あの夏を生きた君へ





「あ、そう。じゃ、捨てるしかないね。」


「…え?」


「あたし、食べる気なくなったから。」


コイツが見てたのは、あたしじゃない。

まさかのおにぎりだった。


それを勝手に勘違いして、バカみたいに慌てて。




「食べる気なくなったって…もったいないだろ!?」


「は?いやいやいや、幽霊に関係ないじゃん。」


ムカつく。本当ヤダ、ウザイ。あーウザイ!!



「ちづ!!」


「煩い!!!」

あたしは食べかけのおにぎりを古びたゴミ箱に投げ捨てた。




「……何やってんだよ。」


「は?」


彼の顔を見ると、今までに見たことがない顔をしている。


すごく怒っていることは、すぐに分かった。

でも、あたしには意味が分からない。


何でキレてんの?
キレたいのは、こっちだっつーの。






「拾え。」


「はぁ?」


「今すぐ拾え!!」


彼が声を荒らげて、あたしは思わずビクッと肩を揺らす。




彼の目は真剣だった。


真っすぐ、あたしを見ていた。









「…ッ訳分かんない!何なの!?」


「食い物を粗末にするな。」


「ウザッ!バッカじゃないの!?あーマジでヤダ!超イライラする!本当死んだほうがマシだわ!!」

あたしがそう言い放つと、彼は唖然とする。


「…今、何て言った?」


「はっ?あー死んだほうがマシってヤツ?」

あたしは嘲笑いながら言った。


「本当のことだけど。あー死にたい!死にたい!!死にたい!!」



始めは売り言葉に買い言葉だった。


でも、もうあたしの口は止まらなかった。

溜りに溜まっていた気持ちが抑えきれなくて溢れだす。


「あたし、長生きとかしたくないし!さっさと死にたいんだよねー。
生きてんのってめんどいし、怠いし、疲れるし。意味ないっていうかー!無駄っていうか!!」


「ちづ!!!」

彼が怒鳴る。

怒りと悲しみが、その表情に溢れていた。


「自分が…何言ってるか分かってんのか?」


「面倒くさっ!死ねよ。」


彼は言葉を失ったかのように、あたしを見つめる。



苛立ちと腹立たしさでいっぱいのあたしは、彼が幽霊だってことをまた忘れていた。



「死ねよっ!あー!あー!もう皆、皆、死んじゃえ!!死んじゃえ!!!」


叫んでいた。

ヒステリックな金切り声で、あたしは叫んでいた。


彼の視線が痛い。
きっと軽蔑されただろう。









力の限り叫ぶと、もう何も残ってなかった。


あたしは気が抜けて、座り込んで肩で息をする。




そんなあたしに降ってきた彼の声は、不思議なくらい優しかった。



「…なぁ、ちづ。」


「…………。」


「温かい飯が食える、綺麗な服を着られる、家族がいて…帰る場所がある。
それが、どれほど幸せなことだか分かるか?」



あたしは顔を上げる。

彼は穏やかな表情だ。


けど、彼の綺麗な瞳は泣いているように見えた。




あたしには、彼が言った言葉の意味がよく分からない。


すると、彼は街の夜景を眺めながら、ゆっくりと語りだした。












それは、あたしがこの世界に生まれる前。




彼が――ばあちゃんが懸命に生きた時代の話。






























【命】




















春。

雪が積もったように咲く花が、とても綺麗でした。










「明子ー!」


「お兄ちゃん!」


「こんなに遠くまで来て。ここには入ったらいけないっていつも言ってるだろ。」



心配ばかりする兄を見て、私は「ふふふっ」と笑います。


「何だよ。」


「花が咲いてるの!」


「え?」


「見たこともない花でね、綺麗なの!幸生(ユキオ)くんが絵を描いてるの、こっち!」



私はさほど興味もなさそうな兄の手を引いていきます。


山には様々な花が咲き、木々の葉は風に揺れていました。






「ほら、見て。」










そこにある木々の中で、その木だけが花を咲かせていました。


花は白く、まるで季節外れの雪が積もっているようです。




「綺麗でしょう?」


兄に尋ねると、なぜか兄は酷く驚いていました。


「お兄ちゃん…?」


「……この花は…。」



兄の様子は明らかに不自然です。



その時、木の陰から幸生くんが歩いてきました。

妹の小夜子(サヨコ)ちゃんも一緒です。


私と目が合うと、幸生くんは絵を見せてくれました。




「わぁ!」



目の前の美しい木、その向こうの空。

幸生くんの目に映る世界はこんなにも綺麗なんだ。


私は一瞬にして幸せな気持ちになってしまいます。



「幸生くんは本当に絵が上手!」



そう言って笑うと、幸生くんは頭を掻きながら俯きます。
私が不思議に思っていると、横にいた兄が乱暴に絵を奪ってしまいました。


「お兄ちゃん!?」



幸生くんが描いてくれた絵を凝視する兄の顔が怖くて、私は不安になります。



そんな私の視線に気づいたのでしょう。


兄はハッとして私の目を見ると、困ったように笑いました。













「明子、幸生、小夜子ちゃん。この木のことは誰にも言ったらいけないよ。」


「どうして?」



兄はそっと花を見上げながら言いました。

「この木がここにあることを知られたら、この木はきっと酷い目に遭わされる。」


「え!?」


「だから誰にも言うな?約束だ。」


私には兄の言っていることがよく分かりません。

まだ7歳の小夜子ちゃんには、もっと分からなかったことでしょう。


でも、幸生くんのほうを見ると、幸生くんには兄の言葉の意味が分かっているようでした。




「この絵も…幸生、済まない。」


兄は辛そうに言うと、絵を破ろうとします。



「待って!」


あたしは慌てて言いました。




だって、その絵は幸生くんが私のために描いてくれたものだったのです。


花がとても綺麗だから。

私が「描いてほしい」、と言ったのです。



「明子…。」


兄は私を諭すように呟きました。











すると、それまで黙っていた幸生くんが言いました。



「僕が捨てます。僕が描いたから。」


「幸生くん…。」




どうして、あんなに綺麗な絵を捨てなければならないのか。


私には全く分かりませんでした。



「ちゃんと破いて、見つからないように捨てます。」




悲しくて悲しくて堪りません。




幸生くんはせっかく描いた絵をぐしゃぐしゃに丸めました。



私は泣きたくなります。

兄のことが理解できず、幸生くんの気持ちを考えると胸が痛いのです。





口を結んで俯く私を見ていた兄は、仕方ないなぁとでも言うように溜め息を吐きました。



「明子、幸生と二人で写真撮るか?」


「え!」


「一緒に撮ったことなかっただろう?どうせなら、この木の前でさ。」


「…いいの?」


「その代わり、この木のこと、写真のことも誰にも言わないこと。二度とここには来ないこと。
約束できるか?」


「うん!」


返事をすると、兄は私の頭を大きな手で撫でてくれました。




















私と幸生くんは、空に向かって花を咲かせた木を挟んで写真を撮りました。








それが、1944(昭和19)年5月のことです。




私は13歳になったばかり、

この時、兄が撮ってくれた写真が、幸生くんと二人で撮った最初で最後の写真でした。