あの夏を生きた君へ






暑さも手伝って最高潮にイライラしているあたしは、悠を無視して通り過ぎた。



「ちづ!」


そう呼び止める悠に、本気でムカつく。

振り返って睨みつけてやると、悠は困ったように頭を掻いている。



「…ゴメン。」


「何が?」


「いや…だからさ…。」



何なの?コイツ。

「マジウザイし。」



再び背を向けて歩きだそうとすると、悠はやっと口を開いた。


「二学期から学校来るよな!?」


「はぁ?」


「…あんなのさ、気にすんなよ。事故みたいなもんだし。…俺も気にしてねぇから。」


「あんなのって?」


「いや…だから……キス。」



歯切れの悪い言葉と一緒に頬を染める悠を見て殴り飛ばしてやりたくなった。



ふつふつと込み上げる怒りを煽るように、ジリジリと蝉が鳴いている。









「せっかく同じクラスなんだし、また色々言われたら俺が何とかするから。
だから、とにかく学校来いって。」


「余計なお世話なんだけど。」


ボソッと呟くと、悠は驚いたような顔であたしを見た。


「あたしがどうしようと成海には関係ないじゃん。
あと、“ちづ”って止めてくれる?超気持ち悪い。」


「何で、そんなこと言うんだよ?」


怒っているような口調で悠は言った。

傷ついた、みたいな顔をするから、あたしは反吐が出るほど腹が立った。



「キモいからキモいって言って何が悪いの!?何とかしてとか頼んでねぇし、寧ろあたしに関わんないでくれる?」


「俺ら幼なじみだろ!?」


「だから何!?あーもー本当死にたい!
いつまでもバカみたいに幼なじみ、幼なじみって頭可笑しいんじゃないの!?
アンタなんかと関わってると、こっちはロクなことねぇんだよ!!」





あたしは、そのまま悠に背を向けて駆けだした。




ムカついて、ムカついて、どうしようもない。


道端に捨てられたジュースの空き缶を蹴りあげる。

空き缶はバカみたいな音を立てて転がると、花壇の植え込みの中へ吸い込まれていった。












悠は昔からそうだった。


お節介で、口煩くて、クソ真面目。

まるで、親みたいに。


あたしは、そんな悠がウザったくてしょうがない。



ちょっと頭が良いからって学級委員とか、
周りが悠に抱いている“しっかり者の優等生”っていうイメージだとか、本当鼻につく。

昔は、「ハルカちゃん」、「女みたい!」ってからかわれてビービー泣いて人の後ろに隠れてたクセに!
いい気になっちゃってさ。




気の遠くなるような暑さの中、ただただアスファルトの地面に目を向けて歩いた。


けれど、太陽の熱を受けた地面からの照り返しやダラダラと流れる汗が、容赦なくあたしの心を折っていく。



「…マジ最悪。」





親も、真理子ちゃんも、悠も、どうして放っておいてくれないんだろう。

ありがた迷惑とは、まさにこのことだ。



「あー死ね。つか、死にたい。」


もう、最近じゃ口癖のようになってしまった言葉だ。




人生に夢も希望もない。

生きてることは疲れるし、楽しくないし。



死んだら楽になれんのかな?


でも、きっと今よりはマシだろうなぁ。

あぁ、楽になりたいなぁ。




いつからだったか、漠然とした死への憧れが芽生え始めてから、あたしはそんなことばかり考えている。














ばあちゃんの家は、団地からそう遠くはない。


家々が密集するように立ち並ぶ下町にあって、細い道が複雑に入り組んだ一角にある。



年季が入った木造の平屋で、あたしのお母さんはそこで生まれ育った。



あたしが生まれてすぐにじいちゃんは死んだから、それ以来ばあちゃんはずっと一人暮らし。

一人で住むには、デカすぎる家かもしれない。




そういえば、ばあちゃんに会うのは久しぶりだ。


親が共働きだから、昔は毎日のようにばあちゃんの所で夕飯を食べて、ばあちゃんと一緒に眠っていた。



でも、中学生になると、あたしも色々忙しくて毎日が大変で、一人でカップラーメンを啜るような夕飯にも慣れてしまった。





外から眺めるばあちゃんの家は、そのせいかなんだか懐かしい気がした。






















【裏切り者】

















玄関の引き戸を開けると、ばあちゃんの家の匂いがした。



「ばあちゃーん。」


サンダルを脱いで上がっていく。

ボーン、ボーンと鳴る壁に掛かった振り子時計が丁度3時を知らせていた。


「ばあちゃん?」



台所、居間と見ていくが、ばあちゃんの姿はない。




その時、涼しげな風鈴の音が聞こえた。




あたしは、その音に誘われるようにして、長く真っすぐな廊下を歩いた。


半開きになっている襖を見つけて覗いてみると、チリンチリンという風鈴の音と共に、ふわりと心地良い風を感じた。


その部屋は六畳の和室が三つ、襖で仕切れるようになって横に繋がった広い部屋だ。

かつては、じいちゃんとばあちゃん、あたしのお母さんを含めた五人姉妹の七人家族が布団を敷いて寝ていたのだろう。











キョロキョロと見渡していると、縁側にばあちゃんが座っていた。


開け放った窓から風が吹き込み、風鈴が鳴る。



ばあちゃんは背筋をピンと伸ばして座り、煙草を吸っていた。
座る時、ばあちゃんは昔から姿勢が良い。



「ばあちゃん。」


声をかけると、ばあちゃんはゆっくりと振り返った。


「あら、ちづ。」

真っ白な髪が風に揺れて、細い目を更に細めて笑った。


「お母さんから、からあげだって。」


「あらあら恵から?悪いねぇ。」


マイペースなばあちゃんは独特のゆったりとした調子で言った。



あたしは、ばあちゃんの隣に腰を下ろす。



縁側から見えるのは、小さな庭。

右側には、ばあちゃんが作っている家庭菜園があって、左側には赤やピンク、白い花が咲き誇る。

花のどれかは酔ってしまいそうになるほどの強い匂いを放っていて、二匹の蜂が周囲をぐるぐると飛んでいた。













「また少し背が伸びたかい?」


「うーん、分かんない。」


そう答えると、
「ちづは健やかだねぇ。」
と、言って笑うばあちゃん。

ふふふっと可愛らしく笑う。


「健やかだねぇ」というのは、ばあちゃんの口癖だ。

でも、あたしは「健やかだねぇ」の意味が、いまいちよく分からないのだった。




「今日、夕飯食べてくよ。」


「はぁい。」


ばあちゃんは間延びした返事をしながら、しわしわの手で煙草を吸った。

もう80だというのにヘビースモーカーなばあちゃんを、あたしは気に入っている。



「そうだ、スイカでも切ってこようね。」


そう言って、ばあちゃんは銀色の灰皿の中で煙草を消して、立ち上がった。


腰が曲がっているせいか背が小さいばあちゃんだけど、歩く時はしゃかしゃかと歩く。

ばあちゃんは、ゆったりおっとりしてるのに意外とすばしこいのだ。




お母さんが変なことを言ってたから実は少し心配したけど、元気そうだったからホッとした。




切ってきてくれたスイカはよく冷えていて甘かった。

暑くて喉がカラカラだったから、あたしはスイカの美味しさに妙に感激してしまった。


ばあちゃんは、そんなあたしを見て嬉しそうに笑う。

あたしがよく食べて、よく眠って、よく遊ぶと、
ばあちゃんは嬉しいらしい。










ふわっと、また風が吹いて、ばあちゃんの真っ白な髪が流される。


量の少ない前髪が風で踊ると、ばあちゃんの広い額が露になった。



すると、肌の色より薄くなって浮かび上がっている傷痕が丸見えになる。




もう、いつのことだかも覚えてないけど何気なく聞いたら、ばあちゃんはそっと傷痕に触れながら、
「若い時の傷さ」と言って遠い目をしていた。

“若い時”とやらを思い出していたのかもしれない。