せっかくのムードも、ことごとく台無しだった。


「お母さん、ナイス」


と翠は白い歯をこぼれさせて、親指を立てた右手を高く突き上げた。


さえちゃんもピースを翠に返す。


おれは額を押さえて、吹き出る汗に呆れていた。


翠との再会の時間は、夢のように急ぎ足で過ぎていった。


準決勝の話をしてやると、翠は楽しそうに笑ったり、ハラハラしたり、そして、最後は泣いた。


「野球って、すげえなあ」


そう言って、嬉しそうに泣いていた。


野球のルールもろくに分からないくせに。


そんな翠が愛しくて、おれは終始にやにやしていた。


花瓶に生けられたタチアオイの花が、西陽に照らされて淡く発光していた。


「あ、もう6時か。おれ、7時までに旅館に戻らないといけなくて……翠?」


疲れてしまったのだろう。


野球の話ばかりしていた自分に、呆れてしまう。


もっと、たくさん話したいこと、伝えたいことがあったのに。


翠は西風に吹かれながら、気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てていた。


眠り姫の額をそーっと撫でて、誓いの口付けをしてみる。


「翠。明日、楽しみにしとけよ」


絶対、甲子園に連れてってやるからな。


「さえちゃん、ごめんな。もうそろそろ行くよ」


おれがパイプ椅子から腰を上げると、さえちゃんも立ち上がった。


「うん。今日は来てくれて、本当にありがとうね」


「ううん。来て正解だったよ。なんか、すっげえやる気出た」


そう言って、おれは左手をぎゅうっと握った。


肩が痛い。


でも、まだやれそうだ。


「明日、優勝持って、翠に会いに来てよ」


分かってる、そう言って、おれはさえちゃんとハイタッチしてから病室をあとにした。