幽香の庵

「えっ? 真剣?」

 驚いて尋ねると、光輝さんは迷いが晴れた表情で笑った。

「模造刀だよ」

 彼は微笑むとたすきを巻き、表情を引き締めると〝彼〟を見る。

「全力でやるから、見てて」

 それに〝彼〟は小さく頷いた。

 光輝さんは拝殿に向かい、二礼二拍手をし、しばし間を空けてから一礼をした。

「掛(か)けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小戸(たちばなのおど)の阿波岐原(あはきはら)に……」

 彼が凜とした声で祝詞を唱え始めた時、ポツポツと小雨が降ってきた。

 空を見上げると、ほんの小さな雲はあるけれど、夜空がくっきりと見える。

 昼間だったら「狐の嫁入りだ」と思っただろう。

 いびつな形の月は滲むように光っていて、月光に照らされた中、光輝さんは全神経を集中して祝詞を唱えていた。

 私が見守るなか、カクを降ろして金色の目になった光輝さんは、鞘に収めたままの刀を両手に持ち、恭しく拝殿に向かって捧げる。

 そして腰に手をやり、目の前の空間を見据えたあと、目にも留まらぬ速さで抜刀した。

 ライトアップされた中、小雨が煌めきながら降り注ぐ。

 その中で光輝さんは一心不乱に刀を動かし、神様の前で見えない穢れを祓い、切っていく。模造刀を振るとビュッと風を切る音がし、雨の雫が輝きながら飛ぶ。

 引き締まった彼の横顔は、真剣にお兄さんについた呪いを断ち切ろうとしている。

 それでいて、これが本当のお別れになると悟ってか、悲しみをグッと堪えているように見えた。

 その時、背後から足音が聞こえたかと思うと、八十代の男性に五十代半ばの男性、二十代の女性が息を切らして境内に入ってきた。

「……光輝……」

 きっと光輝さんのご家族だろう。

「……やばい。お兄ちゃん、物凄いのが降りてる。……神様?」

〝視える〟らしい澄佳さんは剣舞を舞っている光輝さんを見て呟いたあと、ハッと黒い靄――和輝さんと私のほうを見た。

 思わずペコリと会釈をすると、彼女は驚いたように目を見開き、会釈を返す。

(意思疎通できるんだ)

 理解した私は、人差し指を唇の前に当て、黙って見守ってくれるよう頼んだ。

 頷いた澄佳さんは、祖父と父に伝える。

「お兄ちゃん、いま大事なお祓いをしているの。人ではない何かを体に宿して、一生懸命やってる。だから絶対に邪魔しないで」

 娘に言われ、父は静かに頷いた。

 集中している光輝さんは家族が来た事に気づかず、片足を軸に半円を描くように体を反転させ、目の前の空間を切り裂いてからダンッと一歩踏み込む。

 光輝さんが刀を振るうたび、神域の空気がどんどん澄み渡り、ここが東京である事を忘れそうなほどだ。

 雨粒を飛ばし、真剣な目で見えないモノを切り続けた光輝さんは、最後に大きくジャンプをして大きな敵を切り裂いた。そして息を乱しつつ一旦刀を鞘に収め、拝殿に向かって刀を捧げたあと、迷い人――和輝さんに向き直った。

「……兄貴、今までありがとう」

 不思議と、都内の喧噪は消えていた。

 神々しいまでの静けさと神気に包まれた境内で、光輝さんはお兄さんに一礼する。

「…………あるべき所へ、お還りください」

 彼はそう呟いたあと、スッと刀を振り下ろした。

「あ……っ」

 声を漏らしたのは誰だろうか。

 二メートル近くあったいびつな黒い靄は、その輪郭を大きく揺らして崩れていく。

 崩れた黒い靄は神気に晒されて宙に溶け、その奥から一人の男性が姿を現す。

 シャツにジーンズ姿の若い男性は――。