翠の細っこい指が、フェンスをぎっちりと握り潰していた。

こっちが表情を歪ませてしまうほど、強い力で。

いつだって、おれはそうだ。

あの春色の朝の教室で、翠から焼きたらこ入りのおにぎりを貰った日から、毎日だ。

突っぱねるくせに、気付けば常に、なぜだがひどく彼女を気に掛けてしまう。

フェンスというすかすかで穴だらけの壁を隔てて、必死に何かを堪えている翠を見ると、このまま無視して投球練習なんておれにはできそうにないのだ。

何より、気になって気になって、絶対、集中できそうにない。

ましてや、帰れ、なんて絶対に言えないのだ。

「しょうがないな。何だよ、言ってみろ」

と根負けしたような声でおれは言い、利き手の左腕を上げて向こうの健吾に大きくジェスチャーした。

「健吾ー、悪い! 少しだけ時間くれ」

すると、健吾は青いキャッチャーミットをぶんぶん左右に振って、返事をしてきた。

それは「了解」という意味を持つジェスチャーだ。

長年連れ添った夫婦みたいなバッテリーが故に、こんなふうにジェスチャーだけで通じ合える事も多い。

「翠、おれ、早く練習したいから手短に頼むな」

と右手にグローブをはめながらフェンスに歩み寄ると、翠は一気に明るい笑顔になった。

喜怒哀楽の激しい女だ。

「聞いてくれんの?」

「だって、一生のお願いなんだろ」

「イエース!」

やわらかそうな髪の毛を金色に弾ませて、彼女はいつもの調子を取り戻した。

「一生のお願いだかんね!ちゃんとききなさいよ」

「ああ、いいよ。でも、無理な事はきいてやれないからな。できる範囲の事で頼むな」

「任して」

そうでも言っておかなければ、絶対に後が怖い。

翠は毎日毎日、幾つものお願いをしてくる。

床に落としてしまった消しゴムを拾え、とか、宿題を写させろ、だとか。

それらはまだ全然可愛い方だが、その中にはとんでもなくびっくりさせられるような、訳の分からないお願いも多々存在するのだ。