ちっぽけな世界の片隅で。



田岡だった。

教室の中と外という、敷居を越えて。


ものすごくあっという間だったのに、その姿は、一瞬、スローモーションみたいに見えた。

田岡のこぶしが、嶋田さんに、向かう。剛速球で。


なぐられた嶋田さんがふっとぶと同時に、わたしのなかの、広大、がふっとんだ。


なにが起こっているのかと、思った。

目の前で起こっていることが、映像として絶え間なく流れ込んでくるのに、頭のなかで整理することが、できなかった。


田岡は、手を止めない。

制服のえりくびを持ち上げられ、ぶらさがった人間の影。

蛍光ピンクのシュシュが、異生物の血のように、長い髪にこびりついていて。


見たことのない、顔だった。

田岡じゃなかった。

殺すんじゃないかって。そう思うくらい。エサを追うライオンの牙より、のどもとに突きつける、刀の切っ先より、もっと。

もっと、するどい。


足がふるえだす。ゆがんだ机と、おかしい世界。わたしは、敷居をまたげないまま。






ひとが、ひとを、殴る。殴られる。

動きを封じられる。

制服を脱がしにかかられる。


ひどい、ひどいことが、目の前で、数メートル先で起こっているのに。

わたしをなによりも、打ちのめしたのは、その、どれでもなかった。


サイテイだ。こんなときにすら、働いたのは、正義感じゃなく、好奇心。

わたしは、勝手に、ひとつの結論を、見つけだしていたんだ。



気づいてしまった。

わかってしまった。













ジュウエンムイチ、が。




田岡が好きなのは、





菜落ミノリ、だ。



















その日の午後から、雨が降った。


傘をさしても、意味がないくらいの、どしゃぶりだった。






田岡は、駆けつけた先生に連れていかれ、いつの間にか消えていた菜落ミノリが、教室に戻ってくることはなかった。



夜になっても、どしゃぶりの雨音がやまないなか。




わたしは、アキからの電話で、菜落ミノリが事故にあったことを、知った。




















◇失火防火の、世界◆






(5)


なにかが、しずんでいる。

ぶくぶくと、泡をすこしずつ吐いて、すこしずつ、しずんでいく。


だれも、手を差し出さない。

手をのばせば、すくうことができる距離なのに。


そうしてわたしたちは、笑いもせず、泣きもせず、見ている。

しずんでいくものが、海底の、二度と光をあびることのない黒い岩となっていくのを、ただ、傍観している。


なにかが黒い岩となって、じゃあ、それを見ているだけのわたしたちは 、いったい何になれるのだろう。






週あけの、月曜日。

お母さんがテレビをつけると、朝のニュースが、大ボリュームでかかった。

起きているのに、耳元で目覚ましを鳴らされるような、不快さ。


どうせ、深夜までテレビを見ていたお父さんが、音量をあげたままにしていたのだろう。

楽しみにしている遅い時間のレース番組で、エンジン音は大きいほうがいい、とか言って、いつも音量ボタンをいじくっているから。




寝すぎたかのように、すごく気分が悪かった。睡眠は、そんなにとれていないはずなのに。

叫んでいるみたいにニュースを読み上げる、ニュースキャスター。

リモコンで一気にボリュームを下げながら、お母さんが、


「あらいやだ、このニュース、怖いわねぇ」


と、つぶやいている。


目の前にある、皿。

焼きあがったトーストは、いい色を通りすぎて、焦げていた。

トーストの黒くなった部分を、スプーンのハシでガリガリとりのぞくのに必死になりながら、わたしは、事件の晩の、アキからの電話を思い返す。



「やばいやばいっ!大ニュース!!」


普段ならとっくに寝ついている時間をすぎてから、かかってきたアキの電話。

アキの声は興奮ぎみで、その大ニュースとやらが、いいことなのか、わるいことなのか、それを聞いただけではわからなかった。

やばい、っていう言葉も、いい意味にもわるい意味にもとれるし──って、今回の電話の内容は、わるい意味だったのだけれど。


アキは、興奮した声のまま、話した。



菜落ミノリが、学校から帰る道で、車にはねられたこと。

どこかの病院に搬送され、今は入院しているらしいこと。

どうやら、命に別状はないけれど、意識がもどっていないこと。


わたしは、黙ったまま、話を聞いていた。


そんなことがあるものなのか、と思った。こんなに立て続けに、わるいことが起こるものなのだろうか。

ひどいいじめを受けて、学校を飛び出した先で、車にぶつかるなんて。


「これ、クラスの大半はもう情報まわってるらしくてね。そんでさあ、みんな、ウワサしてるらしいよ」

「ウワサ?」

「うん。わざと、飛び出したんじゃないかって」


わざと。一瞬、言葉をうしなった。

わざとって、それって──


「ほら、嶋田さんに、いじめられてたじゃん?それで、自殺はかったんじゃないかって」


ジサツ。

布団のなかにいるのに、背中がヒヤッとした。

朝、目撃してしまった光景が、はっきりと思い出されて、あわてて目をつむる。


すっかり黙り込んでしまったわたしに、神妙な声で、アキはたずねた。


「・・・ねえ、ところでさ。ハチは、大丈夫?」



きっと、田岡のことだろうと思った。

アキは、わたしが田岡をすきだと、もうすっかり思い込んでしまっているから。


すきな男子が、目の前で暴力事件を起こしたことで、わたしがショックを受けていないか、心配してくれたんだろう。


「田岡くんも、あれだよね!正義感強すぎ!!ちがうクラスの女子、かばっちゃうなんてさー!」

「…うん、そうだね」


明るく作った声は、自分のものじゃ、ないみたいだった。



田岡の、必死の形相をみたのは、わたしだけ。

ジュウエンムイチのつぶやきを知っているのも、わたしだけ。


どちらか片方なら、きっと気づかなかった。


田岡が、飛び出していったのは、正義感なんかじゃない。

田岡は。田岡は───



その日も、土曜日も、日曜日も。いつものラジオは、とても色あせて聞こえた。

毎夜の、心地よい低い声が、わたしを地底に連れて行ってくれることはなかった。

わたしの体も心も、部屋のベッドに寝転がったまま。


なにかを考え出したら、寝ころんでもいられなくなってしまいそうだと思った。

すべてシャットダウンしてしまおうと、目を閉じた。


どうしてか、なかなか寝付けなかった、三つの夜。





「怖いわよねぇ、八子」


返事がないわたしに、お母さんがもう一度繰り返して言った。

白と黒のつぎはぎみたいになった、トーストから目をはなして、テレビ画面を見る。




『十四歳女子中学生。いじめを苦に、飛び降りジサツ』


画面に表示された、赤く目立つ文字が、目にとびこんだ。

急になにかがこみ上げてきた気がして、あわててテレビから顔をそむけて、トーストをかじる。


にがい味が、舌にひろがる。

大丈夫、と、自分に言い聞かせて、飲み込む。


わたしの住む県とは、ずいぶん遠い場所だ。

大丈夫。わたしには、関係ない。

たとえ同じ十四歳だったとしても、知らない子が飛び降りた事件なんて、わたしには関係ない。

関係、ないんだ。


なのに、どうしてこんなに、息苦しいんだろう。


意識のなか。いつもわたしを、現実から逃がしてくれる海にもぐった想像にひたっても、酸素が足りない。