幽香の庵

 けれど店内のどこを見ても、私と凪さん以外の人は見当たらない。

「あっはっはっは……! おっかし。やっぱり初めての人はそういう反応をするよね。黙ってた甲斐があったじゃん、カク」

 凪さんはお腹を抱えて笑い、姿の見えない誰かに同意を求める。

「話しかけたいところ、ずっと黙ってた僕は偉い!」

 何……? 誰が喋ってる……?

 キョロキョロと店内を見回した私は、壁に飾られてある鹿の頭にウインクされて「うわっ!」と声を上げて立ちあがった。

「凪さん……っ、鹿っ、鹿の頭がっ!」

 私はワナワナと手を震わせ、鹿の頭を指さす。

「彼はカク。話せるんだ」

「話せる!? 百歩譲って鹿が話せるとして、首だけですよ!?」

「そういう事もあるって」

 項垂れていると、カクが話しかけてくる。しかも妙に声がいいので悔しい。

「僕は色々と事情があってここにいるんだ。凪も訳アリだし、お互い話し相手になっていい関係を築けているよ」

「はぁ……、そうですか……」

 まだ引き気味に頷いた時、ドアベルがカランカランと明るい音を立てて鳴った。

 ビクッとした私は、カクが「お客様のご来店」と言ったのを思い出す。

 入店してきたのは、身長一八十センチメートルはありそうな、スポーツマン風の若いサラリーマンだ。彼は不思議そうに目を瞬かせ、店の中を見てキョロキョロしている。

「……あれ? えっ!?」

 精悍な顔立ちの男性の年齢は、二十代半ばぐらいに見える。

 結構好みかもしれない。

 ……というか、どこかで見た事がある……?

 ……いや、気のせいか。こんなに好みの人なら忘れるはずがない。

「どうして……、俺……。あれ?」

 彼は外を確認し、また中を見て首を傾げる。そんな彼に凪さんが声を掛けた。

「いらっしゃい。せっかく店に来たんだから入って。……にしても、凄いのが来たね」

 そう言われては断れないと思ったのか、人の良さそうな男性は戸惑った様子でドアを閉めた。彼は商品が置かれてある棚を不思議そうに見ながら、首を傾げて言った。

「……俺、居酒屋に入ったつもりだったんですが」

「今日は居酒屋には行けないと思うよ。そういう日だと思って」

 凪さんは例によって謎めいた言い方をし、男性に「そこに座りなよ」と私の隣を示す。

 男性はしばし店内を見回していたけれど、私と目が合うと「どうも」と会釈をした。

(……あ、いい匂いがする)

 男性が隣に座った時、フワッと清涼な香りがした。