「ねえ、朗」
静かに彼の名前を呼ぶと、朗は「ん?」とわたしを見ないで返事をする。
前を行く背中、揺れる黒髪、冷たい手はわたしの手を引きながら、どこかへ、向かおうとしている。
「まさか、海まで、自転車で行く気じゃないよね」
本当に、まさかとは思うけど。
だってまともな人ならそんな考え、絶対に起こすはずがないし。
だけどわたしはこの僅かな間で、この人がまともではないということに、気付いてしまっている。
さっきからおかしなことばっかり言って、常識が通じなくて、というか、あまりにも無知で。
でも、どうかお願い。
違うよと、言って。
心の中で必死に訴えながら、目の前の黒髪を見上げて。
そしたら朗が、少しだけ間を置いて、ちらりとこっちに振り向いて。
その表情は、まるで無邪気な子どものように、満面の笑みに満ちていて。
「あたりだ」