春。
雪が積もったように咲く花が、とても綺麗でした。
「明子ー!」
「お兄ちゃん!」
「こんなに遠くまで来て。ここには入ったらいけないっていつも言ってるだろ。」
心配ばかりする兄を見て、私は「ふふふっ」と笑います。
「何だよ。」
「花が咲いてるの!」
「え?」
「見たこともない花でね、綺麗なの!幸生(ユキオ)くんが絵を描いてるの、こっち!」
私はさほど興味もなさそうな兄の手を引いていきます。
山には様々な花が咲き、木々の葉は風に揺れていました。
「ほら、見て。」
そこにある木々の中で、その木だけが花を咲かせていました。
花は白く、まるで季節外れの雪が積もっているようです。
「綺麗でしょう?」
兄に尋ねると、なぜか兄は酷く驚いていました。
「お兄ちゃん…?」
「……この花は…。」
兄の様子は明らかに不自然です。
その時、木の陰から幸生くんが歩いてきました。
妹の小夜子(サヨコ)ちゃんも一緒です。
私と目が合うと、幸生くんは絵を見せてくれました。
「わぁ!」
目の前の美しい木、その向こうの空。
幸生くんの目に映る世界はこんなにも綺麗なんだ。
私は一瞬にして幸せな気持ちになってしまいます。
「幸生くんは本当に絵が上手!」
そう言って笑うと、幸生くんは頭を掻きながら俯きます。
私が不思議に思っていると、横にいた兄が乱暴に絵を奪ってしまいました。
「お兄ちゃん!?」
幸生くんが描いてくれた絵を凝視する兄の顔が怖くて、私は不安になります。
そんな私の視線に気づいたのでしょう。
兄はハッとして私の目を見ると、困ったように笑いました。
「明子、幸生、小夜子ちゃん。この木のことは誰にも言ったらいけないよ。」
「どうして?」
兄はそっと花を見上げながら言いました。
「この木がここにあることを知られたら、この木はきっと酷い目に遭わされる。」
「え!?」
「だから誰にも言うな?約束だ。」
私には兄の言っていることがよく分かりません。
まだ7歳の小夜子ちゃんには、もっと分からなかったことでしょう。
でも、幸生くんのほうを見ると、幸生くんには兄の言葉の意味が分かっているようでした。
「この絵も…幸生、済まない。」
兄は辛そうに言うと、絵を破ろうとします。
「待って!」
あたしは慌てて言いました。
だって、その絵は幸生くんが私のために描いてくれたものだったのです。
花がとても綺麗だから。
私が「描いてほしい」、と言ったのです。
「明子…。」
兄は私を諭すように呟きました。
すると、それまで黙っていた幸生くんが言いました。
「僕が捨てます。僕が描いたから。」
「幸生くん…。」
どうして、あんなに綺麗な絵を捨てなければならないのか。
私には全く分かりませんでした。
「ちゃんと破いて、見つからないように捨てます。」
悲しくて悲しくて堪りません。
幸生くんはせっかく描いた絵をぐしゃぐしゃに丸めました。
私は泣きたくなります。
兄のことが理解できず、幸生くんの気持ちを考えると胸が痛いのです。
口を結んで俯く私を見ていた兄は、仕方ないなぁとでも言うように溜め息を吐きました。
「明子、幸生と二人で写真撮るか?」
「え!」
「一緒に撮ったことなかっただろう?どうせなら、この木の前でさ。」
「…いいの?」
「その代わり、この木のこと、写真のことも誰にも言わないこと。二度とここには来ないこと。
約束できるか?」
「うん!」
返事をすると、兄は私の頭を大きな手で撫でてくれました。
私と幸生くんは、空に向かって花を咲かせた木を挟んで写真を撮りました。
それが、1944(昭和19)年5月のことです。
私は13歳になったばかり、
この時、兄が撮ってくれた写真が、幸生くんと二人で撮った最初で最後の写真でした。
その日の晩のことです。
兄はとても真剣な顔つきで、母に言いました。
「母さん、赤紙が届きました。」
私たちの間に流れていた空気が凍りました。
母は目を見開いて、唇を小刻みに震わせています。
赤紙とは、つまり召集令状のこと。
軍隊への召集を命じた令状のことです。
母も、私も、そして兄自身も、いずれはこんな日が来ることを分かっていました。
1941(昭和16)年から始まった大東亜戦争(※太平洋戦争)。
働き盛りの男の人は次々と兵隊にとられていきました。
幸生くんのお父さんも、戦地へ行ったきりです。
私の父は、私がまだ幼い頃に病気で亡くなり、母は父が残した薬局を一人で切り盛りしながら家を守ってきました。
逞しく大らかで、いつも気丈な母。
でも、この時の母は違いました。
「お国のため立派に死ぬ覚悟です。」
凛々しい声ではっきりと言った兄。
すると、響き渡ったのは、
バチィーン!!、という音です。
怖い顔をした母が兄の頬を殴っていました。
「私はっ!私はねっ!!戦争なんかでアンタを死なせるために生んだんじゃないよっ!!」
母はボロボロと涙を零しながら、物凄い剣幕で言いました。
私は、慌てて開きっぱなしの窓をピシャリと閉めます。
もしも誰かが聞いていたら非国民(※軍や国の政策に協力しない人を非難して使っていた言葉)だと言われてしまうからです。
「戦争なんかで死なせるために!ここまで大きくしたんじゃない!!」
母は泣きながら、兄の手をしっかりと握りました。
そして、兄に言い聞かせるように、
「生きて帰ってきなさい。」
と、何度も何度も言います。
「死んだらお仕舞い。お仕舞いなの!生きて帰ってきなさい!!っ…親よりッ先に死ぬなんて言うんじゃないよ…。」
兄の胸を叩き、兄の身体にしがみつく母。
兄も、私も、泣いていました。
兄は写真館で働いていました。
父が早くに亡くなっているせいか、歳が離れた妹だからなのか、いつも私の心配ばかりしていました。
兄だって、立派に死んでくる、なんて本当は思っていなかったはずです。
兄の目から流れる大粒の涙が、それを物語っているようでした。
「っ明子…っ。」
兄に呼ばれた途端、堪えきれずに私も兄にしがみつきました。
「お兄、ちゃ…っ。」
私たちは、家族三人身を寄せあって泣きました。
それから――。
兄は、「万歳!万歳!」の声に送られて戦争へ行ってしまいました。
見送りの時、周りの人たちは皆笑顔でしたが、その中で母だけは違っていました。
まるで目に焼き付けるかのように、遠くなっていく兄の背中を見つめています。
眼差しには迫力があり、その姿は異様でした。
「時男(トキオ)…。」
ぽつりと、擦れた声で兄の名を呟いた母。
「行くな」、と喉元まで出かかった言葉を押し殺していたのでしょう。
母と私は、兄が帰ってくる日をいつも待っていました。