今、すぐ目に届くそこに、翠がいる。

おれはちらりと横目で翠を見た。

翠はパイプ椅子に腰掛けて、携帯電話をいじっていた。

へんな女だけど、おれはたまらなく翠が好きのだ。

「いや。でも、おれ……」

すいません、と断ろうとした時、翠がパイプ椅子からガタリと立ち上がった。

「補欠、携帯かしな」

「は?」

おれの学ランの胸ポケットから、翠は勝手に携帯電話を引っ張り出した。

「翠! 勝手に触るなよ、返せ」

携帯電話を取り返そうとして手を伸ばすと、翠はおれを巧みにかわし、若奈さんに携帯電話をぽんと投げた。

「はい、若奈ちゃん」

「えっ! わわっ」

それを慌てて若奈さんがキャッチした。

「よかったじゃん、補欠! ファンは大切にしときな」

と翠は言い、おれの左肩を手加減なくバシバシ叩いて、豪快に笑った。

「だからって、お前……人の携帯勝手に」

すいません、返して下さい、とおれが若奈さんに左手を差し出すと、その手を翠が引っ込めた。

「いいの! いいの! 若奈ちゃん、早く交換しちゃって」

涼子さんは目を丸くして、不思議そうに翠の顔をじっと見つめていた。

おれが不機嫌な顔をすると、

「交換しちゃえばいいじゃんか! あんたみたいな補欠エース、他に誰も相手にしてくんないって」

一生に一度の大チャンスかもよ、と翠はわざとらしく声のオクターブを上げた。

「この人と付き合っちゃえば? おめっとさーん」

その言いぐさにおれは不覚にもムッとして、翠を睨み付けた。

「何だよ、それ! すっげえイラつくんだけど」

「あ、そりゃ失礼しましたね! まあ、あたしにゃ、関係ない事だからさ」

仲良くやっちゃって、そう言って、翠はげらげら笑いながらパイプ椅子に座った。

自惚れていたのかもしれない。

おれは野球くらいしか取り柄のないやつだけど、何となく分かった。

秋の風がいつになく冷たい温度で、おれと翠の数十センチばかりの狭い空間を、適当に投げやりに吹き抜けていった。

おれが翠を好きでも、翠の目にはおれなんか映ってないんだな。