら夕飯の時間らしい。
あ、やっべ、夕飯の手伝いしてねぇや。
今日の昼、手伝うって約束したのに。
返事をして兄貴と一階に下りる。
すこぶる不機嫌の兄貴だけど、なんだかんだで家事の手伝いはするようだ。
食器を出して、人数分の皿を並べている。
母さんから父さんも、もう帰宅すると告げられたから四人分、長テーブルに並べられた。
今日は俺の好きな豚しゃぶだ。俺、豚料理大好きなんだよな。
ご機嫌で夕飯の仕度をしていると、父さんが帰宅してくる。
「お帰り」廊下に顔を出して挨拶すると、「ああ」短い返事が聞こえた。
母さんが出迎えている光景に、俺は微笑する。
二人とも、全然喧嘩しなくなったな。
契機が契機だから、申し訳ない気持ちになるけど、あの光景には心が軽くなる。
兄貴にこっそり喧嘩していないことを耳打ちすると、「単純なんだよ」ぶっきら棒に言い放った。
あの事件で絆を深めるなんて単純だと皮肉っている。
で、ちょい決まり悪そうに俺を見て、「悪い」今のは忘れてくれと謝罪。
こういう態度を取られると俺自身も申し訳ない気持ちになる。
「んーんー。気にしてないって。俺、皆に迷惑掛けたってのは自覚あるしさ。父さん、母さん、すっごく心配してくれていたみたいだし」
意味深に眉根を寄せる兄貴に、「兄貴もごめんな」心配掛けてごめん、そしてありがとうを伝えた。