幽香の庵

 兄貴は実家の神社で働いているけれど、神社の近くにある物件で一人暮らしをしていた。

 女子大で学んでいる妹は、化粧品が好きなのでその関係に入社したいらしい。

 俺は祖父や父が望んだ通りに神道系の大学に通ったが、どうせ神職に就くなら、その前に少しぐらい普通に働きたいと思った。

 ――このままでは〝普通〟を知らないまま人生を終えてしまう。

 祖父と父に頼み込んだら、兄貴の口添えもあって『三十歳までなら』という期限付きで了承を得られた。

 宮司とは一社における責任者で、神社における職名だ。

 大きな神社には権宮司(ごんぐうじ)という副宮司がいて、禰宜(ねぎ)は神職についている人をざっくりと指す事が多い。その下に権禰宜(ごんねぎ)という一般職員、見習いである出仕(しゅっし)がいる。

 さらに神職には階位があり、上から浄階(じょうかい)、明階(めいかい)、正階(せいかい)、権正階(ごんせいかい)、直階(ちょっかい)に分かれている。

 これは神社本庁の階位検定委員会の選考を経て決められるもので、養成所出身か、大学出身かなどで左右される。

 加えて特級、一級、二級上、二級、三級、四級という身分に分かれ、それに応じて穿く袴の色が異なる。

 これは経歴や人格、功績などで左右され、会社での役職みたいなものだ。

 祖父は二級上の宮司で、紫に藤の丸の文が入った袴を穿いていて、父は二級の禰宜で紫無地の袴だ。兄貴は三級で浅葱色の袴を穿いている。

 階位が直階なら四級からのスタートとなるが、権正階以上の位を持つなら三級からのスタートとなる。

 禰宜となるための養成所を出た人は正階の階位を得て、すぐに神職として働ける力がある。いわば養成所は世間で言う専門学校的な位置づけだ。

 その上の明階は大学を出て数年神職の経験を積んだ者に授与され、大きな神社の宮司、権宮司になるにはこの階位以上が必要となる。

 俺はこの明階を得るためにエリート教育を受けて今に至っているのだが、土壇場になって普通の社会人経験をしたいと言い始めたので、祖父や父には酷く落胆された。

 しっかりお膳立てされて、あとは実際に神職に就いて働くだけなのに、下積みとなる時期を放棄すれば、それだけ結果を出すのが遅くなる。

 父が有している二級神職の身分も、三級神職を十五年以上こなさなければ得る事はできず、それだけ神職として過ごす時間は大切なものなのだ。

 本当はきちんと修行をしたほうが自分のためになるし、期待にも応えられる。

 だが友人が就職して彼女を作り、沢山遊んで結婚する傍ら、俺は大学を卒業したらすぐ家の神社で働き始め、顔を合わせるのは家族だけ。

 友人と人生経験の差がついてしまうように思えて、とても恐ろしかった。

 だから祖父と父に土下座をし、『普通の生活を経験してみたい』と頼み込んだのだ。

 一応認めてもらえたものの、たまに神社の雑務を頼まれる事もあり、その時はバイト扱いで働く約束をした。

 森浜フーズに就職した時も、実家が神社である事や三十歳までの勤務である事は話してあり、昇進しない前提で籍を置かせてもらっている。

 その事情は上層部や人事部だけが知っている事で、一般社員が知るはずはなかった。

 けれど、いつからか『壱島くんって神主の息子なんだって?』と言われ、俺が神道の大学出身である事も知られてしまった。

 それだけでなく、『壱島はいつか会社を辞めて神主になる』という噂が広まっていった。

 嘘ではないが、伏せられているはずの事なのに、なぜそんな噂が流れてしまったのか。

 人事部の人は口が固いと信じているが、もしかしたら俺の不真面目さに苛立った人が、話を広めた可能性はある。

 だからなのか、神野さんには『本気じゃないなら辞めちまえ』と言われたし、周りの人にも『会社を辞めても太い実家があるお気楽な奴』扱いをされている。

 そんな中、緋一さんは俺を気遣ってくれ、先輩として優しく接してくれた。

 彼は俺の家の事情は聞かず、営業というハードな仕事をいかに楽しむかを語り、ちょっとしたコツや、取引先相手との逸話も教えてくれた。

 はみ出し者を放っておけなかっただけかもしれないが、俺は彼にこの上ない恩を感じた。

 その一方で、俺は〝視える〟者として色んなものを目にし、他者の気分や状態で変化する匂いを鋭敏に感じていた。

 神野さんはいつも何かに苛立っているようで、燻ったような匂いをさせていた。

 他の同僚も酷い疲労や悩みを抱え、中には憑かれている者もいた。

 けれど俺は神道系の大学を卒業しただけで、そういう人を祓う力は持たない。

 祝詞は唱えられるが、神職についていない者が口にすべきではないと思っているし、祖父や父から『一般人が遊び半分で祝詞を唱えるな』ときつく言われたのもある。

 そもそも、『お祓いが必要ですよ』なんて言ったら、不気味がられるだろう。

 だから俺は視えるとは言わず、ごく普通のサラリーマンとして過ごしていた。





 今年のゴールデンウィーク頃から、兄貴はその身に〝黒い何か〟をべったりと憑かせていた。

(視えるだけの俺じゃ対処しきれない)

 俺は慌てて祖父に兄貴の状態を話し、お祓いしてもらうよう訴えた。

 祖父は最初、なぜか渋ったが、必死に頼むと承諾してくれた。

 しかしその黒いモノが兄貴から離れる事はなかった。