マウンドに向かおうとしたおれの背番号を、花菜が凄まじい力で引っ張った。


「翠ちゃんが、目、開けたって」


「え……」


「意識が、戻ったって」


「なに……」


振り向くと、花菜の頬を涙なのか汗なのか、1粒の滴が伝って落ちた。


「少し、話もしたって。今、結衣ちゃんからメールが来て」


そう言われて、慌てて応援スタンドを見上げた。


右から大急ぎで左へ視線を流す。


わかんねえや。


700人以上もの人がいる中では、さすがに派手な結衣も明里も、どこにいるのか検討すらつかなかった。


花菜が、おれの左肩を叩く。


「結衣ちゃんも明里ちゃんも、病院に向かったよ。お兄ちゃんが乗せて行ったみたい」


そう言って、花菜は携帯電話を握りしめて肩をすくめた。


「ごめん、響也。今、この土壇場だってのに。言わない方がいいって思ったんだけど」


「花菜」


「ほんとに、ごめん」


おれは1つ深呼吸をして、空を見上げた。


翠。


お前は、すげえ女だ。


「響也ー! 何やってんだよ! おれらの守りだぞ!」


ホームベース前に立っていた健吾が、ミットを振ってきた。


ナインはもう、自分の戦地へ散らばっていた。


花菜が泣きそうな目で、おれを見上げていた。


「そんな顔すんなよ」


おれは花菜の頭をグローブでポンと叩いて、笑った。


「教えてくれて、ありがとう」


「え……?」


花菜がすっとんきょうな声を漏らして、豆鉄砲をくらったような顔をした。


翠の事を伝えれば、おれが動揺して集中力を途切れさせてしまうと思っていたのだろう。


確かに、動揺していたのは間違いではない。


でも、自分でも驚くほど、おれは冷静だった。


「この一戦だけは、譲れない。どうだ、それ見たかって。翠に、胸張っていたいから」


本当は今すぐにでも、この試合を放棄して翠のところへ行けたら、どんなにいいのだろう。


でも、今はどうしてもできない。


あと、4イニング残っている。


あと、3点差がある。