あの夏を生きた君へ











明日、幸生くんたち家族はこの町を出ていきます。


今夜は、この町で過ごす最後の夜でした。






私は、布団の中で目を閉じていました。




いつか、また会えた時。


口には出来ないけれど、いつか戦争が終わったら。



二人で宝物を探すのです。

それを想像すると、今から楽しみです。





そして、その頃にはきっと、私の心にある温かい気持ちの正体も分かることでしょう。


幸生くんを見ていると楽しいのに苦しくて、嬉しいのに切なくなる、
この不思議な気持ちの正体を知りたかったのです。
























私は、約束の日を夢見ていました。










でも、二人が交わした約束は、
果たされることのない約束だったのです。





私と幸生くんの、

本当の別れは、

突然やってきました。





















それは、午前二時を過ぎた頃だったでしょうか。

今夜も空襲警報が鳴りました。



私はその怪音で目を覚ますと、ぼんやりとした頭に慌てて防空頭巾(※中に綿を詰めて作った布製の頭巾)を被ります。


「明子!いつもと違うの!急いで!」

血相を変えた母に急かされながら、二人で家を飛び出しました。




外に出て私の目に映ったのは、真っ赤な炎の海でした。


逃げ惑う人々、黒煙が上がり、空にはB29(※重爆撃機、大量の爆弾を搭載して長距離を飛べた)の群れが飛んでいます。

ついに、この町にも…焼夷弾(※小型爆弾、高熱で燃焼し広い範囲を焼いて破壊する)が落とされたのです。



手の平に嫌な汗をかいている私の手を、母がぎゅっと握ります。


私たちは防空壕まで必死の思いで走りました。




私は、悪い夢を見ているような気分でした。


現実でなく、これが本当に夢だったならどんなに良かったことか。





真夜中だというのに、空も、地上も、不気味なほど赤いのです。



『死』の恐怖、それをひしひしと感じました。












防空壕に辿り着くと、中にはすでに近所の人たちや幸生くんたち家族の顔がありました。


「明子!」


「幸生くん!」




私と幸生くんは、
まだ眠いのか、しきりに目を擦る小夜子ちゃんを真ん中にして肩を寄せ合いました。

蒸し風呂状態の防空壕の中に、縮こまって座ります。



こんな時にお兄ちゃんがいてくれたら、どれほど心強いことでしょう。


外では凄まじい叫び声と爆撃音が続いています。




本当に…本当に日本は勝てるのでしょうか。

「勝った、勝った!」と言うけれど、本当に大丈夫なのでしょうか。

食べる物も着る物もなく、皆大変な思いをしています。

空襲だって、ほとんど毎晩なのです。



そんなことを考えていた時でした。
幸生くんが不意に呟いたのです。



「生きよう、何があっても。」


その言葉は、本当に心強く私の胸に響きました。





たとえ焼夷弾の炎に町が焼き尽くされようとも、私たちは生きているのです。



食べる物がなくても、着る物がなくても、生きているだけで充分でした。











「ぎゃあぁぁーー!!!」


外から聞こえるこの世のものとは思えない叫び声。

そのすぐ後、近くで大きな爆撃音が鳴り響きました。


地面が揺れ、壕の中でも悲鳴が上がります。


「防空壕も危険だ!蒸し焼きになるぞ!!」

男の人の大きな声が外から聞こえました。




周囲の人たちが戸惑っている中、誰よりも早く幸生くんが立ち上がります。



「行こう!」


でも、一体どこへ行けばいいのでしょう。


そんな疑問が浮かんでも考えている余裕なんてありません。


幸生くんは、幸生くんのお母さんと小夜子ちゃん、
私は私の母と手を繋いで外へ飛び出しました。



壕の中の人たちは、「ここにいなさい」、「危ないよ」と口々に言います。


何が正しいのか、どれが正解なのか、分からないまま防空壕を出て、私は自分の目を疑いました。










右を見ても、左を見ても、赤い世界。

ぼたん雪くらいの火の粉が降っています。



何もかも、全てが燃えていました。



猛火から逃げようとする人々で溢れた町、それでも火は激しい勢いで迫ってきます。


私は母と手を繋ぎ、先を行く幸生くんたちの背中を追いかけました。

強烈な熱さ、地面からの熱気も凄まじく息をするのもやっとです。


次第に遠くなっていく幸生くんの後ろ姿、
人でごった返し、誰もが無我夢中で、私は幸生くんの背中を見失ってしまいそうです。





その時でした。


ギューー!!!

異様な音がして、空から何かが降ってきたのです。


「あっ」と思った時には、もうどうすることも出来ませんでした。


私の身体は飛び上がり、その瞬間母の手を放してしまいました。

前にいた人は即死、首から血を噴き出して倒れていくのを投げ出されながら見ました。



そして、私の頭にチカッと痛みが走りました。











背中に衝撃を受けて、自分が落ちたのだと何となく理解しながら痛みに顔を歪めます。


地面は熱く、倒れているのも苦痛で、ぼんやりしながら起き上がると顔に生温い液体が伝ってきました。


触れてみると、手は真っ赤。

べとっとした血の感触にうすら寒さを感じます。

でも、止血するものなんて何もありません。




恐ろしさと痛みで気が抜けてしまったのか、私はその場にただただ立ち尽くしていました。



周囲を見渡すと、私が知る町の景色はもうどこにもありません。


燃え盛る炎に囲まれて、次々と倒れていく人、人、人…。



赤ん坊を背負って逃げる母親の、背中の赤ん坊は燃えていました。

私の横を通り過ぎていった男の人は、投下弾が命中して倒れています。
血がどばどばと噴き出して死んでいく瞬間をこの目で見ました。


もう男女の区別もつかなくなった頭のもげた死体も道に転がっています。




私の足は竦んで、一歩も動けません。

痛む頭を抱えて、膝から崩れ落ちてしまいました。



たった一瞬で奪われていく命…。



私も、このまま死んでしまうのでしょうか。










だらだらと流れる血が、ポタリ、ポタリと落ちて地面を染めていきます。



その光景を呆然と眺めていると、とても強い力で腕を引っ張られました。


踞っていた私が顔を上げると、そこに立っていたのは幸生くんでした。


息を切らしながら、

「明子!諦めるな!!」

と、大きな声で言います。


「…その怪我!?」

私の頭から流れる血を見て、幸生くんは悲しそうな、辛そうな表情です。


幸生くんは、自分の防空頭巾を私の頭に押し当てました。


「今はそれしかないから。」



幸生くんの姿を見て、声を聞いて、私は安心してしまい、ぼろぼろと泣きだしてしまいます。


「立てるか?」

そう言って、差し出された手。


「うん。」


全てを飲み込もうとする炎に囲まれながら、私はしっかりと幸生くんの手を握りました。




「…お母さんたちは?」


幸生くんは首を横に振ります。

「分からない。…とにかく行こう。川へ行けば水がある。助かるかもしれない。」











私の手を引いて、幸生くんは走りだしました。



落ちてくる火の粉を避けながら、人波を潜り抜けて、ひたすら走ります。

私の足は何度ももつれそうになりました。


焼夷弾による爆撃は尚も続き、地面にも火がついています。





もし、あのまま一人だったら、
私は生きることを諦めていたでしょう。


今は、この手の温もりが大きな力となって私を突き動かしています。







繋いだ手から伝わる命の温かさ。

あの夏、私たちは確かに生きていました。