プロローグ
『運命を変えるチャイム』
そのチャイムが鳴ったとき、山本雪乃は夢の中にいた。
世間では長いゴールデンウィークが終わり、梅雨の気配に春も終わりを告げそうな5月末のことだった。
山本雪乃は都内の津久井大学に通う3年生。先月20歳の誕生日をむかえたばかり。
教師を夢見て、岐阜県から育ての両親の反対をおしきってはるばる東京にやってきた。
本当の母親は知らないし、父親とは事情があり一緒に暮らしたことはなかった。そんな雪乃を愛情こめて育ててくれた今の両親には感謝しているが、どうしてもひとり暮らしがしたかったのだ。
東京の街にはいまだに慣れないことも多く、独特のイントネーションの岐阜弁はなかなか直らなかったが、楽しくやってきた。
3年生ともなると授業も少なく、今日は1限目の授業しかないため、一人暮らしのアパートで早めの昼食をとりダラダラしているうちにいつしか、午睡の海に身をゆだねていた。
運命を変えるチャイムは、そのとき鳴ったのだ。
第1章
『夢かもしれない』
夢か現実かわからないまま、雪乃はそのチャイムを聞いていた。天井の照明に焦点が合うころには、一旦チャイムは止んでいた。
いつのまにか寝ていたらしい。
雪乃はソファから身を起こすと、右にある窓越しの空をながめ、そして壁にかかった時計に目をうつした。
14時をすぎたところだった。
___目を覚ますためにシャワーでもあびようか
そう思ったとたん、再びチャイムが鳴った。
平日の昼間に訪ねてくるなんて、たいていセールスや宗教の勧誘ばかりだ。このまま無視しようと思ったが、チャイムはそれをはばかるように何度もくりかえし鳴った。
「もう・・・」
雪乃は髪を整えながら、のそのそと玄関に歩いていった。
「はい」
意識などしていないのに、知らずに不機嫌な声になる。
「すみません、電話局のものですが」
愛想のよい女性の声がした。
普段ならドアスコープをのぞくのだが、女性の声に安心したのか雪乃はロックをはずしドアを開けた。
そのとたん、ドアを強引に開くようにしてズカズカと4人の人間が玄関になだれこんできた。
驚いて思わず後ずさりをする。悲鳴を出そうにも、のどがカラカラに渇いていて声にならない。
「山本雪乃さんね?」
先ほどとはうってかわって事務的な口調の女性が言った。残りはスーツを着た男性だった。女性の歳は40くらいだろうか、黒ぶちの眼鏡に髪をひとつにしばっている。
「どうなの?山本雪乃さんで間違いないの?」
有無を言わせず強い口調でふたたび聞いてくる。
雪乃は声を出せないままガクガクとうなずくしかなかった。
「私たちは渋谷警察署のものです。あなたの部屋には『家宅捜索令状』がでております」
そう言うと女性は、ベルトにつけてある警察のバッジを見せた。
後ろにいる男性のひとりが投げるように1枚の紙を雪乃に渡した。彼らはそれぞれに「渋谷警察の刑事、〇〇です」と名乗ったが、耳は聞いてなかった。
「捜索令状・・・あの、これって・・・」
ようやく声が出た雪乃をよそめに女刑事は、後ろの男たちに向かって、
「14時15分、本人確認。これより家宅捜索開始します、記録して」
と言うや否や、雪乃の腕をつかんで部屋の中へ強引に連れてゆくと、ソファに座らせた。
「これから部屋を見せてもらう間、ここから動かないこと、いいわね?」
と、顔をのぞきこむようにして言うと、自らも左側にあるひとりがけのソファに腰をおろした。
男たちは台所や隣の部屋、洗面所に薄いゴム手袋をして入ってゆく。みるみるうちに、引き出しや戸棚が乱暴に開けられてゆく。
「いったい何なんですか!?」
ようやく現実を受け止められるようになったのか、少し怒った声で雪乃は尋ねた。
恐怖からなのか、声はふるえていた。
「それ、携帯?」
「え?」
女刑事は雪乃の言葉など聞いてないのか、ソファ前にあるテーブルに置かれた赤い携帯電話を指さした。
「そうですけど」
そう言いながら手をのばしかけた雪乃より先に女刑事はさっと携帯をとると、2つ折りのそれを開き勝手にボタンをさわりだした。
「ちょっと、やめてくださいよ!」
取り返そうと腕をのばした雪乃に女刑事は、
「あなた、現状を理解してないようね」
と、冷静かつ強い口調で言った。
「当たり前じゃないですか!突然やってきていきなり部屋を引っ掻き回して。理解しろってほうが無理ですよ。私がいったい何をしたって言うんですか!?」
「あなたには覚せい剤所持の疑いがかけられています」
「は?」
ポカンと雪乃は口をひらいた。
「この部屋のどこかに覚せい剤を隠しているんでしょ?正直に言ったほうが良いわよ」
まるで時間が止まったかのように、雪乃の動きは静止した。
その間も男たちは容赦なく、部屋を調べているらしかった。
動いてもいないのに呼吸が荒くなる。
「あの・・・それ、本当なんですか?本当に私に覚せい剤使用の疑いが?」
「どこにあるのか教えなさい」
眼鏡越しの目が、『これは冗談ではない』と告げていた。