は、と声にも出せず口だけ開けて固まっているわたしの横で、朗は少しも驚いた様子を見せず笑っていた。
「そっか、ありがとう。すごく助かる」
「いいよ。今は私ひとりで暮らしててね。ちょうど部屋が余ってるんだよね」
おばあさんが、元々しわくちゃだった顔をさらにしわくちゃにするから。
固まっていたわたしはハッと我に返り、楽しげにおばあさんと話す朗を押しのけた。
「で、でも、悪いですよ、そんなこと」
「いいのいいの、これもひとつの縁だと思いなよ」
「そうだぞ夏海」
「朗は黙ってて!」
いくら寝る場所がないからって、出会ったばかりの見ず知らずのひとに泊めてもらうなんてこと、できるわけがない。
まあ、出会ったばかりの見ず知らずの人間とともに、無謀な旅をしてるわたしが言えることではないかもしれないけれど。
「とにかく、泊めてもらうなんてできませんって」
ここで泊めてもらえなければ100パーセント野宿することになるだろうけど、今は夏だし、朗もいる。
一日くらい、空の下で寝られないこともない。
「だって。夏海が駄目だって言う」
「そうだねえ」
朗がなんとも残念そうにわたしを見てくる。
そもそも何もかもがお前のせいだと言うのに。
「さ、朗、行くよ。いつまでだらだら休んでるの」
「えー……」
わたしは嫌そうな顔をする朗の腕を引っ張り、無理やり立たせた。
これ以上ここにいたら決心が鈍りそうだから。
早く、行かなければ。
だけど、自転車に乗ろうとしたわたしたちの隣で、おばあさんがのっそりと立ち上がって。
ぽんと手を叩きながら、わたしたちに向かって、にこりと笑うものだから。
「やっぱりさっきの奢りってやつ、なしね」
上げかけた足が止まる。
「え」と短く声が出る。
奢りはなし。
でもわたしたちはもう、ジュースを飲んでしまっているわけで。
つまりは金を払えってことだと思うんだけど。
何度も言うけど、もう、お金はない。
「え、でも、あの……」
「金ならもうないよ」
焦って言葉が出ないわたしの代わりに、すでに荷台に座っていた朗が口を開いた。
お前は最初から持ってないだろ、本当ならそう言いたいところだけど、そのときのわたしはそんな余裕もなく、ただ朗の言葉にうんうんと頷いていた。
おばあさんはわたしたちを見て、まるで悪戯っ子のようにくすりと笑う。
「知ってるよ。さっきそう言ってたもんね」
「じゃあ……」
どうしろって言うんだ。
そう思うわたしに、おばあさんは言い募る。
「だから、お金払う代わりに、寂しいおばあちゃんの家に泊って行って」
ね、とおばあさんは朗に目配せをして。
「……だって、夏海。どうする?」
朗はわたしを見上げたまま、目を細めて笑っている。
わたしは小さく息を吐き、空を仰いだ。
オレンジと藍色のグラデーション。
「……じゃあ、お願いします」
呟くと、ふたりとも嬉しそうに笑った。
つられてわたしも、へたくそに笑った。
太陽はもう、半分以上沈んでいた。
おばあさんの家に泊めてもらうことになったわたしたちは、寝る場所だけでなく、夕飯やお風呂までもお世話になってしまった。
見ず知らずの他人にこんなに世話を掛けていいものかと、不安と後ろめたさを感じるものの、実のところこの状況が、かなり嬉しかったりもする。
だってわたしたちは、お金によってそれらを得る術がないわけで、ご飯もお風呂も柔らかい布団も諦めていたわたしにとって、この環境は天国にも思えた。
「それにしてもそんなところから自転車で海に行くなんて、元気だねえ。私には無理だよ」
「わたしだって無理ですよ。でも、朗が行くって言うから」
ご飯を食べてお風呂に入ったあと、おやつのおまんじゅうを食べながら、わたしはおばあさんに今日の出来事を語っていた。
服は、おばあさんが近所の人から借りてきてくれたパジャマを着させてもらっている。
下着だけは近くのコンビニまで買いに行ったけれど、もちろんそのお金はばっちり借りてしまった。
着ていた制服は朗のものと合わせて洗濯してもらっているし、なんだか申し訳ないくらいに至れり尽くせりだ。
本当に、今後一切足を向けて寝られないくらいに。
もちろんそのすべての元凶であるこいつは、何ひとつ気にしちゃいないけれど。
「夏海はすごくいいやつなんだ。俺のために、頑張ってくれる」
朗がおいしそうにおまんじゅうを頬張りながらそんなことを言うから。
俺のために、なんて言い方やめろ、そう思ったけれど、いや、確かに朗のためだと思い直す。
「へえ……」
机を挟んで向かいに座っていたおばあさんは、わたしと朗を交互に見遣ると、やがてにいっと笑った。
「そっか。あれだね、愛のパワーってやつだね」
「は!?」
飲み物を飲んでいたら吹き出すところだった。
何を言い出すんだこの年寄りは。
「ち、違いますよ! わたしたちはそんなんじゃないです!」
「え? 違うの? あっはっは」
朗らかに声を上げるおばあさんにわたしはむっと口をつぐみながらも、顔が赤くなっているのが鏡を見なくてもわかっていて、まさに穴があれば入りたい気分だった。
だけど朗はまったくそんな雰囲気なんて見せずに、相変わらず涼しげな表情を浮かべている。
「どうした夏海」
のん気にそんなことを言って、またおまんじゅうに手を伸ばそうとするから、なんだか無性に腹が立つ。
「うっさいあほ! なんでもない!」
「え、なんだ急に、そんなに怒って……」
意味がわからないと言った顔で、助けを求めるように振り向いた朗に、「乙女心は複雑なものなのよー」とおばあさんはころころ笑って。
朗は不思議そうな表情で、わたしはひとりで勝手に機嫌の悪い。
全員がばらばらな表情で、ばらばらな気分。
なんだかとてもおかしな空間のような気がしたけれど、そう言えば全員が出会ったばかりであるんだから、気持ちが揃う方がおかしい気がして。
そして出会ったばかりのわたしたちが、こうして今同じ空間に居ることは、やっぱりなんだかおかしいことのように思えた。
「さ、そろそろ寝ようかな」
おばあさんがのっそりと立ち上がるから、つられて時計を見ると、針は9時過ぎを指していた。
こんな早くにもう寝るのか、と思いつつも、自分にも睡魔が襲ってきていることに気付く。
そういえば今日は、こんな真夏日の中、1日中後ろに人間を乗せた自転車を漕ぎ続けてきたんだ。
むしろよく今まで気を失わなかったと自分で自分を褒めてあげたい。
「じゃあ、わたしたちも寝ます」
「うん。あなたたちのお布団は、隣の部屋に敷いておいたからね」
「はい、ありがとうございます」
わたしと朗は、同じ部屋で寝るらしい。
それって大丈夫なのか、と思ったけれど、余っている部屋はそれだけのようで、文句なんて言えるはずもない。
「ほら朗、寝るよ」
半袖のパジャマの上から、なぜかおばあさんの半纏を着ている朗の腕を引っ張った。
朗はだるそうにのそりと立ち上がり、ひらひらとおばあさんに手を振る。
「ばあちゃん、おやすみ」
「はい、おやすみー」
おばあさんがふすまの向こうへ消えていくのを見ながら、わたしたちも用意された部屋へ向かった。
部屋の中には、僅かな距離を空けて敷かれたふたつの布団があった。
わたしは左側に、朗は右側の布団に寝転ぶ。
その途端、体中の力が一気に抜けて、まるで布団の中に沈み込んでいくような感覚がした。
骨まで軋んだ体中、やっと、全身を休ませることができる。
このまま布団とくっついて、一生離れなきゃいいのに。
「もー、絶対明日筋肉痛だよ。嫌になるなあ」
すでにふくらはぎはパンパン。
明日、筋肉痛に襲われた状態でまた長い道のりを進まなければいけないと考えると、たまらなくうんざりする。
というか、こんな状態で明日も進めるのか。
進まなきゃ、いけないのか。
「明日は朗が漕いでよねー」
「だから俺自転車乗れないって言ってるだろ。漕いでやりたい気持ちはやまやまなんだけどな」
「ほんとかよ」
わたしはうつ伏せに寝て、頬を枕に押しつけ笑いながら、深く息を吐いた。