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  少年、失踪
 
 
 
 



 

1996年、某月某日の月曜。快晴。
 
 
初夏に入る手前の穏やかな気候は、今日も過ごしやすい一日になることを教えてくれる。

暖かな朝日は教室を照らし、吹き込む微風は限りなく柔らかい。

朝特有の澄み切った冷たい空気が肺を通してリラックスさせた。
 


なのにそれらを霧散させる教室の重々しい空気。



秋本 桃香(あきもと ももか)は沈鬱な面持ちで語り部に立つ担任の言葉が信じられずにいた。


努めて平坦な声音で自分達クラスメートに詳細を語ってくれるが、半分以上右から左に受け流してしまう。
 


なんで、どうして、混乱が混乱を呼び、彼女は大混乱に陥っていた。


口内の水分が急速に失われていくのをひしひし感じながら、呼吸さえ忘れて、零れんばかりに瞠目。
 



ガタン―。


向こうで荒々しく席を立ったのはクラスメートのひとり。

遠藤 学(えんどう まなぶ)、クラスの中心的存在である。
見るからにスポーツ系の体躯と、それに並行した取り巻く空気を持っていた。

 
  
「坂本が行方不明っ…、嘘だろ。山口、嘘だろ!」

 
  


山口と呼ばれた男の教諭は、軽く眉根をハの字に下げた。


嘘ではないと言わんばかりの表情で山口は遠藤に座るよう、そして落ち着くよう促す。




「今、警察が動いているから、大丈夫。すぐに見つかるさ」
 


陳腐でありきたりな言の葉で生徒を宥めようとするものの、遠藤は激しく動揺を見せた。




「マジかよ。嘘だろ、坂本」




坂本が行方不明だなんて、まさか本当に消えちまったんじゃないだろうな。


消えそうな声で独り言を紡ぎ、彼はようやく弱々しい動作で腰を下ろす。

 

行方不明になっているクラスメートの名前は坂本 健(さかもと たける)。
 

先週の金曜の夜から土日を挟んで行方不明になっている。

警察は事件性の可能性は低く、家出の可能性が強いのではないかと見て捜索していた。
 


最初こそ、大人の誰もが思っていた。

中3の少年はすぐに見つかるのだと、思春期にありがちな反発心からの家出なのだと。




しかし坂本 健は三日、四日、一週間、二週間経っても見つからず。


事件に巻き込まれた可能性が極めて高いと捜索の方向性を切り換え、マスコミを通して少年の行方を探し、情報提供を求めた。
 

そうしている間にも月日は流れ、中3だった彼の同級生達は卒業式を迎え、各々の進路を歩み始める。


同級生達が高校から大学、就職、成人式を迎えても彼の姿どころか一握りの情報すら集まらなかった。


いつしか坂本 健は時の人となり、一部では故人扱いになっていた。



神隠しにあったのではないかとマスコミが持ち上げに持ち上げたこの失踪事件は未解決のまま、時だけが刻一刻と流れた。




2011年、某月某日。月曜の晴天。
 

 
「秋本先生。またお見合いの話、断ったらしいですね? いいんですかー、もう三十路を迎えたのに」

 
 
おどけ口調で同僚の富窪 朋美(とみくぼ ともみ)に声を掛けられ、

「世間は晩婚化してますから」

秋本は微苦笑で返す。


秋本 桃香は今年で三十路を迎えた極々平々凡々な中学の教諭だった。


教師としてはまだまだ若手だが、生徒達の目線に立って物事を見、話すことができる教師だと生徒からはわりかし人気を得ている。
 
この度、教頭の勧めにより見合い話を持ち込まれたのだが、秋本は丁重にお断りした。

それなりに恋愛は重ねてきたものの、まだ身を固める気分ではない。

気持ち的にも自由の身でありたいと願っている。




それが断った大きな理由だった。
 


親からは身を固めろと煩いが、自分の人生だ。好き勝手させて欲しい。

富窪から「またお誘いがあったら自分に回して下さいね」、と揶揄される。



オーケーオーケー。

せいぜい回してやろうではないか、秋本は悪戯っぽく笑い快諾した。



「ほんと駄目なんですよね。私、恋愛になると足が遠退いちゃって。そんな私が見合いなんて、無謀にもほどがありますよ。相手にも失礼ですし」

「先生の恋愛話を聞く限り、そう長続きはしていませんよね。大体1年で終わるって聞きましたし」
 


恋愛に対して淡白なんですか?


富窪の疑念に、三拍ほど間を置いて肩を竦める。


「中学までは恋愛にがっついていた筈なんだけどね」


どうしてこんな大人になってしまったんだろうと秋本は軽く瞼を伏せた。




片隅で分かっている、自分は“あの頃”の恋愛を引き摺っているのだと。

  
思い出したくない封した記憶の蓋を開けてみる。

そこから溢れ出るものは一生懸命自分に好きだと告白してくれた、少年の姿。
 

いつも鬱陶しいとあしらい、好意に対してそっぽを向き、片意地を張っていたあの頃。
 

まさかその少年が行方を晦ますなんて思っても、思っても。




嗚呼、こんなことになることならば、好きと告げられた時、素直に好きと返せば良かった。



後悔先に立たず、だ。




 
「秋本先生?」


ダンマリになる自分を不可解に思ったのだろう。
 

何か悪い事を聞きましたか? 配慮ある台詞を頂戴する。

首を横に振り、秋本は事務机に積み重なった生徒のノートを手に取りながら、

「枯れたんですよ。きっと」

自分の恋愛絶頂期は中学だったのだと微笑で誤魔化した。
 

過去の人にしたくはない。

けれど彼は行方を晦ましてしまった、過去の人。
 

待てど暮らせど現れない少年に、いつまでも思い焦がれているわけにはいかない。
 
 
―――…そう強要され、強く思わされるのだから、月日とは残酷だ。
 
 
哀切に時間を呪わざるを得ない秋本だった。