幽香の庵

 低い声がし、ハッと横を見ると光輝さんにカクが降りていた。

《我を誰だと心得る。神に向かって汚い口を利くつもりか。――――疾(と)く、去(い)ね》

 カクは柚良を見据え、低く轟く声で告げる。

 いつもの軽さからは想像できないカクの迫力に、私は全身に鳥肌を立てた。

 これが神様の気配なんだろうか。

 普段の光輝さんから香る匂いに混じって、桃みたいな甘くていい香りが加わっている。

 馥郁とした香りにうっとりとしかけるけれど、全身に伝わるピリピリとした覇気を前に、緊張を解く事ができない。

 私は自然と背筋を伸ばし、冷や汗を垂らしてテーブルの上を見つめていた。

 今までは気やすくカクと話していたのに、畏れ多くて隣を見られないし、顔を上げる事もできない。

(……こんなに凄い力を持っていたなんて……)

 ただ俯いて、神の怒りが収まるのを待っていた時――。

「ア……、アァアアアァアアァアアァ…………」

 柚良が肺の奥から絞り出すような声を漏らし、私はハッと顔を上げる。

 するとガクンと俯いた柚良の体から黒い靄がユラユラとたなびき、蒸発するように消えていったのが見えた。

「…………っはぁ……」

 光輝さんが溜め息をつき、疲れた表情で髪を掻き上げる。

「……柚良?」

 私は声が届かないのを承知で、親友の名前を呼ぶ。

 柚良は少しの間俯いて体を揺らしていたけれど、呆けた顔を上げると緩慢な動作で立ちあがり、光輝さんを無視して店から出て行った。

「……っ、カ、カク! 大丈夫なの!? 柚良は大丈夫?」

 今はもう光輝さんに戻っていると分かりながらも、私は必死にカクに確認する。

 するとカクが現れて言う。

《ぶっちゃけ彼女は憑かれてて、ムカついたから軽くひと祓いしたよ。でも根本的な対処をした訳じゃない。今の彼女は夢から覚めたばかりの状態だけど、周りの状況は判断できるから、事故に遭う事もなく帰れるよ。何も言わず行っちゃったのは、僕が『去ね』って言ったから》

 カクから説明を受け、私は安堵して溜め息をつく。

「とりあえず、ありがとう。迷い人にもお祓いできるの? あっ、今のやつ、光輝さんに害はない?」

 矢継ぎ早に質問すると、カクは溜め息混じりに答えた。

《祓えるけど、本格的なお祓いは神職がいてこそ成り立つ。光輝が祝詞を唱え、神楽を舞うとかでない限り、大物は祓えない。僕が神気を発して散らせるのは小物だけ。神様は本来なら神社で祀られているもので、今の僕はリモートワークしてるようなもん。本社に出勤しないと百パーセントの力は出せないワケ。……あと、こうやって僕の力を使うと、光輝にもある程度の負担はかかる。僕と光輝の間にパイプが通ってるって言ったけど、力を使う時だけパイプを太くして、物凄い圧で力を通してるって言ったら分かる?》

「う……、うん」

《最初に言った通り、光輝はポテンシャルが高いから、小物を祓うぐらいなら大丈夫。パイプの圧を高くしても耐えられるかは修行次第だけどね。でも、素人同然の光輝に害を与える真似はしないから安心して》

「……分かった。ありがとう」

 お礼を言うと、カクはフッと姿を消した。

 戻った光輝さんは溜め息をつき、私のほうを見て微笑む。

[びっくりしたけど、やっぱり悪霊が憑いてたんだね]

「……もしかしたらあれは柚良の本心かもしれないけど、少なくとも私の知っている彼女は、ああいう事を言う子じゃないです」

[真に受けなくていいと思うよ。『魔が差す』って言葉があるけど、普段の自分なら絶対に言わない事を言ってしまう事はある。柚良ちゃんは取り憑かれていたからああなった。今はそう思っておこう。……親友なら、体を見つけたあとに面と向かって話してごらん]

「……はい!」

 私が頷いた時、黒いブラウスにパンツ、カフェエプロンをつけた店員さんが来た。

(まずい! 騒いでいたから注意しに来たのかな)

 ギクリとしていると、店員さんは光輝さんに話しかけた。