「ゴメン!!俺のせいだ!!」
「煩いっ!!」
「あんなことになって!俺のせいだ!!」
煩い、煩い、煩い!
掴まれていた手を、あたしは無理やり振り払った。
「じゃあ死ねよっ!テメェなんか今すぐ死ねっ!!」
言った瞬間、悠は悲しそうな目をした。
それさえも腹が立った。
そんな目であたしを見るな。
そんな顔してんじゃねぇよ。
走りだしたあたしを、悠はもう追いかけてこない。
死んじゃえ。
死ね。
死にたい。
狂ったみたいに心が叫んでる。
窮屈だった。逃げ出したかった。
こんな場所で生きていたくなんかなかった。
苦しくて、苦しいことばっかりで。
辛いことばっかり、嫌なことばっかり。
あたしは上履きのままであることにも気づかずに、今にも泣きだしそうな空の下を走った。
そして、その日を境に、
あたしは学校へ行かなくなった――…。
【なつやすみ】
グワァン、グワァンと今にも壊れそうな音を立てて回る扇風機を、ぼんやりと見つめていた。
夏は嫌いだ。
暑い、ただそれだけでイライラする。
蝉の大合唱も煩い。
畳の上にゴロゴロと転がっているだけでまとわりつく汗もウザイ。
「ちづ!退いて!」
ただでさえ虫の居所が悪いのに、お母さんのかける掃除機があたしの背中に追突した。
「そのままひいていいよ。」
「バカ言ってんじゃないの!邪魔だからダラダラしてないで!」
「あーもう煩い!」
あたしはチッと舌打ちをして重い身体を起こした。
「アンタ、夏休みの宿題どうなってんの?」
「知らないし。」
「知らないしって…。」
お母さんは呆れたとでも言いたげな顔をしている。
わざわざ掃除機のスイッチを切ってまで、強い口調で言った。
「学校は行かない、勉強はしない、そんなんでいいと思ってんの!?」
「煩いなぁ。」
「大木先生だって何度も電話してきてくださってるのに。
何か嫌なことがあるんだったら学校に行きたくない理由をハッキリ言いなさい!じゃなきゃ、こっちだって何にも出来ないでしょ!?」
学校へ行かなくなった日から夏休みまでの約1ヶ月、
あたしは一日も学校へ行かず、そのまま夏休みを迎えている。
心配性のお母さんはガミガミ煩いし、頑固なお父さんも怒りだす。
生徒から“真理子ちゃん”と呼ばれるオバさんの担任・大木先生からの電話も毎日のようにかかってきた。
「何かしてくれなんて言ってないじゃん!放っといてよ!」
最近じゃ、顔を合わせるたびお母さんはこんな調子だ。
「放っとけるわけないでしょ!一人娘が不登校になってんのに!」
あー煩い、煩い。
「黙れよ!クソババァ!」
「本当この子は口ばっかり達者になって!外でもそうならいいのに内弁慶なんだから!」
終わらない言い合いにうんざりしてくる。
本当ヤダ。
ガンッと壁を蹴ると、
「物に当たるんじゃない!」
と、お母さんの怒鳴り声が飛んでくる。
「壁薄いんだから、お隣に怒られるでしょ!」と、ぶつぶつ言った。
そんなこと、あたしには関係ない。
あたしが怒られるわけじゃないし。知らねぇよ、クソババァ。
「アンタ、暇ならばあちゃんのとこ行ってきて。」
「はっ?」
「ばあちゃんが好きなからあげ買ったのよ。届けてきて。」
「はぁ!?ヤダ!外暑いじゃん!」
そう言うと、お母さんは掃除機を再開しながらため息を吐く。
「まったくアンタは文句ばっかり!
今日はばあちゃんとこでそのまま夕飯食ってきなって言ってんの!お母さん、今日パートで遅くなるし、お父さんも遅くなるって言ってたから。」
何が遅くなるだ。
お父さんなんか、どうせベロベロに酔っ払って帰ってくるに決まってる。
「…それに、最近ばあちゃんボーッとしてることが多いのよ。歳だしねぇ…。
ちづが行けば喜ぶでしょ。」
「ボーッとしてる?そう?夏バテじゃん?」
お母さんは、
「だと良いんだけどねぇ。」
と、呟いた。
あたしは自分の部屋で着替えると、言われたとおりからあげを持ってサンダルを履く。
外の暑さを想像すると気が滅入るから、もう考えないようにした。
出かけようとするあたしをお母さんが呼び止める。
「暑いから被っていきな。」
と言って、お母さんはあたしに水色の帽子を被せた。
つい今、暑さを考えないようにしたところなのに“暑いから”とかウザイ。
苛立ちがまた燃え上がって、あたしは吐きすてるように言った。
「ダサッ!」
頭にのった帽子を床に叩きつけて、お母さんの顔も見ずに家を飛び出した。
外に出た途端、温ついた空気が肌に触れて顔をしかめる。
コンクリートの階段を降りていくと、踊り場の所で蛾が死んでいた。
この陰気で古臭い団地では見慣れた光景だ。
夜になると、ぶら下がっている裸電球に虫が寄ってくる。
その内の何匹かは、翌日になるとそのままここで死んでいるのだ。
あたしは足を止めることなく、グロい亡骸の横を通り過ぎた。
桐谷家のような貧乏一家にはお似合いのボロ団地は7階建て。
その5階から1階までの階段ときたら降りるのも上るのも面倒くさい。
エレベーターなんて気の利いたものは、ここにはない。
やっとの思いで昼間だというのに薄暗い階段から地上に降り立った。
そうすると、強い日差しが頭上から降り注ぐ。
空は青一色で、風はない。
僅かばかりの気力と体力を一瞬のうちに奪っていく。
やっぱり帽子を被ってくればよかった、と心の内で後悔したけどもう遅い。
出来るだけ木陰を探して歩いた。
それでも、額や首に汗が浮かんだ。
団地の棟と棟の間を擦り抜けて、ブランコ、滑り台、朽ちて頼りないベンチしかない小さな公園を横切っていく。
そこで、こちらに向かって歩いてくる悠とばったり会ってしまった。
どうやら、悠は部活帰りらしい。
サッカー部のユニホームを着たままだった。
あの日以来、会うことも話すこともなかった。
同じ団地の、同じ棟の、あたしは5階、悠はすぐ下の4階に住んでいるというのに。
気まずいから会いたくなかったのだ。
でも、世話焼きな悠は、あたしが学校に行かなくなってからプリントや授業のノートを届けてくれた。
悠の応対をするのはお母さんで、あたしはいつも部屋に閉じこもって聞き耳を立てていた。
悠が、余計なことを言わないかどうか心配だったのだ。
プリントやノートを届けてくれることへの感謝、申し訳ないという気持ちよりも、
先にくるのは自分の保身。