「な……夏井先輩っ」

「何だ」

「夏が……夏がありますよ」

おれは振り向かずにはいられなかった。

勇気が、泣いていた。

「バカ! 何でお前が泣くんだよ。夏が終わったら、今度はお前が引っ張って行かないといけねえんだぞ」

お前にはもう一回春が来る、とおれは笑いながら泣く勇気に言った。

勇気は広い肩幅を小刻みに震わせながら、乾いたグラウンドにぽつりぽつりと涙の粒を落とした。

「でも、夏井先輩と同じフィールドで一緒に甲子園目指せるのは、あと1回しかないんすよ!」

「勇気?」

「おれは、夏井先輩と野球がしたいっす! そのためにこの8番、死ぬ気で勝ち取ったんすよ。年下扱いすんな!」

「勇気……」

「夏井先輩と甲子園に行きたいっす! 夏井先輩と岩渕先輩がおれの目標なんです! 泣いてる暇なんかないっすよ」

そう言ってるのに、勇気はさっきよりも激しく泣いた。

そこにべったり座り込んで。

「立て、勇気」

おれはアンダーシャツの袖で涙を拭い、勇気の肩を抱いてグラウンドを後にした。

「勇気、夏は甲子園決めるぞ」

「当たり前っすよ!」

涙に濡れたユニフォーム姿で、おれと勇気は自転車で急勾配を下った。

でも、おれは家には帰らず、逆方向の病院へ向かった。

翠は無事に手術を終えただろうか。

まんまるにでっぷり太った月が、暗い夜道をぼんやりと浮き彫りにしていた。









おれは重たい足を引きずりながら、夜の仄暗い病棟を歩いていた。

もう夜の7時半を過ぎていて、気味が悪いほど落ち着いた廊下だ。

歩いているとすれば、涙に濡れた後の背番号1と、夜勤勤務の看護師さんくらいだ。

翠にどんな顔をして会えばいいのか、そればかりを考えて病室に入った。

「あれ? 翠?」

明かりのない、仄暗い病室。

置き去りにされた、翠の私物。

花瓶に生けられた、秋桜とガーベラ。

洗面台の歯ブラシとプラスチックのコップ、歯みがき粉。

脱け殻になった、パイプベッド。

翠が居ない。

いつも、どんな時も、おれに微笑みかけてくれる翠の姿がなかった。