原千夏(はら ちなつ)、15歳。
夢いっぱいの高校1年生。
行きたかった高校に合格したあとは、毎日綺麗に整えた制服に身を包み、高校生活を楽しんでいた。
今日もいつものように一日を過ごし、お気に入りの曲を聴きながら学校から帰っていた。
だが──…
「あのー…」
不気味な薄暗さを帯びているどこかの倉庫。千夏はその倉庫の奥の部屋に、鎖で柱と繋がれた状態で座っていた。
「あの、すいません…」
そして、外の様子を伺いながら千夏を見張る20代ぐらいの男。
千夏は彼に聞きたい事があって、もう一度呼び掛けた。
「あの、すいません!」
「うるせえ!!」
男は振り返りざまに怒鳴る。
だが千夏がそれに臆する事はなく、むしろ、自分の呼び掛けにやっと答えてくれたのが嬉しくて笑みを浮かべた。
「あの、トイレ行かせてもらえませんか?っていうか、ここトイレってあります?」
「ああ!?んなこと知るか!!」
誰かに見つかるのが怖いのか、それともやたらと元気な千夏に対しいらついているのか、男は乱暴な言葉で返す。
「じゃあ、トイレ探してきていいですか?」
「何言ってんだ、ダメに決まってんだろ!!」
「でもぉ…私小便したいです…」
「女が小便とか言うんじゃねえ!!」
恥じらいひとつ見せない千夏に、男は思わずつっこんでしまった。
それがまたもや千夏を喜ばせた。
「犯人さんって…いいツッコミしますね!私もっとボケていいですか!?そしたらもっとつっこんでくださいますか!?」
「誰がつっこむかよ!!っていうか、俺の名前は遥だ!!変な呼び方すんじゃねえ!!」
「きゃあー!またつっこんでくれたー♪」
千夏が楽しそうにはしゃぐ。
「静かにしてろ!!」と怒鳴っても、千夏はにこにこと笑っていた。
ったく、調子狂うぜ…。
男──改め、遥は頭を掻く。
学校帰りの千夏を後ろから薬品を嗅がせて眠らせ、拉致し、そのままこの倉庫に連れてこんだ。
千夏の携帯で彼女の親に電話し、身代金を要求。金額は5000万。
本当の目的は金などではないのだが、それよりも遥は、千夏の底抜けの明るさに戸惑っていた。
自分が拉致されているというのに、犯人である自分におびえることなく、それどころか笑いかけてくる。
何なんだ、この女は……。
「遥さん!!」
「!?」
突然名前を呼ばれ、遥は驚いてしまう。
「な、何だよ!?」
「? 遥っていうんですよね?名前」
「は!? あ、ああ…」
首を傾げる千夏。遥が何に驚いているのかわからなかった。
「……で、何だよ?早く言え」
「あ、はい。やっぱりトイレ行きたいんで、この鎖とってくれませんか?」
ジャラ…と鎖を見せる千夏。
「…ダメだ」
「えー、何でですかー?」
「トイレとか何とか理由つけて、逃げるつもりなんだろ」
ナイフを構える遥だが、やはり千夏は怯えたりしない。
「私逃げませんよー」
「そんなの信じられるか!人間はなぁ嘘をつくんだ。嘘をついて生きてくような生き物なんだよ!」
そうだ、人間は嘘をつく…
一度でも信じてしまえば、そこで負け。裏切られたとしても、信じてしまったバカな自分のせい。
“すぐ帰ってくるから”
そう言って出ていったきり、あの人とは二度と会わなかった。
「遥さん」
「!」
千夏の声で、遥はハッと我に返った。
「……」
「あ…いや…」
黙ったまま自分を見据える千夏の瞳に、遥はたじろぐ。
あんなにあどけない笑顔ではしゃいでいたのに、今の千夏は真剣で大人びた雰囲気を漂わせている。
「遥さん…昔、誰かに嘘つかれたことあるんですか?」
「ね、ねえよ!」
「裏切られたことあるんですか…?」
「うるせーな!!ねえって言ってんだろ!?」
澄んだ千夏の瞳に吸い込まれそうで、遥は視線をそらした。
「私は、嘘はつきません…」
「だ、黙れ…」
「私は、あなたを裏切ったりしない」
「黙れ!!」
これ以上千夏の言葉を聞いていたら、自分の決意が揺らいでしまう。
だが、ここで終わらすわけにはいかなかった。
「……」
ナイフの刃は、千夏の頬をかすっていた。
遥の手からナイフが滑り落ちる。
「遥さん、あなたは全てを疑うことなんてできない人です。本当は信じたいと思ってる」
「……」
そうだ、俺は信じていた。
あの人は絶対帰ってくるって。
信じたかった。
でも……
“私はお兄ちゃんに嘘つかない。お兄ちゃんを裏切ったりしないよ?”
遥は鎖をはずす。
「遥さん?」
「トイレはそこのドアを出て左に行ったとこにある。行け」
「いいんですか?」
「……逃げたら許さねぇぞ」
千夏は笑顔で、走っていった。
「もらすまえに行ってきます!!」
「だからもらすとかリアルな事言うんじゃねえ!!」
原千夏…
光と同じこと言ってんじゃねえよ…。
* * *
高級住宅地の一角。ここら一帯は綺麗な家が立ち並んでいる。
その中でも、“原”という表札がたつ家は他の住宅よりも大きくて綺麗で、ひときわ目立っていた。
この辺は、いつもは基本的静かで落ち着いた雰囲気があるのだが、今日は違った。
たくさんのスーツ姿の男が家を守るように張り込んでいて、その付近では、通行人ひとりひとりに、とある少女の写真を見せながら何やら質問を投げ掛けていた。
一人のスーツの男が手帳を見せ、家の中へと入った。
「失礼します!」
リビングへと駆け込む。
「警部、原千夏さんは学校帰りに襲われた模様です。途中までは一緒に帰っていたと、彼女の友人から証言を得ました」
「本当か!?」
「はい。恐らくひとりになったところを狙われたのだと思われます」
そう、ここは千夏の家。
娘がさらわれ、身代金を要求されたと、両親から通報があり、警察が動いたのである。
報告しに来た刑事は敬礼をすると、再び付近の情報収集及び、千夏の交流関係をあらいにいった。
報告を受けた警部は、ソファーで頭を抱える千夏の両親に声をかけた。
「お父さん、お母さん、その後犯人から連絡は?」
「いいえ…5000万用意しろと言われてからは一度も…」
首を横に振る母親。
「千夏…」
愛する娘が無事である事を、父親は祈るしかなかった。
* * *
「遅い…!」
遥はイライラしていた。
「どうしても行きたい」と、人質である千夏がしつこかったため、トイレに行かせた。
逃げないと言った彼女を信じて待っていたが……
「いくらなんでも遅すぎる…!」
千夏がトイレに行ってから、かれこれ30分は経っていた。
やはり逃げたか…?
あんなにおちゃらけてはいたが、拉致されておいて平気な者はいない。怖くなって逃げ出しても不思議ではないはずだ。
“私は、あなたを裏切ったりしない”
信じたいと思ってはいる。だが、彼の記憶が、信じようとする気持ちを潰していく。
「くっそ…!」
遥が頭を抱えた時、バァンッと扉が開かれた。
「遥さん!ただいまです!」
「……戻って来た…」
千夏はあわてて遥のもとに駆け寄る。
「すいません!小便だけのつもりが大までしてきたくなっちゃって…。えへ、出してきちゃいました♪」
「出してきちゃったじゃねえ!何で戻ってきたんだ!?」
千夏の肩をつかみ、遥は怒鳴る。
「おお、びっくり!今度はそこにつっこむんですね!」
のんきなことを言う千夏に緊張感のかけらもない。
「お前…逃げるチャンスだったのに何で…」
「だって、逃げないって言ったじゃないですか。嘘はつきません」
そんな質問を投げ掛ける遥を不思議そうに見る千夏。
「……バカだろ、お前…」
遥は頭を掻いてしゃがみこむ。
疑ってしまった自分にむかつく。
こいつは…裏切らなかった。
信じてもいいのかもしれねえ。
夜。倉庫にある小さな窓から、綺麗な月が見える。
「遥さーん」
「あ?」
「あの…」
ぐぅぅ〜〜…
千夏が言い終わるより先に、彼女の腹が鳴った。
「あ……」
盛大な音は、遥の耳にも当然届いた。
ナイスタイミング。まるで千夏の代わりに、腹の虫が先に説明をしてくれたかのようだ。
これにはさすがの千夏も、恥じらいを見せた。
「と、いうわけなんですけど…」
頬を赤く染め、苦笑する千夏。
「腹減ってんのか」
「はは…。すいません…」
ポケットを探り、遥は板チョコを一枚渡した。
「今はこれしかない」
「わーい!!チョコ──!!」
甘いものが好きなのか、千夏は子供のようにあどけない笑顔を見せる。
幸せそうな千夏を見ていると、遥の頬は緩んだ。
遥は鎖をはずす。
そのとたん、千夏は飛び跳ねて喜んだ。
チョコひとつでこんなにも喜ぶ奴が高校生がいるのか…。
恐らく、千夏だけだろう。
「ほら、さっさと食え」
「その前に…」
パキッとチョコを半分に割ると、千夏は半分のチョコを遥に差し出した。
「?」
「遥さんの分です。仲良く、はんぶんこしましょ♪」
確かに腹は減っているが、そんなハッピーな笑顔をしている少女から、幸せを半分奪うようなことはしたくない。
といっても、拉致した相手と一緒にいる時点で彼女は幸せではないのだろうが──。
「俺はいいから、食べな」
「でも…」
ポンポンと頭を撫でる。
「本当は全部食べたいんだろ?だったら、素直に食え」
「……いいんですか?」
「ああ」
「じゃあ、お言葉に甘えて!」
遥が頷いたのを確認すると、千夏はチョコにかぶりついた。
「うん、やっぱチョコはうまいですね!!」
おいしそうにほおばっていた千夏は、視線を感じ顔を上げる。
……あ…。
遥は優しい笑みを浮かべ、こちらを見ていた。
千夏を拉致した犯人とは思えないほど優しく、綺麗な笑顔。
千夏は思わず、遥の笑顔に目を奪われる。
なんだか照れてしまい、再びチョコを食べ始めた。
「初めて…笑ってくれましたね」
「え?」
「…何でもないですっ!」
千夏は嬉しそうに笑った。
* * *
──プルルルルッ
「!!」
原宅の電話が鳴った。
この家の娘、千夏をさらった犯人からかもしれない。
リビングで待機していた刑事は、せわしなく動き始める。
「逆探知!!」「はい!!」
ヘッドフォンを装着し、一人の刑事が機械を操作する。
「お母さん、お願いします」
刑事の合図を受け、千夏の母親は頷いてから受話器を取った。
「……はい」
<5000万は用意できたか?>
やはり電話の相手は犯人。
「それがまだ……」
<急いで用意しろと言ったはず。娘の命が惜しくないのか>
「もう少しだけ待ってください!!必ず用意しますから、千夏だけはどうか…!!」
父親も割って入って叫ぶ。
<……>
母親は受話器を両手で強く握り締める。そして、そんな彼女の肩を抱く千夏の父親。
2人は、千夏の安否だけが心配だった。
「あの…千夏は無事なんですか?お願いです、一言でいいのであの子の声を聞かせてください!!」
「千夏と話がしたい!!代わってくれ!!」
<……またかけ直す。次に電話をかけた時までには5000万を用意しろ。できなければ、娘の無事は保障しない>
「そんな…!!」
電話は一方的に切られた。
2人の願いもむなしく、受話器から聞こえるのは「ツー、ツー」という機械音だけ。
「ああ!千夏ゥウ!」
母は悲鳴に近い声で、愛しい娘の名を呼ぶ事しかできなかった。