幽香の庵

「千秋の体の居場所を教えてくれた迷い人、まだ外で〝待ってる〟よ」

「あぁ、あの、珍しくいい匂いがする人」

 私は電車の中で鼻先をかすめたオレンジの香りを思いだす。

「いい匂いって?」

 光輝さんは私の言葉を聞き、怪訝そうな顔をする。

「普通の迷い人は酷い匂いがしていたんですが、あの迷い人は、オレンジみたいないい香りがしたんです」

 すると光輝さんは目を見開き、立ちあがる。

 カクはツカツカと早足に店の出入り口に向かった彼に向かって言った。

「神降ろしは今後も有効だ。〝その人〟が悪いものに囚われているなら、僕は神様として力を貸すよ」

 店を出る前、光輝さんはカクを振り向いて言った。

「――――ありがとう」

「私も行ってくる!」

 店を出ると、私たちは新宿三丁目の雑踏のただ中にいた。

 横手を見ると、あの大柄な迷い人がポツンと立っている。

「…………兄貴?」

 光輝さんが呟くと、通りすがった人たちが危ないものでも見るような目で、チラッと一瞥する。けれど光輝さんは構わず迷い人に声を掛けた。

「兄貴なんだろう? ……千秋ちゃんの居場所を知っていたから、ずっと教えようとしてくれた。……兄貴、ずっと〝橘〟の香水をつけてたもんな?」

 迷い人はしばらく立っていたけど、また私たちを導くようにゆっくり移動し始めた。

 私と光輝さんは〝彼〟のあとをついて歩き、新宿三丁目駅から池袋行きへ乗り、赤坂見附駅で乗り換えをして銀座線に乗った。最終的に下りたのは京橋駅だ。

 それから銀座の街並みを歩き、向かったのは築地方面。

〝彼〟は周りの景色を惜しむような足取りで、ゆっくりと歩みを進めていた。

 やがて私たちは橋川神社に着く。

 もうそろそろ終電の時間になるからか、神社には人の気配はない。

〝彼〟はライトアップされた鳥居の前で一礼し、境内に入っていく。やがて〝彼〟は拝殿の前で立ち止まり、二礼、二拍手をしたのち、しばし頭を下げて何かを願う。

 そして一礼したのち、私たちに向き直った。

 私たちはどうしたものか逡巡するも、光輝さんが恐る恐る言う。

「……俺に祓えと言っているのか?」

 その問いに、〝彼〟は静かに頷く。

「~~~~っ、…………っ、俺に……っ、――――兄貴を……っ」

 光輝さんは堪えきれずまた涙し、本当の別れを告げようとしている和輝さんに訴える。

「――ごめん……っ、本当に、……ごめん。悪かった。――――許してほしい……っ」

 俯いて肩を震わせる光輝さんに、〝彼〟はゆっくりと近づいてくる。

 そして抱き締めるようにその黒い靄で包むと、光輝さんは泣き笑いの表情で呟く。

「……本当だ。〝橘〟の匂いがする」

〝彼〟が少し離れると、光輝さんは涙を流して謝った。

「…………本当にごめん。恨まれてもおかしくない事をした。……苦しかったよな。……つらくて、死ぬのなんて嫌だったに決まってるのに……。――――ごめん……っ」

 最後はかすれた、絞り出すような声で謝り、光輝さんは肩を震わせる。

 彼はしばらく葛藤していたけれど、「待っててくれ。ちゃんと送りだす」と言って歩いていった。

 私は夜の神社で〝彼〟と二人になったけれど、まったく怖くなかった。

「ずっと見守っていてくれたんですね。私の体の場所を教えてくれようとしていたのに、気付けなくてすみません。……怖がって、悪者扱いしてごめんなさい」

 心からの謝罪をすると、〝彼〟は首を横に振るようにユラユラと頭部を揺らした。

「導いてくれて、ありがとうございます!」

 お礼を言うと、〝彼〟は一つ大きく頷く。

「……光輝さんがいないから告白するんですけど、私、彼が好きです。とても優しい人で、奉納の舞いをしている時の姿にめっちゃときめいたんです。……少し頼りない所もあるけれど、そこがいい」

〝彼〟は黙って私の言葉を聞いてくれている。

「まだ学生なので恋愛対象として見てくれるかは分かりませんが、頑張ってみますね」

 そう言うと、〝彼〟はまるでガッツポーズをとるように腕を動かした。

 その時、白い着物と袴を穿いた光輝さんが腰に刀を差して歩いてきた。