幽香の庵

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 店主が淹れてくれたのはミルクティーで、テーブルの上に置かれたガラスのティーポットには、ツンと尖った葉が入っている。豆皿に入ったチョコレートも出してもらえた。

「レモンバーベナのハーブティーだよ。リラックス効果がある。ミルクで割ってるからお腹にも優しいはず」

「ありがとうございます。……あの、とても失礼な質問なんですが、店長さんは男性ですか? 女性?」

 昨今、ジェンダーの話題が取り沙汰になる中、我ながら無神経な質問をしている自覚はある。けれど相手が〝どちら〟なのか分からないと不安に思う自分がいた。

 怒らせてしまうかな? と思ったけれど、店主はニコッと笑って言った。

「私は宇津美凪(うつみなぎ)。常連さんからは『凪さん』って呼ばれてる。だから君もそう呼んで。君は何ちゃん?」

「私は羽根谷千秋と言います」

「オッケー、千秋ね」

(……『何ちゃん?』って聞いた割には呼び捨てか)

 私は思わず脱力する。でもやっぱり、不思議とこのフランクさが嫌じゃない。

「私の性別についてだけど、どっちに見える?」

 向かいに座った凪さんはそう尋ね、意地悪そうに笑う。

「え……と。……女性?」

 どちらにも見えるけれど、私の回りにここまで美しい男性はいないからそう答えた。

 すると凪さんはニヤリと笑って曖昧な返事をする。

「じゃあ、女性と思っていいよ」

「なんかそれ、ズルくないですか?」

「あはは! 何でも白黒ハッキリつけなくていいんだよ。曖昧にしておいたほうがいい事
もある。〝どちら〟なのか分かったほうが納得しやすいけど、世の中そう簡単じゃないんだ。すべてのものはグラデーションになっていて、自分を女性と思っている千秋の中にも、男性っぽい部分があるかもしれない」

 確かにその通りだ。

「失礼な質問をすみませんでした。お気を悪くしましたか?」

「いいや? まったく」

「良かったです」と言ったあと、私は外の黒い靄について話す事にした。

「私、お化けを見たかもしれないんです! 外に黒い霧状の人がいて、それに追いかけられてこの店に入ったんです」

 凪さんは脚を組んで私の話を聞いていたが、お茶を一口飲んでから言った。

「今はまだ外に出ないほうがいいと思うよ。魔除けを作る事はできるけど、千秋の場合は根本的な対処をしないと、この状況を打破できない」

「魔除け? ……あの黒い靄はやっぱりお化けなんですか? 私、霊感ないのに……」

「私は彼らを〝迷い人〟って呼んでる。千秋が考えている存在だと思っていい」

「迷い人……」

 私はオウム返しに言って腕時計を見る。

 時刻は二十時半を過ぎていて、そろそろ帰らないといけない。

「あの黒いのが怖いから、親に迎えに来てもらおうかな」

 そう思った時、自分がバッグを持っていない事に気づいた。

「えっ!? ヤバッ……」

 私は顔面蒼白になり、ポケットをまさぐる。けれど硬貨一枚すら入っていない。

「……スミマセン……。オカネガアリマセン……」

「そのようだね。身一つなのは見れば分かるよ」

 凪さんは調子を崩さず、飄々と言う。

「……私、そんなうっかり屋じゃないんです。いや、人間だから忘れ物ぐらいしますけど、バッグごと忘れるなんてないですよ?」

 家は三鷹にあり、徒歩だと三時間はかかるだろう。

「あの、電話を貸していただけませんか? 迎えに来てもらうので……」

「別にいいけど、多分話せないと思うよ」

 凪さんはそう言うと、ポケットから赤いカバーのついたスマホを出す。

 私は「変な事を言う人だな」と思いながらお礼を言い、自宅に電話をかける。

 やがてコール音が鳴り、《もしもし》と母の声がした。

「もしもし、お母さん? 私、千秋。悪いんだけど、新宿まで迎えに来てくれないかな? バッグごと忘れちゃったみたいで、身動きできないんだ」

 そう言ったけれど、母は何も言わない。

《もしもし?》

 母は何も言わないどころか、私の声が聞こえないと言わんばかりに聞き返し――、《なんなの、もう……》と言って電話を切った。

「…………え?」