一瞬の永遠を、きみと


一筋の風が吹いた。

だけどその風は気持ち悪いくらい生ぬるくて、決してわたしの体を冷ましてはくれない。

蒸し暑い空気が、わたしの額から汗を流させる。


けれど、朗のまわりだけは、なぜだか晴れた冬の日のように透明で、どこまでも澄んでいるように感じた。



「……朗」


初めて口にした彼の名前。

慣れない響き、だけど不思議と、心地良く馴染む。


「なに?」

「朗ってもしかして、幽霊じゃないよね?」


上目がちに問い掛けると、朗は「はあ?」と声を上げ、そして大声で笑い出した。


「あっはっは! 幽霊って、なんだよそれ」

「だ、だって……こんなに暑いのに、カーデまで着て汗ひとつ流してないし……手だって、すごく冷たいし……」


もごもごと口の中で呟くと、朗はゆっくりと息を吐き、だけど笑顔は残したままわたしを見つめた。

「まあなあ、確かにおかしいだろうけど。でも、一応生きてるから安心しろ」

「そうだよね。ごめん、変なこと言って」

「別にいいけど。でも、幽霊だなんて言われたのは初めてだ」


朗は言って、また声を上げて笑った。

わたしは恥ずかしくなって俯きながらも、こそりとその姿を見遣る。


真夏なのに分厚いカーディガンを羽織って、それでも涼しげな表情をして、触れた手は驚くほど冷たい。

普通じゃないのは明らかだ、おかしいのは、一目瞭然。


そこに何か、理由があるには違いないのだろうけど。

それが、気にならないと言えば、嘘になるけど。



だけど彼が言わないのなら、それを訊く権利はわたしにはない。

誰にだって、抱えているもののひとつやふたつ、必ずある。

それは、ひとには言いたくはないことでもあるのかもしれない。


彼がわたしに何も訊かないのと同じように、わたしも何も、訊く必要はない。

「ほら、行くぞ」


朗がわたしの手を引く。

今度は立ち止まることなく、わたしはその冷たい手に引かれるまま、足を進めた。

少し癖のある黒髪が、目線の少し上で揺れている。



死のうとしていたはずなのに、わたしは一体何をしているんだろう。

頭の隅でそう思いながらも、わたしの足は止まらなかった。


何で止まらないのか、何でこいつの背中を追っているのか。

わからないようで、本当は、わかっていたけれど。

わからないふりを、自分にしていた。




「ねえ、どこに行くの」


目の前のベージュのカーディガンに向けて声を掛けると、その答えは、間を置かずに返ってきた。


「お前の名前と同じところだ」

「え?」


わたしの、名前、ということはつまり、もしかして……。


朗が、楽しそうに笑いながら、振り返る。



「海に、行くんだ」





───それは、たった一瞬の、だけど永遠に続く



遥かな蒼を目指した小さな冒険と




ただひとつの確かな思いを見つけた




忘れられない短い夏の




始まりだった───






朗はわたしの手を握ったまま、ずんずんと静けさの漂う校舎の中を進んでいく。

相変わらず人気はなくて、わたしたちのシューズが、ペタペタと廊下を踏む音しか聞こえない。


「ね、ねえ!」


わたしは必死で朗の後を追いながら、華奢な背中に呼びかけた。

朗が、こっちを振り向かないまま「なんだ」と答える。


「海に行くって言ったけど、どうやって行く気なの?」


海に行く、言うのは簡単だけれど、実際に行くとなると話は別だ。

例えばここが海辺の町なら問題はないのだろうけれど。

生憎、わたしたちが住んでいるこの場所は、山と田んぼだけは豊富な内陸の町。

海なんて、簡単に行ける場所じゃない。

のに。


「さあ」


涼しげに問い返す朗に、わたしは溜め息すら吐けない。

「さあって……何も考えてないの?」

「ああ。だって知らないんだ。海って、どうやったら行けるのかな」


足を止めないまま、だけど顔だけでわたしに振り向いて。

馬鹿にしてるのかと思ったけれど、その表情は、わたしをからかっているという感じには見えない。


……まさか本当に、本気でそう訊いているのだろうか。

その方がよっぽど性質が悪い気もするけれど。



「……まあ、一番いいのは、電車じゃない? 2時間くらいかかるけど」

「そうか。じゃあそれで行こう」

「でもわたしお金ないよ」


死ぬつもりでここに来たんだ。

持っているのは携帯と、スカートに入っていた僅かな小銭のみ。

とてもじゃないけど、電車になんて乗れそうもない。


「まあ、朗がわたしの分も払えそうなら、問題ないけど」


むしろ付いて行ってあげるんだから、それくらいは当然だろう。

海辺の街までは路線図で見ても随分遠くて、運賃も決して安くはなかったはず。

それをわざわざ自分で払う気にもなれないし、そもそも持っていないし。

だから、それくらいはこいつに出してもらおうと思ったんだけれど。


朗が、少しだけ歩を緩めて、困ったように眉を下げながら、笑うもんだから。


「悪い、俺もない」


は、と漏れる声を抑えることができなかった。

仕方ない。

だってまさか、海に行くなんて言い出しておいて、お金を持っていないなんて。


「ほんとにないの? ちょっとくらいあるでしょ」

「だからないんだって」

「うそでしょ? 1円も?」


問い質せば、朗は「ああ」と短く答えて、それから少し考えるように黙ったあと、前を向いたまま呟いた。


「なあ、金がなきゃ海には行けないのかな」


進む術がないのに、それでも足を止めない朗に、わたしは呆れることすら忘れていた。

今の状況を、こいつはわかっているんだろうか。

もちろんわたしはわかりたくもないけれど。


「何言ってんの、当たり前でしょ! お金が無かったら、バスも電車もタクシーも乗れないんだよ」


ここから海に行くには、なんでもいいから交通機関を使う必要がある。

だけどそれにはお金が無ければ乗れなくて。

当たり前、そんなもの常識。

小学生どころか、もっと小さな子どもだって知ってることだ。

朗がまた、考え込むように口をつぐんだ。

わたしはその後ろで、彼に聞こえないように小さく息を吐く。



この人は、一体何を考えているんだろう。

何かしらを思い浮かべているようだけど、まともなことを考えているとは到底思えない。

なんだってこんな常識はずれで的外れなんだ。

わたしが言えた義理じゃなくても、言いたくなるくらい、馬鹿馬鹿しい考え。



「なあ、夏海」


ふいに朗が、足を止めてくるりとわたしに振り向いた。

驚きながらもなんとかぶつかる前に立ち止まると、朗は覗き込むようにわたしに顔を近づけてくる。


反射的に半歩後ずさる。

綺麗な顔が、それはもう言葉通り目と鼻の先にあって。


黒い長めの前髪が、瞬きと一緒にゆらりと揺れる。



「お前、自転車は乗れるか?」


「え……?」


唐突な質問に言葉を詰まらせると、朗は「どうなんだ」と低く呟き、さらに顔を近づけた。

そのせいかどうか知らないけど、なんだかうまく働かない思考の中。


「の、乗れるけど……いちおう……」


家から学校までは、いつも自転車で登校していた。

今日もここまで、いつもと同じように、いつもと同じ道を通って、その自転車でやってきたから。

わたしの自転車はいつも通り、学校の駐輪場に停めてある。


「すぐそこにわたしの自転車、あるし……」


そろっと指で駐輪場の方向を差すと、朗はつられてそちらに目を向けた。


「そうか、ならいい」


それからゆるりと微笑んで、再びわたしの手を取り歩きだす。

わたしは彼の冷たい手に引かれながら、必死で頭を働かせていた。

戸惑いながらも、頭の中は、徐々に冷静になっていく。

そして気付く。