それで、おれはようやくほっと胸を撫で下ろした。

「うわ……女のくせして下痢とか言うなよ」

とおれがクックッと肩で笑うと、翠はいつもの如くおれが座っている椅子の脚をガスガス蹴っ飛ばした。

「てかさあ、補欠こそ何でここに来たわけ?」

「あー、うん」

「あ! 補欠も下痢か?」

「んなわきゃねえだろ! 帰ろうとしたら、健吾が教室に幽霊居るとか言うから」

野球部代表で偵察に、なんておれは嘘を言った。

「で、翠は何でこんな時間まで残ってるわけ? 電気も付けてないし」

「だから、会いたい幽霊がいるって言ったじゃん」

「へえ……で? 会えたか? その幽霊に」

そう言って翠の方を振り返ろうとした時、

「こっち見ないでよ、スケベ! あたしのこの美しい顔を拝もうなんざ、5万年早い」

と翠は言い、おれの後頭部を平手打ちした。

おれは叩かれた後頭部を掻くように撫で回し、窓の外に視線を游がせた。

真っ暗だ。

なのに、教室は月明かりのおかげで仄明るい。

その時、背後から翠がぼそぼそと訊いてきた。

「ねえ、補欠。あの年上の女と付き合うの?」

「えっ」

おれの心臓はぎくりと音を立て、急激に鼓動の速度を早めた。

「付き合うの?」

翠の声が僅かに震えていて、次振り向いた時、翠が居ないような気がして怖くてたまらなかった。

「答えろよ、補欠」

「……付き合わねえよ。涼子さんとは付き合う気ないから」

「何で?」

「おれ、好きなやついるから」

そうなんだ、と翠は言い、馬鹿じゃないの、と今度は強気な口調でおれを攻撃してきた。

「補欠の好きなやつって美人? あたしも知ってる人? あゆより美人?」

「さあ……でも、フランス人形みたいなへんな女」

とおれが笑うと、つられてしまったのか翠も笑った。

「ほう、フランス人形?」

「そう。翠は? 好きなやつ居る?」

「教えない。てか、あたしはさあ、基本的にイケメンが好き」

「例えば?」

「タッキーとか山ピーみたいな王子様! これ、必須条件」

翠は珍しく穏やかでゆったりとした口調で言い、鼻をすすった。