「おす。頑張ります」


そう言って、おれは涼子さんに左手を突き出した。


「期待しています」


おれと涼子さんは、夏を約束した。


大部屋に入ると想像していたよりも賑やかで、ひっくり返りそうになった。


でかいクーラーボックスに、どでかい氷が入っていて、それを相澤先輩が金槌で砕いて機械に入れる。


機械から出てくる新雪のような氷をカップに入れるのは、ねじりはちまきをした本間先輩で。


これは、かなりレアだと思った。


2年前のエースと、1年前のエースがタッグを組んでかき氷を作っているのだから。


いちご、れもん、めろん、ブルーハワイのシロップが畳の上に並んでいた。


「お、夏井!」


おれに気付いた本間先輩が、威勢のいい声で笑った。


「ほらほら、夏井も早く並べ! なに味がいいんだ?」


「じゃあ、いちご」


だって、この色、あのタチアオイと同じ濃いショッキングピンクだから。


「よーし! 夏井には特別だ。超特大にしてやる」


そう言って、本間先輩は本当にてんこ盛りのかき氷を作ってくれた。


「これ食ったら、腹壊しそうなんですけど……」


「響也ばっかずるいっすよ! 本間先輩、おれにも」


健吾が食べ掛けの氷めろんを本間先輩に突き出した。


「これに足して下さい」


「しょうがねえなあ、岩渕は」


なんて言いつつも、本間先輩は額に汗を滲ませながら楽しそうに笑ってばかりいた。


本間先輩の背後に寄り添うように立っていた涼子さんの幸せそうな顔が、ひどく印象的だった。


2人の幸せを、心底願った。










午後21時。


「明日は6時に起床。飯は7時」


岸野からの諸連絡を受けて、消灯時間になり、大部屋は別世界のようにしんと静まり返った。


すでに寝息が聞こえる。


おやすみ3秒かよ、とおれは布団の中でこっそり笑った。


それくらい、みんなは疲れているのだ。


明日はついに決勝だってのに、おれはさほど緊張していなかった。


むしろ、穏やか過ぎた。


霧たちのぼる秋の夕暮れの海のように、心は穏やかに凪いでいた。


次第にまぶたが重くなり、体が布団に沈み始めた時、違和感を感じた。


とろとろとした微睡みから、ハッと我に返った。


「お前、誰だ」


暗闇の中、目を凝らしてみると真横に大きな目があって、ギンギンとした瞳がおれを見つめていた。


「夏井せんぱーい……」


ギャー、と大声を出しそうになった。


右横からもぞもぞとおれの布団に侵入してきたのは、後輩の勇気だった。


「バカ。入ってくんなよ」


両手ででかい体を押し出すと、勇気はめげることなくさらに侵入してきた。


「助けてください。緊張して寝れないっす」


「わ、分かった。分かったから、そんなに顔近付けんなよ。暑苦しいって」


たたでさえ真夏の熱帯夜で苦しいってのに。


おれは寝返りを打って、勇気に背中を向けた。


「夏井せんぱーい」


情けない声を出して俺の体を這いつくばり、移動し、勇気はまた顔を近付けてきた。


「明日、打てなかったらどうしよう……フライ落としたら……どうしよう」


「勇気なら大丈夫だって。落ち着いてやれば、大丈夫だろ」


「でも、寝れないっす」


「勇気」


さすがに少し大きな声を出してしまった。


その時、左隣に寝ていた健吾が寝惚け声でうるせえぞ、と苦情を漏らした。


「健吾、何とかしてくれよ」


おれだって、困っているのだ。


「ああ?」


「勇気、緊張して寝れねえんだとさ」




はあ、と大きな溜め息をもらして、なぜか健吾までもがおれの布団に侵入してきた。


「暑っつ……」


うんざりだ、と落胆した。


「よし、響也、勇気。前夜祭すっか」


明日の決勝。


お前は最後の一球に、一打に、何をかけると健吾が訊いてきた。


「ちなみに、おれは野球人生をかける」


と健吾は言い、フフンと鼻で偉そうに笑った。


「勇気は?」


健吾が訊くと、ややあってから勇気が小声で答えた。


「そっすねえ。おれは、南高校野球部の固い絆」


「けっ。年下のくせに生意気だな」


健吾がバカにしたように笑うと、勇気はすねたようにフンと鼻で返した。


2人に挟まれながら、おれは笑った。


「なに笑ってんだよ」


左から健吾、右からは勇気にドンと肩を小突かれた。


「そういう夏井先輩は、何をかけるんですか」


おれは何も答えず、ぼんやりと暗い天井を見つめた。


明日の決勝に、おれは何をかけたいのだろう。


翠のように、人生をかけてみようか。


それはそれは、数えきれないほどの案が止めどなく思い浮かんだ。


右からも左からも、痛いほどの視線を感じる。


しばらく沈黙がながれ、健吾が眠ってしまったようだった。


すうすう、寝息が聞こえてきた。


そのあと間も無く、勇気も眠りに就いたらしかった。


ぐうぐう、寝息が聞こえてくる。


言い出しっぺが先に寝てら。


一度だけククッと笑い、おれもそっとまぶたを閉じた。


大部屋は甘い香りに包まれていた。


かき氷のシロップの残り香だ。


「その瞬間になんねえと、わかんねえや」


ぽつりと呟いて、おれも眠りについた。


3人、川の字になって眠っていると、まるでグラウンドに居るような気分になった。


左に捕手、右に中堅手。


真ん中に、投手。


これが、今のおれの、青春ラインだ。


淡い微睡みが深い眠りに入る瞬間に、おれはまぶたの裏にある光景を見た。


7月下旬、晴天下。


地は渇き、灼熱の大地。


青い空を、白球が駆け抜けて行った。


おれはマウンドに立ち尽くして、その一球を目で追い掛けていた。


あの一球に、おれは何をかけるのだろう。







夏が本格的に始まったと実感したのは、朝目覚めた時だった。


「起床ーっ!」


花菜のキンキン声は、どんなところでもよく通る。


「あー! すっげえ寝た」


ぐああと大あくびをしながら、岸野がテレビのリモコンのスイッチを入れた。


大部屋の窓は全て開け放たれていて、早朝の新鮮な空気が入ってくる。


「おい! みんな、見ろよ」


岸野が楽しそうに、テレビを指差した。


おれも布団から体をお越し、まだ寝惚けている健吾と勇気を転がして、テレビの画面を見つめた。


『東北地方も梅雨明けになったと、気象台より発表になりましたね』


地元ローカル放送のキャスターが、爽やかにそう言った。


わあっと盛り上がり、ナインが窓辺から身を乗り出した。


無限大の青空が広がっていて、白く清潔な雲が浮かんでいる。


近くの街路樹からは、すでに蝉時雨がながれていた。


ついに、梅雨が明けた。


「決勝の日に梅雨明けかよ」


「なんか、ツイかも」


「つうか、絶対暑くなるよな」


次々に、声が飛び交う。


朝飯を食って大部屋に戻り、おれたちは旅館を後にする支度を始めた。


私物をバッグにしまい、布団をおこし、大部屋の掃除を全員でした。


これは、南高校野球部代々から続いていることだ。


世話になった部屋はきれいにしてから、去ること。


礼儀は忘れないこと。


感謝の心を持つこと。


そして、9時半になり、各自ユニフォームに着替えはじめた。


みんなの様子が、これまでとは違うことに気付いた。


何か吹っ切れたような、清々しい顔だ。


みんな、いい顔をしている。


普通の高校生がユニフォームを身に付けたとたん、野球の魔物にとりつかれるのだ。


へらへらしていた緊張感の欠片もないこいつらの目が、キリリとつり上がり、背筋が伸びている。


こいつらは、切り替えが凄まじく上手い。


岸野は、特に。


「じゃあ、県立球場に向かう前に、旅館の人にあいさつするから、玄関に集合」


忘れ物するなよ、そう言った岸野は、口調まできびきびしている。


玄関先に大型バスを待たせて、おれたちは旅館の人たちに誠心誠意の気持ちで頭を下げた。






ありがとうございました







スポーツバッグを背負い、バスに乗り込み、おれたちは一言も交わさずにいい緊張感に包まれて、県立球場へ向かった。


白黒をつけるために。


深紅の優勝旗を、手にするために。










県立球場に到着しバスを降りると、1人の女子高生が待っていたかのように、勇気に向かってきた。


「岩崎くん」


白いワイシャツに燕脂色の蝶ネクタイ。


紺色のスカートに、ハイソックス。


1回戦でおれたちに敗北した明成高校の制服だ。


「頑張ってください」


この夏、大活躍の勇気のファンなのだと悟った。


こういう事はよくあって、夏の風物詩みたいなものだったりする。


相澤先輩の時は人だかりができるほどだった。


「どうも」


勇気の無邪気な性格からいってへらへらするのかと思いきや、勇気は冷静な面持ちで真っ直ぐな目をして先を急いだ。


こいつ、すげえ集中してんだ。


背番号8が、やけにでっかく見えた。


夏の陽射しを受けながら、おれたちは3塁側ベンチに入った。



練習を終えた正午すぎ、晴天。


超満員の応援スタンド。


土の地は渇き、歩くだけで汗ばむ熱気だ。


一通り変化球の確認を終えて、おれはブルペンの片隅から場内を見渡した。


ぐるりと一周。


すげえってもんじゃねえや。


これが、夏の決勝か。


そう思いながら、違和感のある左肩に右手でそっと触れた。


もう、笑いさえ込み上げてくる。


肩が、ぐつぐつ煮込まれたように熱いのだ。


前日、花菜から教えてもらったその数字を聞いて、さすがにびっくりした。


今大会が始まってから、5試合、おれは計664球を投げていたのだ。


この肩がいつまで持つか、この一試合を無事に終えることはできるのだろうか。


そう考えずにはいられないほど、おれの肩は限界寸前だった。


体はおれのものなのに、左肩だけ知らない人のやつをつけているみたいだ。


でも、健吾のミットに向かえば体はスムーズに動いてくれて、球は走っていた。


先攻なので先にシートノックを終え、ダッグアウトに戻り、後攻の西工業のシートノックを見守った。


小技をきかせた守備と詠われることだけのことはある、そう思った。


特に、二遊間のコンビネーションは、桜花の二遊間の堅さを抜いていた。


試合開始15分前、渇いたグラウンドに水が撒かれた。


スプリンクラーから噴射される水は、太陽の陽射しを受け白く輝き、グラウンドを焦茶色に濡らした。


ダッグアウトから出て、空を見上げた。


梅雨明けしたばかりの夏の空には濃い雲が浮かんでいて、少しずつその形を崩しながら移動していく。


ふわふわした雲だけではなく、薄く掃いたような筋雲も広がっていた。


ざわめきと歓声。


場内は物々しい雰囲気に包まれていた。



バックスタンドの電光掲示板。


両高校の校旗が掲げられ、熱をはらんだ風にパタパタとはためいている。






第90回線

全国高校野球選手権大会

県大会 決勝



13:00 試合開始







もう、どれくらい野球をしてきたのか、どれくらいボールをこの手から放ってきたのか。


考えると、気が遠くなりそうだ。


52校出場した今大会。


すでに50校はやぶれ、今、2校だけが県立球場の土を踏んでいる。




 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

西工業







白球を握らなかった日は、ない。


圧勝したことも、惨敗したことも、接戦にくじけそうになったこともある。


三者連続三振に押さえたこともあるし、メッタ打ちされコールドゲームに崩れた日もあった。


野球の怖さに潰されそうになったこともあったし、逆に野球のおもしろさに翻弄されたこともあった。


泣いた、笑った。


笑って、泣いた。


惨めさに、左腕をもぎとりたくもなった。


でも、どんなことがあっても白球を握らなかった日は、なかった。


「おい、響也」


健吾が、おれの肩を抱いた。


「おれ、お前と野球やってきた事、今日ほど有難いと思ったことないぜ」


「おれも」


それ以上、おれたちは何も交わそうとせず、ただその瞬間を待った。


試合開始の瞬間を。


「響也!」


もう試合開始直前だってのに、花菜がキンキン声を上げて、おれに携帯電話を差し出してきた。


「出て」


「誰?」


「お兄ちゃんから」


相澤先輩?


集中力を切らさないように、おれは携帯電話を左耳に当てた。


走っているのだろうか。


ハアハアハアハア、切れる息づかいが聞こえてきた。


「相澤先輩」


おれが言うと、すぐに返事が返ってきた。


『夏井か?』


「おす」



『今、ちょっと寄ってくとこができて。だから、応援行くの少し遅れる』


そんなこと、わざわざ電話してこなくてもいいのに。


「分かりました」


『だから、おれが行くまで絶対負けんじゃねえぞ! 5回までにはそっちに行くから』


「相澤先輩?」


『おれが行くまで、西工業に点数やるんじゃねえぞ! 死ぬ気で投げろ』


それだけ言って、相澤先輩は一方的に電話を切った。


「なんだ……?」


訳もわからす呆然とするおれの背中を、岸野が叩いた。


「時間だ」


「うん。花菜」


携帯電話を花菜に返して、おれはベンチ前に整列した。


死ぬ気で投げろ、か。


そんなこと、言われなくても分かってる。


「集合!」


主審がホームベースの正面に立ち、声を張り上げた。


1塁側からは西工業、3塁側からは南高校が、全速力で集合した。


13:00


灼熱と化した地に、アナウンスが流れる。


「只今より、先攻、県立南高等学校、対」


おれは息を呑んだ。


「後攻、県立西工業高等学校の、決勝戦を開始致します」


「お願いします!」


場内に響いたサイレンは、まるで魔物の遠吠えのようにけたたましかった。


わああっ、とわいた場内の歓声の下、西工業ナインはグラウンドに散らばり、南高校ナインは先頭打者イガを残して、ベンチへ下がった。


西工業のエースは、右腕のコントロール投手だ。


スピードは決して速いとは言い切れないが、際どいコースを突く投球をしてくる。


バッターボックスの横に立ち、イガがフルスイングした。


監督からのサインは、またしても、塁に出ろ。


「プレイ!」


西工業のエースが一球目を投じた瞬間に、ああっと花菜が声を漏らした。


野球は、いつ何が起こっても不思議ではない。


けれど、初球から思わぬアクシデントが起こった。