幽香の庵

「緋一さん! なんでこの女を入れたの!?」

 家の中には柚良がいて、予想通りの修羅場に直面した私は頭を抱える。

 おまけに緋一さんの家は、整頓されているのにやけに暗く淀んでいるように思え、具合が悪くなった。

 光輝さんも空気の悪さに顔をしかめたけれど、沙織さんは気づいていない様子だ。

 沙織さんは柚良がいる事を予想していたのか、たじろがずに言った。

「ずっと聞きたかったけど、どうして私を避けるの? 前は毎週店に来てくれたし、近況報告をしてくれた。〝彼女〟ができてそれどころじゃなくなったのは分かるけど、いつから年下趣味になったの? あなた、前に『学生に興味はない』って言ってたじゃない」

「お前みたいなババアより、若いほうがいいだろうが」

 緋一さんが顔を歪めて言い返した瞬間、沙織さんは思いきり彼の頬を叩いた。

「馬鹿!!」

 彼女は確かに怒っていたけれど、涙ぐんだその目は深い悲しみに彩られていた。

「緋一はそんな人じゃない! 馴染みに『ババア』なんて言わないし、自分を慕う後輩には優しく接したし、皆に好かれる人徳のある人だった! ……あんた、いつからそんな情けない男になったの!? 私の緋一を返して!」

 涙声で訴える沙織さんを見て、彼は一瞬動揺したようだった。

 けれどそれに柚良が反発する。

「あんた、彼女でもないくせに何でしゃばってるの!? 勝手に他人の家に入ってギャーギャー喚いて、迷惑なおばさんですこと。緋一さんの彼女は私なの! お呼びでないババアは消えてくれない!?」

 親友がヒステリックに叫んでいる姿を見て悲しく思った私は、光輝さんに合図を送った。

「分かった」

 彼は返事をしたあと、スッと息を吸ってゆっくり吐き、目を閉じて集中を高めていく。

 そして厳かな声で祝詞を唱え始めた。

「掛(か)けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小戸(たちばなのおど)の阿波岐原(あはきはら)に……」

 あとから教えてもらったけれど、この時光輝さんが唱えていた祝詞は、祓詞(はらえことば)といって穢れを祓うためのものだそうだ。

 彼が祝詞を唱え始めた瞬間、どこからかシャンッと清らかな鈴の音が聞こえた。

「ぐうぅっ……」

「あぁああっ!」

 同時に緋一さんと柚良が苦しみ始め、私はたじろいでいる沙織さんに寄り添って二人を見つめる。

「……祓(はら)え給(たま)え清め給えと白(もう)す事を聞こえし食(め)せと……、恐(かしこ)み恐みも白す……」

 光輝さんは目に見えない大麻(おおぬさ)をサッ、サッと振って恭しく頭を下げたあと、顔を上げて目を開く。

「あっ……」

 金色になったその目は、この世ならざる何かをしかと見据えていた。

 彼は腰に提げている目に見えない刀を手に、遠くを見たまま両手で掲げるように神様に捧げ、迷いのない足さばきで淀みきった空間を切り、ダンッと力強く足を踏み出す。

 光輝さんが舞うたびに、どんどん空気が清浄になっていくのを感じる。

 緋一さんと柚良の体からは黒いものがモヤモヤと揺らめきながら抜けていき、光輝さんが発する清らかな力にかき消されていく。

 私は彼の奉納の舞いを見ながら全身に鳥肌を立たせ、感動のあまり涙を浮かべていた。

(格好いい……)

 初めて光輝さんを見てイケメンだと思ってから、ずっと彼を気にしてきた。

 でも私はミーハー気質だし、出会ったばかりの彼を意識するのは、ただ顔がいいからだと思って自重してきた。

 けれど今、彼が真剣に舞っている姿を見て強く感じた。

 ――私、この人の事が好きだ。

 宙を舞う髪の動き、真剣な眼差し、神様に対して真剣に心を捧げられる純粋さ。

 清く尊いものを前に私は心を震わせ、両手をギュッと握って食い入るように光輝さんを見つめていた。

 光輝さんは目に見えない刀を持って舞い続け、最後に両手で恭しく刀を奉納したあと――――、それを両手に構え、彼だけが見える乖離線を見据える。

「…………寄る辺なき者よ、在るべき所へ帰れ」

 光輝さんは低く呟いたあと、上段に構えた見えない刀をスッと振り下ろした。

「ぐぁっ……」

「あぁっ!」

 その途端、緋一さんと柚良は糸が切れたように崩れ落ち、倒れ伏す。

 同時にどこかで何かが割れた音がし、どんよりとしていた空気がパンッと晴れた。