幽香の庵

 日曜日の午前中でも、新宿三丁目は人でごった返している。

「……ん?」

 私は道行く人々に混じって、様子のおかしい人がいるのに気づいた。

「……ねぇ、光輝さん。あの人って見えます? ちょっと髪がボサボサした感じの……」

 彼に耳打ちをすると、光輝さんはとても微妙な顔になり、小声で返事をした。

「視えるようになったの? あれ、生きてる人じゃないよ」

 ヒッ!

「凪さぁん!」

 私は出てきたドアを開き、店に駆け込む。

「あれ? 感動のお別れをしたんじゃないの?」

 カクに言われ、私は目を白黒させながら表を指さす。

「わた……っ、私……っ、幽霊視えるようになってる!」

 すると商品にはたきを掛けていた凪さんは、あっけらかんとして言った。

「そりゃあ、あれだけ長く二重にいれば、霊的なものに適応するよねぇ。まぁ、大体は無視してれば害はないから」

「そんなぁ……!」

 頭を抱えてしゃがみ込む私を見て、カクは愉快そうに笑っていた。コンニャロウ。





 帰り道、光輝さんは「送るよ」と言って他の人と一緒に新宿駅まで同行してくれた。

 神野さんは地下鉄で帰るらしく、「色々悪かった」と言ってから雑踏に紛れていった。

 歩いている間、通行人に交じって色んな〝人〟が視えた私は、新しい世界を知ってクラクラしている。

(でも、今の私は生身なんだな。ちゃんと他の人に認識されて、呼吸して、心臓が動いていて、お腹一杯になってる)

 生きている実感を味わうと、この上なくホッとする。

 と、歩きながら光輝さんが言った。

「俺、会社を辞めて神職に向き合ってみるよ」

「ホントですか?」

 目を丸くして聞き返すと、彼は決意した表情で微笑む。

「兄貴を送ったあと、家族と話して仲直りできた。都合良くつらい事を忘れて、一人で気楽に過ごしていた事も謝ったし、わだかまりはなくなったと思ってる」

「それなら良かったです」

「今まで俺が社会人として働けていたのは、兄貴の口添えがあったからだ。……でも、もう十分に経験を積んだし、本当に自分がすべき事に本腰を入れていきたい」

「光輝さんが決めたなら、応援したいです」

「ありがとう」

 話しながら歩く私たちを、先を行く柚良、緋一さん、沙織さんが優しく見守っていた。

 金曜日の夜に不思議な店に出会い、怒濤の一日半だった。

 一緒に過ごした期間は短いのに、私たちは前からの知り合いのように笑い合っていた。





 たわいのない話をしながら歩き、私たちは新宿駅に着く。

「千秋、体力が戻るまでもう少し休みなよ? また大学でね。そんで、お茶しよ!」

「うん!」

 柚良は手を振ったあと、先に歩いていく。

「色々迷惑をかけてすまなかった。光輝はまた会社で、千秋ちゃんは凪さんの店や、沙織の店で会おう」

「今度、またゆっくり『フルール・カナン』に来て。自慢の料理があるし、映え料理や飲み物もあるから。柚良ちゃんとも連絡先交換したし、今度女子会しましょ」

 緋一さんと沙織さんに言われ、私は「はい!」と返事をした。

 二人は笑顔で手を振り、先に駅に入っていく。

 そして私は光輝さんと向き合った。

「じゃあ、ここで」

「本当に送っていかなくて大丈夫?」

「平気です。……また会ってくれますか?」

「勿論、いつでも連絡して。神社にも来てくれると嬉しい」

「はい!」

「あと……、これ」

 光輝さんはポケットに手を入れ、小さな紙袋を渡してきた。

「なんですか? 開けてみても?」

「どうぞ」

 袋を開けると、中には香水が入ったアトマイザーと、蜜柑と葉のマークがついた細長い布袋が入っていた。

「兄貴がつけていた、うちの神社の〝橘〟っていう香水。お守り代わりに持っていて」

「……はい!」

 思い入れのある大切な香りをくれたのだと思うと、とても嬉しい。

 光輝さんは優しい目で言う。

「橘は『不老不死』という花言葉があって、雛壇にも飾られているし神様にも関わりの深い植物だ。……それに『追憶』という花言葉もある。……あの時、兄貴の姿を見られたのは家族と千秋ちゃんだけだ。……どうか、最期の姿を忘れないでほしい」

「分かりました」

 香りに込められた光輝さんの想いを知り、私は微笑む。

「じゃあ、……また」

「また!」

 私は光輝さんと手を振り合い、それぞれ別の方向へ歩いて行く。